『闇の涯』 第38回
周囲が真っ暗になった時、僕は視覚情報が遮断されたのかと思った。しかし、そうではない証拠に、やがてドロドロという遠雷のような音と共に、闇の中に絶え間ない流体の蠕動が微かに見え始める。
恐らくここは、現実と第二層界の狭間。常軌を逸した擬鉄界の加速率に、潜行時のロードが追い着かないらしい。咄嗟にそう判断したものの、では、と改めて考えた瞬間、僕は恐ろしさに背筋が冷たくなった。今、先程まで僕たちの居た現実での時間経過は、恐らく限りなくゼロに近いだろう。その間にやり取りされているであろう膨大な情報量の事を思い、やがて僕の脳は──過剰な負荷を掛けられたAIは崩壊してしまうのではないか、と恐ろしくなった。
だが……
「星紀!」
不意に、背後からムウの声が聞こえてきた。
振り返ると、彼女がデインを横抱きに抱えながら浮かんでいた。二人とも、本体に負っていたような痛々しい傷は見られない。その姿を見た時、僕は感極まって──自分でもどのようにしたのかは分からないが──駆け寄っていた。
「ムウ……」抱き締めようと手を伸ばして、自分の姿が元に戻っている事に気付く。
「ごめん、手が塞がってる」
彼女は言うと、やや上体を前に屈めて僕に唇を重ねてきた。
途端に僕の体が示した反応は──涙を流す、というものだった。
「ムウ、ごめん……!」
「泣かないで、星紀。私は生きてる。星紀も、デイン様も……禎宣も」
彼女はゆっくりと顔を離すと、遥か下方を指差した。僕は彼女の隣に並び、その先を見つめる。そこには、しっとりとした黒髪をストレートに下ろした、白衣姿の若い男性の体が揺蕩っていた。屋上から、背中から身を投げ出したように両手を広げ、寂しそうに哂ったまま目を閉じている。
初めて見る姿だった。それでも、僕は確信していた。
彼だ、と。
「ここは、データマトリックスの中? 擬界を投影する情報、全ての根源……」
「擬鉄界だって、魔気と電子で構築されたメタバースよ。ビジュアライザーの性能は桁違いだけど、あんな加速度で無限ループさせたら限界は来る」
ムウは言い、僕の肩に額を預けてきた。泣かないで、と言った彼女もまた、微かに嗚咽していた。肩が温かく濡れる。
「皆……皆ここに居るよ……潜行出来なかった皆も、サーバーダウンした擬鉄界の皆も。システムを修復して、サルベージしてあげれば……また会えるよ」
「こんな内側から、どうやって……」
言いかけた僕は、はっとして顔を上げた。もう一度、眼下の彼を見つめる。
彼は、徐々に遠ざかっていた。先程よりもずっと小さく、おぼろげに見える。あたかも、そのまま膨大なデータの奥深くに溶け込み、消えてしまうかと思われる程に。僕はそれを見つめるうち、今自分がすべき事を明確に理解した。
僕は肩越しに手を伸ばし、ムウの頭を撫でて言った。
「……行ってくる」
「ええ」彼女は、こくりと顎を引いた。「行って、星紀。私たち皆の戦いを、悲劇にしない為に──あなたの全ての出会いを、悲しい思い出にしない為に」
ムウに背中を押され、僕は際限のない闇色の中を、流体の流れに抗うように泳ぎ出す。
彼の──禎宣の先程の言葉が、脳裏で何度も再生される。
俺みたいに、なるなよ。
俺みたいに──……
「僕、そういうの嫌いなんだよ」僕は、彼に向かって懸命に声を投げ掛ける。「諦めた癖に上がりを決め込んで、自分を反面教師にしろ、みたいに先輩風を吹かせる奴! 主人公と昔の自分と重ねて、勝手にシンパシーを感じている奴!」
自分でも、何故そのような言葉が口を突いたのか分からなかった。
「挫折したらそれで許されるのかよ? もう頑張らなくていいのかよ? ……間違っているって思うくらいなら、何で戻って来ない!? 自分が諦めた事を、他人に押しつけるな!」
「星……紀?」
彼の瞼が、微かに開く。手が届くまで、あと十メートル。
「方法だったら、一緒に探せばいい。僕やムウだけじゃなくて、君も一緒に。滅びの運命から世界を救う方法、『闇の涯』のデータを得る方法、ヨド氏とサナ氏が共存する方法……何だって一緒に探す。僕は……僕たちはいつも、ずっと一緒に居た。嘘だったなんて、絶対に言わせない! 一人だけ楽になろうなんて、そうはさせないからな」
