『闇の涯』 第36回
24. ムウ ── 森暦某日
撫でるように、撓るクシュナの刃が体の上を通る。体に命中した一撃に、それをこちらの刀で受け止めた時のような重みは感じられなかったが、着物に肌、その下の筋肉までが、一続きにすっと深く切り裂かれるのが分かる。ムウは身体強化術を使って動脈を守っていたが、さーっと水の如く溢れ出す血液は、とても静脈血とは思えない勢いだった。
戦いが始まってすぐに全身をずたずたに切り裂かれたムウは、正面からクシュナと渡り合う事を既に諦めていた。獲龍宮を構成する建物の屋根や塀を飛び回るようにして彼女の攻撃を避け、空中を広く使いながらその背後を取ろうとする。
「咲煉破!」
「ちょこまかと……! 蜷局昇!」
クシュナは鎖鎌の如く伸びた刀身を振り回し、遠心力で斬撃の渦を発生させてこちらに放ってくる。突き技で肉薄するこちらを巻き取り、そのまま全身を斬り刻もうという魂胆のようだが、その意図が分かったムウには次の選択を行う余地が出来た。
ムウは直線的に向かって来た渦に対し、剣技が中断されないよう勢いをつけたまま、全身で横方向に空中を転がる。クシュナの後方に飛び込み、足場となっている瓦屋根を大きく崩しながら更に後転する。
「三徳填周脚!」「何っ!?」
クシュナがそこで初めて、動揺の声を上げた。ムウの蹴りを繰り出した踵が、クシュナの尾骶骨の辺りに打ちつけられる。この位置取りでは、彼女の伸縮する刀を振るう事は出来ないだろう。自らを切り裂いてしまう。
「高威力の剣技は、囮だったと……」
彼女が足を滑らせ、滑落する瓦諸共屋根の傾斜を下って行く。ムウ自身も巻き込まれそうになり、慌てて大棟の上に登って踏み堪えた。
だが、クシュナもただでは落ちなかった。彼女は背中から落下しつつも刀身を伸ばし、ムウの両の脹脛へとその先端を巻き付けてきたのだ。鋭い痛みに声を上げる間もなく、ムウは強く引かれてクシュナの上に落下、縺れ合うような形となった。
数瞬の後、ムウとクシュナは抱き合うような姿勢で、一段低くなった建物の屋根の上に背中を打ちつけた。衝撃が襲う一瞬で、自分たちはそれぞれの刀を振り上げ、ムウはクシュナの首筋に、クシュナはムウの項──盆の窪、延髄の真上に刃先を突きつけた。
「……引き分け?」
ムウは、荒い息を吐きながら言う。次の瞬間には殺されるかもしれない──怯懦が態度に現れないよう、懸命に声の震えを噛み殺した。
「どうかな」クシュナは、切れ長の目を増々細くする。「貴様に、殺しが出来るなら」
「空魔を……ヒトを斬れば、血が出て相手は死ぬ。そういうものなんだって割り切れって、お兄ちゃんは言った。私はそれが嫌だって、この前──こっちじゃ半日前に気付いた。私、やっぱり侍には向いていないのかもしれない」
クシュナが更に何かを言う前に、ムウは「でもね」と続けた。
「私は星紀や禎宣、村の皆や経之さんたち、大事な人皆を守る為なら、このままあんたの首を躊躇わずに斬ってみせる。だけど……私が死んだら、悲しむ人たちだって一杯居る」
──自分はやはり、英雄にはなれない。
星紀たちの為に、目の前のクシュナを始末する。それは命の取捨選択であり、伝説に描かれるような勇者であればきっとしない事だろう。しかし、それなら自分は、そのような存在にならなくてもいい。
クシュナは、冷笑するように鼻を鳴らした。
「貴様、あの階星紀とかいう鉄器族に惚れたのか? 家畜……いや、人工知能だぞ」
「だけど、彼は生きている。本体がなくても、命と心を持っているのよ」
「電子情報に対する見解の相違だな。ならば……」
彼女は、一旦言葉を切ってから目を閉じた。そしてそれが再び開かれた瞬間、彼女の口からひっと呼吸困難を起こしたかのような音が漏れ、ムウの延髄に当てられていた刀が素早く収縮して屋根の上に落下した。
「やめて! 殺さないで……!」「《銀狐》?」
ムウは、突如として豹変したクシュナの態度に面食らう。しかし、すぐに何が起こっているのかを理解し、あっと叫んでしまった。「神依!? クシュナ、まさか……」
「ねえ、クシュナさん! 話が違うよ、どうして星紀君たちは経之教授をここに連れて来ていないの? ムウちゃんは、仲間を見捨てるような薄情な子じゃないんでしょ? 星紀君たちに伝えたのは、禎宣君の指示とは違う事だったの?」
