『闇の涯』 第7回
頭を止めてはいけない。考え続けなければ。
僕はそう思い、自らを叱咤激励しようとしたが、上手く行かない。目の前の光景を認める事を、脳ではない”心”が拒絶していた。
ここで培養液に浸けられ、標本の如く保存されている者たちが本物の人間?
幾らこの部屋が広いとはいえ、二〇五〇年を過ぎた時点で百億に到達しようとしていた人口の全てが、この部屋に集中しているはずがない。恐らく、僕が今まで「現実」だと信じていたあの世界で、プログラムを複製するような手順で生まれた者も居るだろう。僕もその一人であり、この世界では肉体がない。それこそが、ムウの口にした「本体を持っていない」という事なのだろう。
現実……では、僕たちが今まで居た世界は?
「ショックなのは分かるよ、星紀」ムウが言い、茫然自失となった僕の腕を引いて防御結界の中へ戻した。「だけど、余裕はないの。こっちで一分過ごす間に、擬鉄界では八時間四十分経ってしまうのよ。謎の怪物に甚大な被害を出されて、向こうの学校も臨時休校になるかもしれない。だけど、それは永遠じゃない。あの人だって、そんなに長い時間あなたが居なくなったら心配する。せいぜいこっちでは、二十分間程度が滞在可能な限界だと思った方がいい」
「擬鉄界?」
「あなたの居たあの世界は、ヨド氏が作った仮想空間。招霊器でここに居る人たちの魂を接続して、汎用人工知能として運用しているの。本物の鉄界は、もうヨド氏の魔科学技術の前に滅ぼされてしまった」
「い、今は……」僕は、自分でも笑いそうな程震えた声で尋ねる。「西暦何年なの?」
「……その暦も、もう使われていない」ムウは、辛そうに絞り出した。「今の暦は、空魔氏族の使っていた『森暦』。鉄器族の暦で何年に当たるのか、もう誰も知らない。確かなのは、星紀が居た擬鉄界の西暦二〇五五年から既に何百年も経っているって事。そしてその何百年もの間、世界はヨド氏に支配されている」
「だけどヨド氏は、人間を完全に淘汰しようとはしなかった……?」
擬鉄界──人間界=鉄界を模して造られた、超大型メタバース。今の今まで、僕はその仮想世界に対して、何の違和感も覚えなかった。あたかも物語の作中人物が、自分たちの生きる世界が虚構の内側だと、感知し得ないように。
しかし、既に世界がこのような状態になってから、幾星霜という時間が経過した。一体どれだけの時間を、ヨド氏はその仮想世界の構築に費やしたのだろう。
「ヨド氏は鉄器族と交流を持ってから、あまりにも急に科学を森界に取り入れすぎた」
呟くようにそう言ったのは、シンハさんだった。
「空魔族は、本来原始信仰を生活基盤とした種族でした。世界の殆どを森に覆われ、何世紀が過ぎても未開の地は発見されました。当然、現在の彼らが操るような科学も、それを臨空術と組み合わせた魔科学も、鉄器族と同等の速度で発展するはずはなかった世界なのです。そんな世界で、彼らは借り物である科学技術を自らのものとはしきれず、未だにその発展には鉄器族の手が必要なのです」
「つまり、五百二十倍に加速した擬鉄界を鉄器族の手で運営させて、ヨド氏は自分たちの台頭しなかった世界線の未来で鉄器族がどのような技術を生み出すのかを知る。観測したら、今度はそれを自分たちの科学体系に取り込む。言わば彼らは、鉄器族を技術の収穫出来る畑、みたいに扱っているの」
ムウは言い、私たちも、と続けた。
「私たち《臨空の盾》も、擬鉄界をある目的の為に利用していた」
「利用?」
「星紀、私が擬鉄界に潜行した理由を話すよ。……私たちは、十七年前擬鉄界に匿われた、氏族長ヤシロ様の跡取りを迎えに行くつもりだった。理由は、向こうで話した通りヨド氏の世襲に伴う混乱に乗じて、サナから反撃の狼煙を上げる為」
「こちらではつい先程、擬鉄界では一週間程前まで、五百二十倍の時間差は封じられていました。亡きヤシロ様の『三十歳の堤』によるものです。これは、我々と擬鉄界内の協力者との間で、ヨドを欺く計画を円滑に進める為でした」
シンハさんは、ムウの後を引き取った。
「ヨド氏にとって二大氏族の片割れである我々サナ氏は、自分たちの恒久的な森界の支配に於いて最も危険な存在でした。彼らは暗殺部隊《寄生木》を使い、我々に対して様々な破壊活動を仕掛けてきます。ヤシロ様のご嫡男、ヤクシャ様の怪死も《寄生木》が手を下した疑いがあり、我々は続いてお生まれになった次男、デイン様を隠す事を決定しました。ヨド氏の心理的死角となる、擬鉄界に」
数秒遅れて、僕はそうか、と納得する。
招霊器を掌握しているのはヨド氏であり、彼らは大前提として擬鉄界にはAI化された人間しか存在しないと考えている。当然だろう、これ程のシステムは、ムウたちにこそ侵入されてはいるものの、厳重なセキュリティで守られていなければおかしい。誰かを匿う為に、わざわざ擬鉄界を使用しようなどと考える者の方が珍しいはずだ。
