『闇の涯』 第8回
4. クシュナ ── 森暦某日
継承の儀を終えたばかりの新覇空主、ハクバスは、玉座の上でそわそわと落ち着かない様子だった。周囲には彼の弟妹たちが並び、兄は本当に大丈夫なのだろうか、と、不安と苛立ちが綯い交ぜになっている様子が見て取れる。
(このような事になるから、日頃から《寄生木》の動かし方を身内に共有しておくべきだったのだ。見ろ、ハクバスがもたもたしている間に、《蝮》どもが領内を平気な顔でうろつき回っている)
クシュナは心の中で毒吐いたが、その気持ちが上辺に出ないよう注意を払いつつ、彼に跪いた。ハクバスは、不安の込もった目で自分を見てくる。彼にとってクシュナは自らを守る親衛隊長以外の何者でもなく、覇空主のみぞ知る恐ろしい暗殺者だという事についてまだ実感が湧かないのだろう。
華々しいヨド氏の歴史を裏で導いてきたのは、常に自分たちのような目立たぬ汚れ役たちなのだ。クシュナはそう思うからこそ、自らを親衛隊長であるという以前に《寄生木》の長として認識していた。
「《蝮》──サナ氏の工作員どもは、招霊器を奪って逃亡しました。システムハックを行う時間はなかったものと思われ、工業団地の各監視映像に記録がしっかりと残されています。衛星画像を確認すれば、より正確な足取りも掴めるでしょう」
「うむ」ハクバスはぎこちなく肯く。「だが、今日中でなければならないぞ。擬界内の時間経過は、こちらでは一日でも一年五ヶ月。クシュナ、其方の報告通りならば、我々は実に十七年間、サナに欺かれていた事になる」
──言われなくても分かっている。
まだやや甲高い覇空主の声を聞きながら、クシュナは内心で呟く。
「まさか、このような目的の為に刻印獣を使う事になろうとはな」
ハクバスの横に立っていた、彼の叔父の一人であるハザクが独りごちた。
「招霊器は、プラントにあるものだけが全てではない。獲龍宮の装置を使えば、お前も擬鉄界へ潜行出来る。時間的な余裕を考えて、そちらの方がやりやすいのではないか」
「お心遣い、感謝します」クシュナは頭を下げる。「しかし、問題は《蝮》の連中も招霊器を掌握した点にあります。ヤシロの男児がこちらの世界に現れるならば、そちらの方が都合が良い。森界と擬界の時間差を鑑みるに、我らが領内へ潜入した《蝮》が再びサナ領へ引き返すゆとりはないでしょう。ヤシロの子がこちらに現れた時、ヨド領内であれば我らの包囲網が使えます。無論、事が擬界で完結出来るのであればそれに越した事はありません。そこで……」
ちらりと、背後に跪く大柄な男を見やる。禿頭に、それとは対を成すかのような針金の如き髭。目は、顔半分を覆い隠す程大きな保護眼鏡で隠されている。
「クシュナ隊長が、ヤシロの子の本体を押さえます。その間に、私めが擬鉄界を刻印獣にて攻撃します。同時に擬鉄界には、《蝮》の長の妹たる娘も侵入している模様。我々は両界からの連携攻撃により、本体と魂、どちらも確実に葬ります」
「ギルファン」開口したのは、ハジャトの長女ハズリだった。「確かに、我らが早期に子を掌握してしまえば、招霊器を用いて奴が浮上する事は出来まい。しかし、報告によると既に最初の刻印獣が破られたそうではないか。クシュナが直接手を下さずして、本当にそのマルウェアとやら、大丈夫なのだろうな?」
「ご心配には及びません」
ギルファンは低頭したまま、自信の滲む声で言った。
「刻印獣は本来、擬鉄界の鉄器族が技術的特異点に到達した時、全てを初期化する為に生み出されたプログラム。私が既にモデリングし、実行可能な状態にあるものだけで、既に鉄界の人口を殲滅し得る倍以上の量が存在しています」
5. 志総経之 ── 西暦二〇五五年 五月十六日
「……そうですか。分かりました、ご連絡ありがとうございます」
鳳栖学園大学物理学部主任研究員、志総経之はスマートフォンを側頭部に当てたまま、向こうの警察からは見えないにも拘わらず深々と頭を下げた。ちらりと目を動かすと、大学の後輩でもあった夫婦の研究員の、期待と不安の同程度に滲んだ視線と自分の視線がかち合った。
経之がゆっくりと首を振ると、彼らの表情がたちまち失望に変化した。
「まだ、見つからないのですね……星紀も、デイン殿も」
階夫妻の妻の方、寛美が声を出した。
「ヤサム殿のご息女──ムウ殿といったか。彼女が昨夜のうちに、禎宣を連れて行ったかのかもしれない」経之は言い、眉間を揉む。「刻印獣騒動があって、私たちや星紀君に事情を話す時間がなかった……いや」
言ってから、自分で否定する。刻印獣は、刀を使い、魔法のような攻撃を行う少女によって討伐された──それは、昨日一日を通して多くの目撃者が証言した事だった。その少女がムウである事は、世界の真実を知る経之たちにははっきりと分かる。彼女が、刻印獣が暴れ回っている最中にデインを現実に連れ出したという事は有り得ないのだ。