あと五メートル。手を伸ばす。掴めない。僕は叫ぶ。「来い、禎宣!」
「………!」
禎宣が目を見開く。その瞳が潤み、流れ出すように目の縁に涙が凝集する。
彼が、右手を持ち上げる。躊躇うように指先を震わせ、肘を曲げて。もう一度──真っ直ぐに。その指先が、僕の掌に触れる。「星紀!」
彼に手が届く。彼の手が、僕に届く。
──掴んだ。
* * *
僕と禎宣は、闇の中にぽつりと生じた円形の光の地面へと降り立った。丁度僕たち二人が立てるくらいの広さしかないが、データマトリックスの中で未だに”個”を保っている僕たちにシステムから与えられたものとしては、それで十分だった。
禎宣の顔──十二年間を共に過ごしてきて、初めて見た彼の本当の顔には、憔悴が色濃く浮かんでいた。悔悟の涙が、はらはらと零れ落ちては蒸発するように消えていく。僕は、そんな彼の肩に腕を回した。
「ムウは……?」彼が、徐ろに顔を上げて尋ねてきた。
「デインと一緒に、浮上しようとしているよ。現実でも、まだやらなきゃいけない事が残っているから」
「そっか……星紀、お前は行かなくていいのか?」
「こっちでも、やらなきゃいけない事はある。擬鉄界に居た皆をサルベージしなきゃ」
「すまなかった、星紀」禎宣は、声を濡らしたまま俯いた。「俺のせいで、皆……」
「もう、謝らないで」
僕は言い、頭上に広がる無辺の闇を見上げた。全ての絵の具を混ぜたような漆黒は、僕たちの居る光に近づくに連れて濃紺から群青、空のような青を経、縹色、水色と波長を変え、アルベドを大きくしながら明るく変遷していく。やがてそれは限りなく透明に近いラムネ瓶の色になり、遂に白となった。
絶え間なく、データの潮流が僕たちの下方へと通過していく。僕と禎宣は、その絶対的な白に守られるようにそこに居た。そこは静謐で、時の流れに取り残されたかのように穏やかに凪いでいて、ともすればずっと居たいと思えてしまうような居心地の良さで──けれど僕は、それでもムウや皆がそこに居て欲しいと願った。
最外殻世界は、もう完全に朝日を迎えただろう。
僕たちは夜の中へ引き返して行くように、ここを離れ、あの底知れない闇の中を突き抜けて行くのだ、と思った。
「世界を救うのは、君と僕だ。かつて主人公だった君と、今主人公の僕が……僕は途中参加だけど、これが禎宣の物語なら──最後まで付き合うよ」
禎宣は、もう泣いていなかった。
「……物語にしても、それっぽすぎるぜ、その台詞」
顔の造りが違っていても、一目で僕の友達だと分かる不敵な笑みを浮かべる。
「『台詞は、多少芝居がかっていても俺は気にならない』。そうだろ?」
僕は、彼の手を強く握り締めた。
「行こう、禎宣──この闇の『涯』へ」
僕たちは地面を蹴り、飛翔する。電子情報の根源の中、互いの存在を確かめるように手に力を込め、収束する闇の行き着く場所を目指して一直線に駆ける。
空が見えた。
(闇の涯・終)
『闇の涯』の連載はこれにて終了します。異常な加速に処理が追い着かなくなりサーバーダウン、全てがデータマトリックスに還元されてしまった擬界の中で、星紀たちがシステムを復旧する事が出来たのか否かについては実は冒頭の一文が示唆しています。この『闇の涯』という物語全てが、禎宣が星紀を主人公に描いた一切の記録だったとしたら……と、あまり解説しすぎるのは宜しくないのでこの辺りでやめます。
他の作品をお読み下さった方であればお分かりかと思いますが、藍原センシの長編作品は基本的に文庫本換算で三、四冊分になるくらい長いです。連載開始の際にも述べた通り本作は初めての新人賞への応募を目標に書いたものであり、ページ数の制約の中で後半がややラッシュ進行になってしまった感は否めませんが、藍原ワールドの中ではスタンダードな作品となっています。本作を書いた事で、私自身も自作について改めて虚心坦懐に向き合う事が出来たようにも思います。『闇の涯』を通して初めて私の作品に触れたという方々が、これをきっかけに更に藍原ワールドに浸かって下されば幸甚です。
明日からは、お休みしていた『夢遥か』の連載を再開したいと思います。ここまでお読み下さった皆さん、どうもありがとうございました。今後とも宜しくお願い致します。




