『闇の涯』 第32回
22. シンハ ── 森暦某日
夜明けだった。《臨空の盾》の監禁された倉庫の扉ががらりと空き、彼が顔を覗かせる。
「さて、そろそろ移動ですよ」
「デイン様……」シンハが言いかけると、彼は突然臨空術の光球を生成し、こちらに飛ばしてくる。仲間たちの頭上すれすれに飛んだそれは、後方、突き当たりの壁にぶつかって爆発を起こし、膠泥を大きく崩壊させる。
「だから、俺はデインじゃないんですって。志総禎宣です、シンハさんなら覚えているでしょう?」彼は戯けるような口調ながらも、そこには確かな怒りが滲んでいた。
獲龍宮を脱出し、工業団地へ逃げ込んだ後、シンハを刺した彼は自らを志総禎宣と名乗り──それは、シンハにとって忘れられるはずもない名だった──、皆に武装解除を命じた。宮内を進む間に見せつけられた彼の戦闘能力を鑑みればこちらに逆らえるはずもなく、自分たちは彼に言われるままに武器を放擲した。
この倉庫まで導かれ、閉じ込められる際、四肢を拘束されるような事はなかった。剣技ではない臨空術を使えば入口を破る事も出来ただろうが、彼はそれでも構わない、と言った。
「その代わり、俺はまた獲龍宮に入るので。脱出するのはいいですけど、生粋の侍であるあなた方が武器なしで何処までやれますかね? この工業団地にもオートマトンは徘徊しているんだ、間違って殺されても責任は取れませんよ」
シンハは、彼が殊更にヨド氏に与している、という訳ではないと思っていた。そうだとすれば、宮内に居る間に自分たちを殺していればいいのであり、わざわざ協力関係にある者を手に掛ける必要などなかったはずだ。
彼の──禎宣の狙いは何なのか? そもそも、彼は本当に禎宣なのか?
「移動って、何処に移動するんだよ?」
ザンキが口を挟んだ。「公開処刑か、こんな早く?」
「クシュナは、そうしたい気持ちで一杯らしいですけどね。けど、俺はヨド氏があなた方を始末したところで何とも思えない。やるなら徹底的に、サナもヨドも、どっちもね。父さんに信じて貰わなきゃ、俺の戦いも終わらない」
禎宣は、シンハの左腕を掴んで引き立てた。
「あなた方皆を、擬鉄界へ。時の彼方へ追いやってしまうのが、森界の為にもいい」
「何でだよ……? 俺たちは、ヨド氏が『森の終焉』を起こすのを防ぐ為に今までやってきたんだぞ」とドウラン。「何で俺たちが戦う事が、森界の為にならないんだ」
「最初から駄目だったんですよ、俺と同じようにね。本当の鉄器族が未来を先取りして、サナが堕天戦争を引き起こした時点で因果は目茶苦茶だった。だから……ヨドもサナも、二大氏族の系譜は俺が終わらせます」
禎宣の瞳が、危険な光を宿した瞬間だった。
突如、彼の背後に巨大な魔方陣が展開した。空間に刻印されたようなその中から、滲み出すように束帯を纏った初老の男が現れる。対面するのは初めてだったが、シンハはその男を放送で見た事があった。
「秘奥義……『幽の通い路』。皇叔ハザクか」
禎宣が、低く唸るような声を出した。
「我が甥はつくづく愚か者であった……宮からの逃走をクシュナが提言した時点で、私のこの能力を何故それに使わぬのか、気付いていれば生き永らえたであろうに」
ハザクは独りごつと、続いて現れた《寄生木》の侍二人と共に禎宣へと近づいた。
「……クシュナの差し金ですか?」禎宣は、両手を挙げながら問う。
「いや、私個人の判断だ。面妖な空魔が、我が腹心たるクシュナを誑かしているとな。やはりそうであったか……賊の公開処刑は、我らが政変には必要不可欠なプロパガンダだ。其方が賊どもをこのように隠匿していたと分かった以上、やはり其方は我らが大義に仇成す存在か。神妙に観念するがいい、何者かは知らぬが、王者たるヨドに対して上手に出ようとしたのが運の尽きだったのだ」
ハザクがさっと手を振ると、《寄生木》たちは禎宣に飛び掛かろうと腰を落とす。
しかし、禎宣は呆れたように首を振るだけだった。
「やれやれ。俺から言わせて貰えばね、あなたも……数時間しか持たなかったあの覇空主と同じくらい、愚か者ですよ」
「何?」
「照射線」禎宣は、事もなげに詠唱した。
彼の頭の両脇に掲げられた手の甲に、魔方陣が生じた。そこから目も眩むばかりの白い光線が二筋射出され、面布と笠に覆われた《寄生木》二人の頭部を消し飛ばす。傷口が即座に焼き固められたらしく、血飛沫が迸る事はなかった。
光線は一筋に収束し、ハザクはそれ以上何も言う事なく吹き飛んだ。
23. 階星紀 ── 西暦二〇五五年 八月十六日 / 森暦某日
研究棟に入ると、志総教授や両親、上白石さん、ヒミツのメンバー全員が返霊器のある実験室の前に立っていた。歩み寄って行くと、教授は「ムウ殿」と言いかけ、すぐに自ら首を振って訂正した。「星紀君も、そこに居るんだな?」
「はい」
ムウに神依され、主導権を移譲されている僕は返事をする。