クシュナは──否、クシュナの化身である何者かは、そこまで口にした瞬間苦悶の声を上げた。感覚が体に戻り、屋根から落下した痛みが感じられ始めたらしい。
「あなたは誰なの? 何で、禎宣に協力しているのよ?」
ムウが尋ねた時、再びクシュナが主導権を切り替えたようだった。彼女の顔に浮かんでいた怯えの表情が掻き消え、たちまち《銀狐》としての残虐な自信を孕んだ薄笑いが戻る。次の瞬間彼女は左手で手刀を形成し、自分の体の上に倒れ込んだムウの腹部を強く突いた。呼吸が出来なくなり、ムウが硬直すると、彼女はすぐにこちら諸共横方向に転がり、反対にこちらを組み敷いてきた。
ムウの見上げる先で、クシュナが危険な愉悦を眼光に宿した。
「工藤春姫。それが、私の化身となった鉄器族ユニットのオブジェクト名だ」
「春姫? ……嘘、まさか、春姫先輩!?」
その名前は、星紀から聞いていた。刻印獣第一号による世田谷襲撃の夜、禎宣と連絡が取れなくなる──今では、彼が意図的に着信拒否をしていたのだと分かる──直前、彼が助けに行ったという鳳栖大の女子学生だ。ムウと星紀が行動を共にするようになった時点で禎宣と共に行方不明になっており、星紀はその安否を心配していた。
「そう……あの男は、『先輩』と呼んでいたな」
「どうしてなの、春姫先輩!? クシュナに脅されて、そんな事をしたなら──」
「聴覚に訴えればいいと思っているのか?」
クシュナは言うと、ムウの両肩を掴んで瓦に叩きつけた。砕けたそれらの破片が宙に舞い上がり、ざくざくと背中を切り裂く。更にクシュナは、そのままこちらを屋根に擦り付けるようにして投げ飛ばしてきた。着物と共に、背中の皮膚が鉋を掛けられたように削がれるのが分かる。ムウは何度も屋根の上を弾み、身体強化術を施した肉体を繰り返し叩きつけた野地板には蜘蛛の巣状の亀裂が生じた。
「きゃあああっ!」
「この女は、自ら我が化身となる事を選んだのだ。あの男を、私から守る為にな。私がこの女を人質に取っている限り、あの男は私とハザク陛下の政変に必要なデモンストレーション──公開処刑の対象となる《蝮》どもを引き渡せと要求すれば、従わざるを得まい」
「何を言っているのか……分からない」
「私とあの男は、調和に基づく縁を結んでいる訳ではないという事だ。表面上は互いに不可侵を約し、その形代としてこの女は私に身を捧げた。いわば、人身御供だな。……それでもあの男は危険すぎる故、私は貴様らに暗殺を持ち掛けた訳だが」
政変? デモンストレーション? 全く話が掴めない。
クシュナは話に置き去りにされるムウを嘲笑うかのように、また目を細くした。
「ここが現実世界である以上、今の私が神依の状態にあるとはいえ、この体は工藤春姫ではなく私自身のものだ。しかし、化身と空魔は運命共同体。私を殺せばこの女も死ぬ。だからこそあの男は、私に手出しが出来なくなった訳だがな。……さあ、どうする、《蝮》のリーダーの妹? 電子情報に入れ込みすぎた事が、仇になったか?」
「あんた……」ムウは、最早無駄だと思っていても言わずにはいられなかった。「人が人を好きになる気持ちまで、利用するなんて」
「貴様の事か、娘? 鉄器族のような事を言うんだな!」
「赩焉百華断!」
ムウは死力を尽くし、秘奥義を繰り出した。クシュナを倒せば、春姫も死んでしまう──だが、不思議とまだ、何とか出来るような気がした。彼女が、星紀の無二の親友が好きになった女性が、こんな悪魔のような女に取り殺されるはずがない。自分が星紀やジャンプにしたような二重神依など、何かしら救い出す手段はあるように思えた。いや、そう願った。
クシュナが、春姫の取り落とした刀を拾い上げて鞭の如く振るった。
「これで終わりにしてやる! 蹠蹄通魔群!」
ダダンッ! と連続した音が響き、分割された彼女の刀身が数節同時に屋根を打った。また瓦が散り、「Ψ」の形をした斬撃が次々に生じてはムウに向かって飛来する。ムウは炎を纏った刀で喉や胸を庇いつつも、半ば捨て身でその斬撃の生じている真っただ中へと身を投じていく。既に全身の至る所に切創を開き、絶え間ない痛みに耐えている事が、身に刀傷を受ける事に対してある種の割り切りをもたらしていた。
