『闇の涯』 第4回
3. 階星紀 ── 西暦二〇五五年 五月十五日 / 森暦某日
目覚まし時計の音ではなかった。忙しなく鳴り響くのは、枕元で充電器に繋がれたスマートフォン。HME着信のバイブではなく、電話の呼び出し音だ。僕は、まだ半分眠ったような状態の頭を振りながら相手を見る。
禎宣だった。時刻表示に目をやると、午前三時となっている。明日も一限目から登校だというのに、何故このような深夜に直接電話を掛けてくるのだろう、と、やや苛立ちを覚えながら通話ボタンを押す。
文句を言おうと口を開きかけたが、それよりも早く禎宣の声が叫んだ。
『おい、星紀! 起きてるか!?』
「起きてる……というか、今起きたけど」
『すぐに逃げろ! アパートに居たら危ねえ!』
彼の大声が、ぼんやりとした頭を覚醒させる。その瞬間、今まで意識に拾われていなかった無数の音が、一気に聴覚を占めた。
深夜に似つかわしくない、バタバタという不揃いな足音。怒号や悲鳴、狼狽しているかのような人々の騒めき。そして、それらの物音の奥で響いている、何か巨大なものが移動するような音。重機が滑っているような、特撮ものの怪獣や巨大ロボットが歩いているような、鈍く不気味な。
カーテンの隙間から、窓の外を窺う。夜の闇の中、薄く煙のような白い光が漂っているのが見え、それにぼんやりと照らされた学生街の向こうを、電車の如き発光体が移動していた。立ち昇る光ばかりで、その本体までは見えない。
大学の方に向かっているようだ、と、何故か僕は直感的にそう思った。
部屋着の上にパーカーを羽織り、外に駆け出したところで、スマホを耳に当てた禎宣が目の前を丁度通り掛かった。「禎宣」と僕が呼ぶと、彼は振り向いた。
周囲を、流れるような勢いで学生たちが駆けて行く。
「禎宣、これは一体どういう状況?」
「分からない。俺も、皆が騒いでいる声で気付いたんだ」彼は言うと、矢庭に僕の肩を掴んできた。「星紀、大学の方に逃げろ。何が来ているのかは知らん、けど、見る限り街は壊されている」
僕は、ぐっと押し黙る。先程、暗闇の中に薄く浮かび上がっていた白煙は、建造物が破壊されて生じた土煙らしい。「禎宣は、どうするの?」
「春姫先輩の部屋が向こうにある。HMEも電話も繋がらない。直接安否を確かめる」
「まさか行くの?」僕は声を上げてしまった。「多分、道路も壊れているのに?」
「もし、先輩が一人じゃ逃げられなくなっていたらどうする? 大丈夫、父さんは今大学の研究棟に泊まっている。俺からならどうとでも連絡をつけられるし、後で絶対お前の所に行くから」
──それは、死亡フラグではないか。
いつもの会話のノリで、僕はそう口に出しかけた。しかし、この状況ではあまりにそれが現実味を帯びすぎていて、笑うに笑えない。僕は辛うじて一言「危なすぎるよ」とだけ口に出せたが、禎宣にはそれすら否定された。
彼は焦れったそうに僕の両肩を掴むと、叫ぶように言った。
「そんな事、知るか! 俺の好きな人の事なんだぞ!」
「禎宣……」僕は、今度こそ何も言えなくなる。彼は、
「悪い」極まり悪そうに小声で詫びた。「でも先輩は、そんな危ない所に居るんだ」
僕は唇を噛み締める。少し躊躇ってから、「分かった」と言った。
「じゃあ、僕も一緒に行く」
「星紀、お前──」
禎宣は驚いたように僕を見たが、やがて眉を引き締めた。「すまん、恩に着る」
* * *
アパートを出、通りの向かいにある建物を幾つか迂回した時、僕たちは”それ”の本体を目の当たりにする事となった。
