第10話 決断の天秤と、満月が照らす運命
黒い封筒の衝撃から一夜。
……いや、正確には一睡もできていないので、ただ時間が経過しただけなんだけど。
私の目の下には、それはもう芸術的なクマが鎮座ましまし、顔色は青白い通り越して若干緑がかっているかもしれない。セーラ曰く「まるで幽霊船の船長さんのようですわ、アリア様!」とのこと。褒めてないわよね、それ!?
「アリア様、本当に行かれるおつもりですか……? やはり危険ですわ!」
朝食の(もちろん私は喉を通らない)席で、セーラが心配そうに眉を寄せている。
そうなの。私、決めかねているの。
あの恐怖の呼び出し状、「一人で来い」ってやつ。
行かなければ、この国に、そして私にどんな災厄が降りかかるか分からない。
でも、行けば、私が無事に帰ってこられる保証なんてどこにもない!
どっちを選んでもバッドエンド直行便な気がするんですけどぉ!
(うぅ……こんな時、乙女ゲームなら選択肢が出るのに……。『A:勇気を出して灯台へ行く』『B:セーラと一緒にこっそり様子を見に行く』『C:カイ様とフィンレイ様に全部ぶちまけて助けを求める』……Cを選びたい! 心の底からCを選びたいわ!)
でも、現実は非情である。選択肢なんて便利なものは用意されていない。
しかも、「一人で来い」という指定付き。
カイ様やフィンレイ様に相談したら、あの過保護な(失礼)お二人(主にカイ様)が黙って見ているはずがない。騎士団総出で灯台を包囲しかねないわ。そしたら、相手が逆上して……あわわわわ、余計に事態が悪化する未来しか見えない!
「……大丈夫よ、セーラ。わたくしはアクアティアの領主代行ですもの。民のためなら、火の中水の中……た、たぶん……」
声が震えているのは、きっと気のせいじゃない。
その日一日は、何をしていても黒い封筒のことが頭から離れなかった。
書類仕事をしていても、文字がミミズみたいにのたくって見えるし、フィンレイ様の説明も右から左へスルーパス。
(ごめんなさいフィンレイ様、今日の私、ポンコツ度がいつもより三割増しなの……)
ふと、執務室の窓から外を見ると、空には白い月がぼんやりと浮かんでいる。
……明日の夜は、満月。
ゴクリ、と喉が鳴る。
時間がない。決めなくちゃ。
その夜。
私は、自室のベッドの上で、父の形見である『領主の仮面』 をじっと見つめていた。
これを着ければ、私は「領主アリア」になれる。冷静で、威厳があって、的確な判断ができる(はずの)私に。
(でも、今回は「一人で」なのよね……。仮面を着けていったら、それは「領主アリア」が行くことになる。素顔の、ただの怖がりなアリア(中身はねむ)が行くのとは、意味が違うかもしれない……)
もし、相手が本当に私個人に用があるとしたら?
アクアティアの領主としてではなく、アリア・ルミナ・アクアティアという一人の少女に。
……考えすぎよね、きっと。どうせろくでもない相手に決まってるわ。
でも、万が一、万が一よ?
この呼び出しが、アクアティアにとって、何か重要な意味を持つとしたら?
父が守ろうとしたこの国を、私がみすみす危険に晒すわけにはいかない。
「……よし」
私は、小さく呟くと、仮面をそっと元の場所に戻した。
そして、クローゼットから、一番動きやすくて、一番目立たない、濃い色の簡素なワンピースを取り出す。フードもついているから、顔も隠しやすいはず。
「セーラ、ごめんなさい。わたくし、やっぱり行ってみるわ」
翌朝、朝食の席で(やっぱり私は食べられなかったけど)、私はセーラにそう告げた。
「アリア様!?」
セーラの瞳が見開かれる。
「でも、もしものことがあったら……!」
「大丈夫。もしもの時は……そうね、カイ様に助けを求めるわ。あの人なら、きっと何とかしてくれるもの」
(カイ様、ごめんなさい。勝手に期待してます。そして、できれば本当に助けに来てください……!)
そして、運命の満月の夜。
私は、セーラにだけ行き先を告げ、フードを目深にかぶり、お守りとして「海神の涙のかけら」 () をきつく握りしめ、城をそっと抜け出した。
もちろん、胃薬は普段の倍量飲んできたわ。気休めにしかならないけど!
夜の港町は、昼間の活気とは打って変わって、静まり返っている。
波の音と、遠くで鳴く夜鳥の声だけが聞こえる。
そして、海を見下ろす崖の上に立つ、灯台のぼんやりとした灯り。
(こ、怖い……。やっぱり帰りたい……。でも、ここまで来たら……)
一歩、また一歩。
灯台へと続く、暗い石段を登る。
心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
まるで、私のすぐ後ろを、何かが追いかけてきているみたいに。
(ひぃぃぃ、もうダメ、泣きそう……! お母さーん!)
灯台の麓。
約束の場所には、まだ誰もいないように見えた。
ただ、満月だけが、煌々と私と、そして私の長い影を照らしている。
その時だった。
「……来たか、アクアティアの姫君よ」
背後から、低く、そしてどこか聞き覚えのある声がした。
まさか、この声は――!?




