『闇の涯』 第37回
25. 階星紀 ── 森暦某日 ─ そして
クシュナの体が、力なく招霊器の座面から滑り落ちた。残忍そうなその顔に浮かんでいたのは、最後に主導権を持った誰かが浮かべ、その顔に刻んだらしい”悲しみ”の形だった。
僕は、禎宣の言葉や今までの出来事から、彼が今何をしたのかを悟った。クシュナが神依したのが誰であるのか、何故彼女は異常加速した擬鉄界に──時そのものが致死性の罠となる世界に、放逐されねばならなかったのかを。
「……禎宣」
僕は、噛み殺した声で彼に声を掛けた。
彼は今の擬鉄界について、一万三千倍から一時間ごとに二乗に加速するように設定した、と言った。厳密に、彼が浮上してからの一時間のうち、いつ頃その設定を行ったのかは分からない。だが、少なくとも僕が禎宣と刀を交え始めてから、既に三十分は経過していた。最低に見積もっても一・五乗──八四五〇万倍。
……今、もう二分が経過した。向こうでは三十二年……尚も刻々と加速していく。
「君は自分が何をしたのか、分かっているのか?」
「特別扱いは、出来ないからな。元々、俺の秘密を知られた時点で排除するしかなかった。せめて、クシュナを欺く為に……先輩を化身として押さえていれば、俺が奴に手出しが出来ないと思わせなきゃいけなかった」
禎宣は、弱々しく笑う。僕は、彼に掴み掛かろうと壁から背中を引き剝がす。
が、深刻なダメージを負った体は、最早ぴくりとも動かなかった。一瞬の動揺が、僕に他の事に気を回す冷静さを取り戻させてくれる。僕は、体を使わせて貰っているジャンプさんの事をすっかり失念していた。
「ジャンプさん……?」恐る恐る名前を呼ぶと、
『すまねえ、ムウ……後は、任せていいか?』
彼は、主導権を切り替える事も忘れてムウに呼び掛けた。僕は目を瞑り、「ムウ」と低く絞り出す。「ジャンプさんが、もう限界だ」
「分かった」彼女は迷わなかった。「私の体に、星紀を取り込む」
ムウが、僕/ジャンプさんに対して神依してきた。こちらの外見が彼女のものに変わり、体の軋みや痛覚が消失したところでジャンプさんが神依を解く。僕と同じ傷を負い、息も絶え絶えになった彼の体がどさりと横に投げ出された。
主導権が移譲され、痛覚が僕に戻ってくる。僕は、彼に深々と頭を下げた。
「ジャンプさん、ごめんなさい!」
「星紀……違げえだろ、そうじゃねえだろ……?」彼は、満足そうに微笑んだ。「ありがとうって言うんだよ。そうじゃなきゃ、こっちが申し訳なくなっちまわあ……」
その声が、段々フェードアウトしていく。僕は合掌すると、黙祷しながら心の中で「ありがとうございました」と言い直した。
禎宣はその間、こちらに襲い掛かってこようとはしなかった。クシュナ/春姫先輩が”魂落ち”してから、彼の精神は非常に不安定になっている。それはあたかも、摩耗し、これ以上擦り減ったら切れてしまう縄のようだった。彼も、自分によって奪われていく多くの命に、その重さを受け止めきれなくなっている──千年に及ぶ彼の戦いについて彼の口から直接聞いていた僕には、今この場に居る者たちの”命”、人工的な再現ではないオリジナルの”命”の重さを、彼が誰よりも感じているであろうと理解出来た。
「……自分じゃ、もう止められないんだよね」
僕は目を開くと、掌に付いた血をスカートの裾で拭った。刀を握り、立ち上がって斜に構えつつ、その切っ先を禎宣に向け直す。『星紀』とムウが声を掛けてきたが、僕は左拳を胸に押し当て、「大丈夫」と囁いた。
彼女も、満身創痍である事には変わりがなかった。だが、先程までの僕の肉体情報は、ジャンプさんが神依を解いた直後に亡くなった事からも分かる通り”致命傷”を負ったものだったのだ。感覚が麻痺していると言われればそれまでなのかもしれないが、僕には今の彼女の体以上に、望むものなど存在しなかった。
「止めて欲しくて、わざと非道な事をやってみせて……そういう悪役、僕は卑怯だって思うけどな。だって、憎みきれなくなるじゃないか。本当はいい奴だったのに、誰もそいつが道を外れる事を止めてあげられなかった、って。”偽”偽悪者だよ」
「それが分かっていたら、俺を赦すのか?」禎宣は唇を歪める。「お人好しめ」