大きい──思えたのは、そのような月並みな感想だけだった。
コンクリートを陥没させ、学生寮を始めとする建物を突き崩しながらゆっくりとこちらに歩いて来る”それ”は、四足歩行の蜥蜴のようだった。恐竜全盛期以前に栄えていたという獣型爬虫類を大型化したような、樽の如き胴体。しかしその体色は、人工的に着色したかのような極彩色。目が痛くなるような毒々しい黄色を基調に、赤と青緑色でアラビア文字にも似た模様が細かく描かれている。背中からは、赤熱したうねりのある無数の棘が生え、よく聴くとシュウシュウという音と共に蒸気が上がっていた。
「何だよ、こいつ……?」
僕は、誰も知る由のない疑問を口に出す事しか出来なかったが、禎宣は違った。立ち込める土煙と蒸気で視界が遮られる中、懸命に伸びをしながら毒吐いている。
「畜生、見えねえ! 先輩のアパートはどうなったんだよ……!」
彼は悔しそうに言ってから、星紀、と呼びながら僕の方を向いた。
「お前、これでも俺と来てくれるか?」
「それは」僕は、接近してくる怪物との距離を目算する。その爛々と燃える鬼火のような双眸は、まだこちらを格別の標的として捉えてはいないようだった。
「やっぱり引き返すなら、俺はそれでも構わない」
「冗談。僕だけ逃げるなんて、出来る訳ないだろう」
言いつつ、怪物の歩き方を観察し続ける。白煙で周囲の環境が見えづらいが、傍で半壊したアパートのシルエットと比較すると、大体屋根と同程度の高さに背の棘の付け根がある。おおよそ、十メートル足らずといったところだろうか。頭部は路面から三メートル程離れた場所で垂れており、腹の下にも立って走れる程の空間がある。足取りはゆっくりとしているが淀みがなく、極度に蛇行しているような様子もない。
「あいつが何処まで見えているのかは分からないけど、今のところ僕たちには気付いていないみたいだ」
「だとしたら、ぎりぎりまで待ってから懐に入り込んで、向こうに抜ければいい」
僕と禎宣は肯き合うと、なるべく怪物の腹下へと駆け込みやすいように道路の真ん中に寄った。それでも、直前に見つかってしまう事を避けるべく、姿勢はなるべく低くして怪物の目に拾われないようにする。
駆け出すなら今か。いや、もう一呼吸……今か。まだ早い。では、今か?
考えているうちに、”今”は次々と過去になっていく。体感時間の方が遥かに長い十数秒間は、あたかも怪物が僕たちの存在を知った上で、耐えきれず自殺行為に走るまでじわじわと嬲っているのではないか、と勘繰りたくなる程の苦痛だった。
僕の焦れが限界に近づいてきた時、禎宣が僕の腕を軽く叩いてきた。口だけを動かし、無音で「今」と言う。僕は口を引き結び、同じく無言で大きく肯いた。
僕と禎宣が、前傾して低姿勢のまま地面を蹴ろうとした、まさにその瞬間だった。
「はああっ!」
突如、勇ましい気合いと共に、立ち込める煙の中に一筋の光芒が尾を引いた。それは吸い込まれるように怪物の鼻面へと接近していき、やがて小さな光の塊となって爆ぜる。怪物は不意を突かれ、ぎょっとしたように前脚を空中に持ち上げる。その喉からは、不思議と咆哮も悲鳴も迸らなかった。
僕は、考える間もなく声に出して「今!」と叫んでいた。禎宣が、僕を置き去りにせんばかりの速度で駆け出し、掲げられた怪物の前脚の下へと素早く滑り込む。僕は彼に続こうとしながら、何が起こったのかを改めて確かめようとした。
そして、一瞬僕は、目の前の光景を幻ではないだろうかと錯覚した。