ムウたちの行動はサイバー”攻撃”ではないので厳密には違うが、仕組み的にはソーシャルエンジニアリングの類に近いのだろう。但し、極めて博打的な。
「十七年前、ヤシロ様とヤサム隊長、そして私は、幼いデイン様と共に擬鉄界へ潜行、返霊器の安置されていた二〇三八年の世田谷区、鳳栖学園大学を訪れました。ヤシロ様が『三十歳の堤』を使用され、擬鉄界の時の流れを現実と同じ速度にされてから十三年が経過した頃の事です。この作戦は、綿密な計画と陽動を行った同志の犠牲により、ヨド氏に気取られる事なく遂行されました。
鳳栖大には、『ヒミツ』と呼ばれる研究グループがありました。我々《臨空の盾》の内部協力者たちです。彼らを束ねていた志総経之博士……我々があまりに、犠牲を強いすぎた男性です。デイン様は、彼に預けられました」
「志総教授が?」唐突に飛び出した禎宣の父の名に、僕は些か面食らった。
「はい。我々は彼に対して、感謝してもしきれません。そして、どれだけ詫びても詫びきれない……しかし、彼はデイン様を受け入れて下さいました。デイン様が物心つく頃になると、その尖耳の所以と、本当の生まれについても彼にお話しになり。デイン様も、逞しい男児であらせられました。自らの運命を受容され、それを幼い胸の内にしまい込まれたまま、ご成長なされたのです。誰にも話さずに」
シンハさんが微かに首を動かすと、集まっていた男たちがさっと場所を空けた。そこに誰かが仰向けに横たわっている。恐る恐る覗き込んだ僕は、何度目かの衝撃のあまり目の前が明滅したように思った。
ムウの言っていた、魂の抜けたような状態とはこのような事なのだろうか。眠っているのとは明らかに異なると分かる、ぴくりとも動かない人形のようなその若者は、禎宣の顔をしていた。しかし、今の彼よりもやや幼く、中学時代、男としての容貌がはっきりとしてきた頃に近い。そして耳は──ムウたちと同じく、尖っていた。
「禎宣……?」
「そう──志総殿のご子息は、そのようなお名前でした」
シンハさんが言うのを聞きながら、僕は今度こそ「有り得ない」と思った。
禎宣が異種族? 外見にこれ程分かりやすい特徴があるなら、十年以上共に過ごしてきた僕だ、気付かないはずはない。しかしそう思ってから、すぐに僕は自ら否定する。
僕は、今まで禎宣の耳を見た事がない。
彼はずっと、ヘッドホン型の補聴器で完全に耳を覆っていた。だが考えてみれば、それこそが彼が、自ら空魔族だという事を理解して他人の目に触れないようにごまかしていたからなのではないだろうか。
「デイン様は……星紀の、友達だったんだよね?」
ムウは、刻印獣に襲われた時、僕と彼が一緒に居た事を思い出したようだった。僕は俯いたまま、こくこくと肯く。そこで初めて、僕は心細さを感じた。
次々と衝撃の事実を告げられ、信じていた現実や自分の存在すら否定されて尚、呑み込めていた”真実”。ムウに感じた正体不明の懐かしさによって、奇妙に支えられていた現実感。それが、目の前に横たわる禎宣──デインを見た時、完全に崩壊した。
それと共に、僕はムウに感じた懐かしさが、禎宣と友達になった時に彼に感じた「ずっと昔から知っているような気がする」という感覚と同じものである事に気付く。
「《寄生木》は、私たちがここに連れてきたデイン様を見た。私が擬鉄界に潜行した理由も、あっちにデイン様が居る事も知られたと思う。きっと、また刻印獣が世田谷に送り込まれて彼を襲うはずよ。しかもそれは、多分今回の比じゃない程強い」
ムウは言うと、僕を覗き込んできた。
「デイン様は、全てを知っている。きっと私が来るべき時が来たって言えば、すぐにこっちに戻ってサナの氏族長としてヤシロ様の跡を継ぐ事になるでしょうね。だけど、それにはあなたや志総教授と過ごした時間が、あまりにも長すぎた。あなたたちはデイン様にとって、離れ難い存在になってしまっていると思う。
だから……私は、自分のしようとしている事が、とても残酷な事のように思うの。安心したい訳じゃないけど、星紀がこの事を許してくれるなら……」
「許すよ」僕は彼女を困らせてはいけないと思い、即答した。「彼が、森界の未来の為に必要なら。彼にその覚悟があるなら、僕は……僕たちは、それを邪魔しちゃいけない」
こちらの言葉に滲んだものを感じ取ったのか、ムウはそれ以上を言わなかった。微かに頭を下げて「ありがとう」と言い、シンハさんの方に向き直る。
「シンハさん。私も出来るだけ早く、彼を連れてこっちに戻って来る。《寄生木》が応援を連れてきたら、ここで防御結界を張り続けるのもいずれ限界になるわ。私が星紀と一緒にもう一度潜行したら、すぐに招霊器を持って最寄りのアジトに移動して。機会は、今しかない」
「承知しました。……お嬢様、くれぐれも無理はなさらないで下さい」
「心配しないで下さい。私だって、ヤドク隊長の妹なんだから」