「志総さん、少し休まれては如何でしょうか?」
寛美の夫、秀夫がおずおずと言った。「もう、二日近く眠っていないでしょう、精神的な疲れだって溜まっているはずです。こんな事を言っては失礼かもしれませんが……まだ志総さんは、現実を受け止めきれていないように見受けられます」
「………」経之が無言で見つめると、彼は「いや」と付け加えた。
「今も、デイン殿の事を『禎宣』と……我々の間では、本名での呼称が約束ですよ」
「……やれやれ。ヒデに、そこまで気付かれるとはね」
経之はふっと息を吐き出し、倒れるように椅子に座り込んだ。
「私は、心の何処かでこの時が来るのを恐れていたのかもしれない。彼が本当は私の子ではないと理解しながら、私は彼を禎宣と重ねていた。いや、それも正確ではない。私が彼を引き受けたのが、そもそも禎宣の居なくなった穴を埋める為の私的な都合だったのかも」
そこまで言ってから、「駄目だ」と額を叩く。後輩の前で、プロジェクトの現責任者である自分が泣き言を吐いてどうするのだ。そう思ったが、階夫妻は
「無理はありませんよ」「いちばん辛いのは、志総さんなのですから」
何処までも優しかった。
それが、経之には余計に申し訳なかった。
「思えば君たちにも、私はあまりにも惨い事を強いすぎた。一週間計画の終了時、星紀君に行った事は、ここ擬鉄界に生きる私たちという存在そのものへの冒瀆だ。そう糾弾されても、私は否定出来ない。せめて、もう一度皆に会って……彼らが一体、何に巻き込まれているのかという事をきちんと説明せねばなるまい」
* * *
ムウから電話が掛かってきたのは、一昨日の日付が変わる頃だった。招霊器を使用して《臨空の盾》がこちらの世界へ潜行してきた際の窓口となるよう、返霊器のある実験室は何人たりとも立ち入り禁止としてある。鍵も、大学のものでありながら経之が管理していたので、中に現れたムウはそのままでは部屋の内側から鍵を開け、外に出る事が出来なかった。
経之たち「ヒミツ」は、森界から《臨空の盾》がやって来た時の事を考え、室内に固定電話と経之の電話番号を控えたメモを置いていた。ムウがそれでこちらに連絡をつけてきた時、経之は一瞬、相手が誰なのか分からなかった。
『私、ムウです。ヤドクの妹の』
ヤサムが亡くなった後、彼の息子であるヤドクという青年が組織を継いでいる事は知っていた。また、彼に妹が居た事も。ヤサムがデインを自分に預けるべく潜行してきた際、まだ彼女は一歳になるかならないか、という年齢だった。
聞き覚えのあるムウという名前を出された事で信用した経之だったが、何故デインを迎えに来たのがヤドクではなく彼女なのか、という事についてはきちんと尋ねた。ムウはそう聞かれるや否や泣き出しそうな顔になり、招霊器への接続直前に彼がヨド氏の武術者によって致命傷を負わされた事、恐らくはもう生きていないであろう事などを自分たちに告げてきた。
経之がヒミツの代表のポストに就く以前から、知っていた相手だ。その彼が、自分よりもずっと若い年齢にして、最後の挨拶も出来ないまま死んでしまった──。
『こちらの世界では、あまり焦る必要もありません。デイン様にも様々な事情がおありでしょうし、今はさすがに常識外れな時刻ですから……明日のうちに、彼に重要な話があるという旨のみをお伝え下さい。会合は、その夜に開きましょう』
大学に進学してから彼が家を出、一人暮らしを始めた、という事を語ると、ムウはそう言った。経之もこれを承諾し、あの夜中、密会の為に彼を研究室に呼び出した。自分が研究棟に泊まり込んでいたのはこの為だった。
そして、ムウと共に彼を待っている間に刻印獣が現れてしまった。ムウは、気丈にもそれを食い止めねばならないと宣言し、大学の外に飛び出して行き──今まで戻って来ていない。あの時間帯、刻印獣の影響で通信プロトコルがコンバートされ連絡が途絶したのを境に、デインとも繋がらなくなった。また階夫妻によると、彼らの息子である星紀とも似たような状態だという事だった。
自分が初めて空魔族と会った時、擬鉄界と現実の時間の流れは等しくなっていた。サナ氏の長ヤシロが、一世一代の大魔法である「三十歳の堤」を外部から擬鉄界に施していた為だ。それが今、通常の流れに戻っている。五百二十倍──それがどれ程、誰かの生命や約束を呆気ないものにするのかを、経之はよく知っていた。
* * *
ムウと星紀に再び連絡がつき、彼らが経之の前に現れたのはその五日後、五月二十一日の事だった。