後方への跳躍で怪物の正面から離脱しているのは、桜色の着物と短いスカートを身に着け、刀を両手で構えた一人の少女だった。彼女はこちらを向き、僕と目が合う。刹那、僕は世界がスローモーションになったかのように思った。
あらゆるものが、克明に見える。少女の構える刀の閃きも、神道の巫女を思わせる垂髪の揺れも、人間とは明らかに異なる、長く尖った妖精のような耳も。そして、その目が驚愕に見開かれる様も。
その眼差しは、僕を透過して背後の禎宣を見ているかのようだった。はっと我に返った僕は禎宣を振り返ろうとしたが、既に彼は怪物の腹の下へと姿を消していた。
僕が続こうとした瞬間、怪物の前脚が再び叩きつけられる。コンクリートに蜘蛛の巣の如きひび割れが生じ、迸った衝撃によって僕の体は元来た方向へと吹き飛ばされた。
「危ないっ!」
少女は、腰から落下した僕の隣へふわりと着地する。空いている左手でごそごそと懐を探ると、黒ずんだ鎖の付いた懐中時計を取り出して呟いた。
「あっちじゃまだ二十分かそこらしか経っていないのに、刻印獣まで出てくるなんて……あいつらは、ここまで計画を知っていたっていうの?」
「君は……?」
僕が恐る恐る口を開くと、彼女はこちらの顔を真っ直ぐに見つめてくる。
その途端、激しい情動が僕の胸に押し寄せた。これは──寂しさ? 否、もっと温かく、もっと狂おしい何か。泣きそうになる程、懐かしい何か──。
「ねえ、あなた。立てる?」
少女が、きびきびとした声で尋ねてきた。僕は我に返り、慌てて立ち上がる。激しく打ちつけた下半身は痛むが、幸い骨折などはしていないようだった。
「下がって。刻印獣が攻撃してくる」「えっ?」
僕がそれ以上何かを口に出す前に、少女が再び刀を振って飛び出した。転瞬、刻印獣と呼ばれた怪物が再び前脚を掲げ、胸部を風船の如く膨らませる。少女が刀を正面に構えるのと、怪物の吸い込んだ息が猛火となって吐き出されるのでは、後者の方が一瞬だけ遅かった。
少女の刀身は、川の流れに突き立てられた棒のようだった。極太の炎の柱はそこで左右に割れたものの、すぐにまた合流し、彼女、そしてすぐ後ろに立つ僕へと襲い掛かった。
悲鳴が聞こえる、と思ったら、それは自分の声だった。
熱い。煮え立つ釜の中に投げ込まれたかのように逃れようのない、生命に危険を感じる程の高温が皮膚を透過してくる。それが途絶えたのは、目の前の少女が身を捻り、僕を突き飛ばすようにしながら炎の流れの中から脱出した時だった。
「駄目……魔気がない。やっぱりこっちじゃ、臨空術が使えないんだ」
少女は呟くと、「ねえ」ともう一度僕を見てきた。「あなたの体、貸してくれる?」
「……!?」僕は、咄嗟に答える事が出来ない。
「私があなたの体と霊気を借りれば、あの刻印獣を倒せる。私の神依の依り代……”化身”を務めて欲しい」
「神依? 化身?」何の話だろう、と、僕は戸惑う。少女は、焦れたように叫んだ。
「お願い! そうじゃなきゃ、皆死んじゃうの! あなたも、デイン様も!」
「わ、分かった」
僕はその剣幕に押され、半ば反射的に肯く。少女は「ありがとう」と言うと、その瞬間全身を発光させ、HMEのメールを構成するホログラムの如く分散した。それらは僕を取り巻くように回転し、僕は混乱する中、自らの焼けつくような皮膚感覚が徐々に希釈されていくのを感じた。
気付けば僕は、彼女が持っていた刀を両手で構えていた。透き通った鋼の刀身が、周囲にばら撒かれた炎の光を反射して鏡の如く輝く。そこに映し出された姿を見、僕はあっと声を上げそうになった。その姿は、彼女のものへと変じていたのだ。
──僕が、美少女になっている?