そして、こちらの剣技がクシュナに届く前に、無数に亀裂の入って脆くなっていた足場の天井が崩壊した。その影響は空中を舞っていたムウよりも、自身の足元を全く見ていなかったクシュナに対して顕著に作用した。
ムウの振り下ろした刀身が、大きく空振りする。クシュナは沈み込むように姿勢を崩し、建物の中へと落下を始める。剣技は終了したが、慣性に引かれていたムウはそのまま彼女の頭上から落ち、刀の先端が彼女の左肩口から鎖骨の辺りを斬り割った。
「えっ?」
落下しながら、ムウは目を見開いた。
そこに、《臨空の盾》の仲間たちが大勢倒れていた。腰を抜かしたまま動けずにいる者、死んだように倒れ伏し、ぴくりとも動かない者。しかしよく見ると、その中には呼吸を行っているらしく胸や腹が動いている者も居り、一部は眠りに落ちているのだと分かる。彼らのすぐ傍に並んだ機械を見、ムウは「何故」という疑問を抱かないで済んだ。
それらは、招霊器だった。状況から、ムウはすぐに彼らに何が起こったのかを知る。《臨空の盾》の一部の構成員たちは、招霊器に強制的に繋がれ、すぐに引き剝がされて擬鉄界から浮上出来なくなり、〝魂落ち〟に陥っているのだ。そして今まさに、クシュナ/春姫の体が、その一台の上に落ちて接続の体勢となった。
「ムウ!? ……うわっ!」
すんでのところで身を捻り、床の上に着地したムウに、星紀の声が飛んだ。
ムウが視線を向けた瞬間見えたのは、こちらに気を取られた一瞬で胴体を真一文字に薙ぎ払われ、壁に向かって吹き飛ばされる彼の姿だった。
「星紀!」「ムウ、避けて!」
彼が、自分の負った傷など忘れたような焦燥に飽和した声で叫ぶ。ただ事ではない、と直感的に思わせるその声に、ムウは考える間もなく横に跳躍していた。
一瞬前まで自分の体があった場所を、禎宣の突き技が通過して行った。
「ちっ、仕留め損なったか」デインの姿をした彼は、舌打ちしながらこちらと擦れ違った。幅跳びの如き動作で彼が着地したのは、クシュナの倒れ込んだ招霊器のすぐ横側。クシュナは落下の衝撃から立ち直ると、驚愕に目を見開き、彼の顔を見上げた。
しかし、それよりも早く禎宣が刀を振るい、彼女の両足首にその刃を滑らせた。
「志総禎宣……貴様……っ!」
「星紀、ここに居たの?」ムウは、転ぶようにして壁際の彼に駆け寄る。「酷い怪我……禎宣が、こんな傷を負わせたの?」
「ムウ……骨が折れて、剣技も使えない僕が、ここまで空魔の体を持った禎宣とやり合えたんだよ。奇跡だ……」星紀は、無理矢理微笑もうとした。「だけど、本当ならクシュナだって敵わないって言っていた相手だ……シンハさんが居なかったら、とっくに瞬殺されていた」
「シンハさん?」
ムウは、クシュナの歩行能力を奪った禎宣を見る。彼もまた、星紀より幾分か軽くはあるものの、決して少なくはない傷を負っていた。彼は白い着物を身に纏っていたが、それは地の色が見えなくなる程血に染まり、傷口周辺は炭化していた。間近で爆風を喰らったらしい、と思った矢先に、ムウは床に倒れてぴくりとも動かないシンハの体を見た。
「そっか……シンハさんが……」
「ムウ、君は大丈夫?」
星紀は、こちらの体を気遣う事を忘れない。ムウはこくりと肯いた。
「大丈夫……星紀に比べたら、全然」
「駄目だよ、元々重傷だった僕と比べちゃ」彼が、複雑そうな表情になった時だった。
「クシュナさん、駄目じゃないですか。契約不履行の癖に、対等に交渉しようなんて」
禎宣が、嬲るようにクシュナの顎を指先で掴み、くいっと持ち上げた。
クシュナは、憎悪の込もった目で彼を見上げる。その唇が怨嗟の音を紡ぎ出そうとしたようだったが、禎宣は星紀と彼女の血に塗れた刀をその口に当て、言葉を発させなかった。
「だけどまあ、いいですよ。俺だって、元々ヨド氏の為になる事なんて一つもする気がなかったんだ。あんたとの約束だって、対等じゃなかったしね。ハザクは死んだし、春姫先輩は……本体がないから、いずれ諦めるしかなかった相手です」
そう言った彼の顔にほんの一瞬だけ悲しみの色が過ぎったのを、ムウは確かに見た。
クシュナが主導権を切り替えたらしく、彼女の顔が悲哀の表情に変わった。
「禎宣君、あたし──」
しかし禎宣は、迷いを振り捨てるようにぎゅっと目を瞑り、招霊器のボタンを押した。