「いや、赦さない」僕は、きっぱりと言った。「アンチヒーローを気取るな、禎宣。どんな辛酸を味わったからって、何をしてもいい訳じゃないだろう。死んで楽になんか、僕は絶対にさせない」
「……台詞回しが上手くなったな、理系男子!」
禎宣が、また飛び掛かってきた。僕は、先程まで発動出来なかった剣技でそれを受け、相殺する。相変わらず重い、震動で骨の髄まで痺れが走るような一撃だが、体に直接的な痛みが刻まれる事はない。行ける、と思った刹那、彼が二撃目を繰り出してきた。
魔気のある森界では、臨空術や剣技の発動は無制限に行える。だが空魔が化身に神依している場合、技に優先的に使用されるのは化身から捻出された霊気だ。
僕たちはそれぞれ、自分たちの霊気をムウ、デインの体を通して解放している。どちらも本体を持たず、ムウが最初に言っていた言葉を使うとすれば、この現実世界にあるのは生物学的組織、生物学的機能=魂=霊気。文字通り、僕たちは自分そのものを削りながら戦っているという事だ。どちらかが尽きた時、勝負は着く──が、それでは遅いのだ。
「僕は君を殺さないよ、禎宣」
防戦一方になりながらも、僕は言葉だけでも押し負けまいとした。
「赦さないって、そういう事じゃないと思うから……止めるって、殺さなきゃ止められないって事でもないと思うから!」
「買い被るな、星紀! 生きている限り、俺は二大氏族を滅ぼそうとするぜ」
彼の刀が、半月型の軌道を描いて僕/ムウの懐に入り込もうとする。僕は下段から、掬い上げるような動きで禎宣/デインのその斬撃を跳ね上げる。
「それで『森の終焉』が防がれるなら、ヨドとサナ、空魔族と人間、共に手を取り合う道もあったはずだ!」
「俺はもう疲れたんだ。お前にその気があるなら俺を殺せ」
「出来ない!」
「やれるだろう!? お前は今、俺が昔歩んでいた道に居るんだよ!」
血を吸いすぎた彼の刀身が刃毀れする。火花が、僕/ムウの前髪を微かに焦がす。
「だけど、お前は俺みたいになっちゃいけない。本当にお前が、俺の選んだ方法を否定するならな!」
「何だよ、それ……!」僕は、歯を食い縛る。「俺みたいに、って……」
「ああ、そうだ。俺は途中で逃げ出して……もう一回、立ち上がる事が出来なかった。その結果がこれだ。お前は、俺と同じ轍を踏んじゃ駄目なんだよ。お前が俺の行動を否定するっていうなら、それは俺の存在自体を否定するって事だ。何も間違った事じゃない……仲間が死んだ悲しみも、それを引き起こした俺への憎しみも、決意も、ありったけ全部込めて俺を殺しに来い。そして、突き抜けちまえ」
禎宣の言葉に、僕ははっとした。こちらの刀が止まった瞬間、彼が迫って来る。今まで最も多く見せた、白い光芒を伴う突き技。
その光に照らされた彼の顔が、あの悲しい微笑みを湛えていた。
「俺みたいに、なるなよ──」
『星紀、駄目っ!』ムウが、主導権を移して自ら回避行動を取ろうとした。
しかし、僕はそれより早く、
「ムウ─────っ!!」
あらん限りの声で、喉も裂けよとばかりに叫んだ。「神依を、デインの体に!」
次の瞬間、僕/ムウの心臓の位置に禎宣/デインの刀が突き刺さった。体内で爆発が起こったかの如く、熱いものが胸郭から全身に広がり出すのが分かる。コンマ数秒遅れで凄まじい痛みが体幹を劈こうとしたが、その時ムウは既に、
『行けーっ!』
僕の意図を察し、僕諸共分解、禎宣/デインに向かって流れ始めていた。
禎宣は──否、デインの本能は、このままではムウの肉体情報が共有され、死に際に巻き込まれると悟ったようだった。彼の体もまた、こちらと同じように輝く粉塵へと変化し、僕たちに混ざり合ってくる。
痛みは、もうなくなっていた。”幽霊”となった僕たちは、お互いに融け合ったまま招霊器へと引き寄せられていく。
ご精読ありがとうございます。一ヶ月以上に渡って連載してきました『闇の涯』も、明日でいよいよ最終回となります。星紀とムウ、禎宣の「”物語”にまつわる物語」(と書くとメタフィクショナルな話なのかと思われそうですが)、終幕まで是非お付き合い下さい。
本日は「未分類」に短編小説を投稿しています。「ハルモニア」以降エッセイばかり投稿していたので久々の小説ですが、そちらも宜しくお願いします。