しかし、口から出た言葉は疑問でも混乱でもなく、今し方の少女の快哉だった。
「やった……私にも神依が出来た! これで、私も戦える……!」
その時、輻射熱で湧き立つ陽炎を引き裂くようにして、怪物が速度を上げた。相も変わらず無言だが、擦られた左右の建物がガラガラと音を立てて崩れ落ちる。呼応するかのように、少女の姿と化した僕の足が、自動的に前に飛び出した。
「退魔剣!」
見知らぬ単語が口から飛び出し、刀が躍る。袈裟懸けに振り下ろされた刀身が怪物の鼻面を薙ぎ、その瞬間初めて僕の腕に、刃が敵の肉に入り込む手応えと微かな抵抗が感覚として感じられた。
怪物は背部の棘を一掃赤々と輝かせ、尻尾で胴体を包むようにする。正面から見た時は気付けなかったが、その尻尾は──創作物でしか見た事はないが──両手用大剣のように太く、硬質だった。怪物はそれを顎に咥えると、火花を散らしながら研ぐように動かし、やがて脚を深く沈み込ませた。
僕は咄嗟に、このままでは良くない、という命の危険を感じた。が、そう思うか思わないかのうちにまた体が勝手に動く。燠と化しつつある道路を蹴って跳躍した高さは、普段の僕では絶対に跳べないようなものだった。僕は最初に少女が割り込んできた時の動作を思い出し、今の僕の体を使役しているのは他ならぬ彼女なのだと悟った。
僕/少女が宙空に舞い上がった時、怪物がその巨躯を回転させながら居合の要領で尻尾を振るった。残存していた建物の上部が、蓋を開けられた箱の如く両断されて闇の中を吹き飛んで行く。
「いけない!」僕/少女は宙返りし、怪物の背中に──赤熱した棘に貫かれないよう細心の注意を払って着地した。四方から熱が襲い掛かってくるが、少女は素早く刀を振るい、熱で柔らかくなったそれらを斬り落とす。行き場を失った熱たちが次々と爆発するが、彼女は振り落とされないよう懸命に踏み留まった。
怪物は、自らの内側から生じたダメージがかなり応えたようだった。咆哮の上がらない口を夜空へと向け、今までで最高の速度で駆け出す。逃げ惑う人々の行き先、大学のキャンパスがある方向へ。
「止まりなさい……止まってよ!」
僕の体を使っている少女は、叫びながら断続的に刀を怪物の背へと突き立てる。しかし怪物は足を止める事なく、やがて行く手に、真夜中に叩き起こされて恐慌に陥っている学生たちが避難していく姿が見えた。
彼らは、怪物の足音が急に速度を増し、接近している事に気付いたようだった。誰からともなくこちらを振り返り、阿鼻叫喚と共に移動速度を上げる。しかし、それも怪物の大きさの前には誤差に等しかった。
「駄目─────っ!!」
迸り出た声は、紛れもなく少女のものだった。しかし僕には、実際にそう叫んでいる意思が彼女のものなのか、僕のものなのか、判断がつかなかった。
眼下で、逃げ惑う人々の体が踏み潰された。交通事故に遭った蛙の立てるような、ぐちゃぐちゃという不快な音が容赦なく鼓膜を打つ。怪物の凶行はそれだけには留まらず──異物を踏みつけたという感覚はあるのか──蹈鞴を踏むように減速すると、前方の大学に向かって炎を吐く。十二号館から、敷地内の奥に向かって並んでいる数棟が爆散し、周囲の屋上に設置された発電設備が吹き飛んだのが見えた。
「こいつ!」
僕は叫ぼうとするが、先に声を出したのは少女だった。怒りに任せ、怪物に刀を振るいたいという衝動が僕を誘うが、やはり刀を握っている感覚も、不安定な足場の上で踏み堪えている感覚もない。動いている脳からの信号が、体に伝わっていないようだ。それが、非常にもどかしい。
代わりに、少女が僕の体を動かした。再び空中に──今度は怪物の頭部の上に跳躍すると、刀を上段に構えつつ敵の眼光と真っ正面から対峙する。
「あんたの性が火なら、それは私の臨空術も同じ。今まで成功した事もないし、今でも自信なんか、ある訳じゃないけど……」
少女は、空気の壁を蹴るように体を押し出した。
「今はこの火力勝負、負ける訳には行かないのよ! 焔縫剣!」
怪物の大口が、目の前に迫ってくる。僕は目を瞑る事も出来ず、ただ少女とその刀が敵に肉薄していくのを見届ける事しか叶わなかった。
刹那、こちらの刀身に一瞬赤いエフェクトが生じ、やがてそれを炎が覆った。あたかも松明を振り回しているかのようだ。怪物の擡げた顎の下、喉笛へと引き寄せられるように接近した刀は、硬質なその部位を、一瞬の抵抗を経て焼き切った。
怪物から飛び散ったのは血液ではなく、デジタルデータの如き無数のポリゴン片だった。先程、僕に”神依”する前、少女が変じたホログラムのような光にも似た。
怪物の大きく裂かれた喉を中心に、その体躯がポリゴン片に包まれていく。コップに注がれた炭酸飲料が発砲するように、もしくは悪性の吹き出物が皮膚を覆うように。それに全身を包まれた瞬間、怪物はカシャーン! というガラスの破砕音の如き鋭い音を立て、跡形もなく消滅した。