今、僕/ムウの格好は、彼女が最初に潜行してきた時と同様巫女風に結った髪に桜色のお端折りの着物、ミニスカート──ムウ曰く裙──というものだ。刻印獣を倒す”攻撃者”として散々報道されてきたこの姿で堂々と出歩いている事に、学生街の住民たちからは驚愕や奇異の目で見られたが、彼らは何も言ってこなかった。
「今日未明、禎宣とクシュナが敷地内に侵入、この実験室に入った映像が防犯カメラに残っていた。扉の鍵は、クシュナが刀で壊したようだ。もう、こそこそと隠れて動く必要などないと言わんばかりだったよ」
「もしかしたら……禎宣も、僕たちが追って来ると分かっているのかもしれませんね」
言いながら僕は、クシュナが禎宣を殺すように僕たちに言った事を思う。彼らは表面上協力しているようではあるが、クシュナは禎宣を──デインの姿を使っている者の存在を疎んじているようだった。禎宣が最初にヨド氏に対して何かをしたのかもしれないし、彼が何か別の要求を以てクシュナに僕たちを脅迫させ、彼女が面従腹背しているのかもしれない。そうだとすると、禎宣はクシュナが裏切っている可能性に気付いているのかもしれないし、自分がヨド氏にとって脅威と認識されている事も承知しているのかもしれない。
考えられる可能性は、無数にあった。ただ、彼らが水面下で腹の探り合いを行い、クシュナが禎宣を害そうとしている事だけは確実だ。
『……《銀狐》が、私たちをわざわざ巻き込んだ理由が気掛かりね』
僕の思考を読んだかのように、ムウが心に直接語り掛けてきた。
『だけど、私たちが人質を取られて脅迫されている立場の以上、彼女はこっちがとにかく禎宣に接触を試みるとまでは考えているはず。それまで、正面から戦ったら勝てないとまで言った彼女が禎宣に手を出す可能性は低いと思う』
「そう……かもね」
僕は肯くと、皆の顔を見回した。
「全てを明らかにしてきます、皆さん。もし禎宣と戦う事になったら──いや、正直クシュナとでも厳しいものがありますが、相当に時間が掛かると思う。倒すんじゃなくて、助ける為の時間が。戻って来るのは、何ヶ月も先になるかもしれません」
「それでもいい、星紀」
父が、母の手をしっかりと握りながら言う。「戻って来られないかもしれない──そう口にしなかった事が、父さんたちには何より心強いんだ」
「一日過ごすだけで、こっちじゃ一年五ヶ月だものね。そういうものなんだって母さんたちも分かっているから、何年でも待つわよ。星紀が……いえ、あなたたちが三人で帰って来るのをね。だから、あなたたちも心配したり焦ったりしないで、自分たちの時間をしっかりと過ごしなさい。思い出して──私たちがデータマトリックスの一層先の世界で、確かに待っているという事を」
「母さん……ありがとう」母の言葉に、僕は丁寧に頭を下げた。
一通りの挨拶が終わると、上白石さんが「それじゃあ」と言った。
「禎宣君とクシュナがここに侵入したのは、大体三時間前。現実じゃ、浮上してからまだ一分も経っていないだろう。喩えて言うなら、君たちが浮上してからは向こうと『よーいドン』からのほぼ同時スタートって訳。ムウちゃん、《臨空の盾》の隠れ家から獲龍宮まではどれくらい掛かる?」
「二十分くらいかな」主導権を切り替え、ムウが答える。
「重畳だ。だけど、隠れ家のある山中ではヨド軍の山狩りが続いているだろう。星紀君、一緒に戦うとはいっても、お姫様をちゃんと守ってあげるんだよ」
『は、はあ……』突然揶われ、ムウにしか聞こえないという事を忘れて返事をする。ムウは照れ隠しの為か何度か咳払いをすると、室内に足を踏み入れた。
「それじゃあ、行ってきます」
「頼んだぞ!」「帰って来てくれよ!」「いつでも想っているからね!」
ヒミツの皆の餞を背に、僕/ムウは返霊器に腰を下ろす。ヘルメット型インターフェースが頭部に装着されると、すぐに肘掛けのボタンを押し込む。
視界に光の粒子が現れ始め、浮遊感が僕たちを最外殻世界へと誘い始めた。
* * *
浮上して最初に目に入ったのは、あの恐ろしい人工の荒天ではなく、岩窟の天井だった。視線を落とすと、やはり沢山の空魔が集っている──が、彼らは武装しておらず、割烹着姿の女性や子供の姿も見られた。
「おっ、またお嬢ちゃんか。気忙しいな……いや、違げえか」
僕/ムウの座っている招霊器の傍には、《臨空の盾》の構成員であるジャンプさんが屈み込んでいた。彼がこの隠れ家で留守番をしている事は、ムウから既に聞いている。
「聞いて、ジャンプさん。あのね……私たち、獲龍宮に行かなきゃ」
ムウは立ち上がるや否や、単刀直入に切り出した。素早く何かを察したらしく、ジャンプさんの表情がすぐに引き締まる。「旦那たちに、何かあったのか?」
「話すと長くなるんだけど、《銀狐》が擬鉄界に潜行してきたの。シンハさんたち、皆捕まっちゃったみたいで……助けに行かなきゃ」それでね、と彼女は続けた。「今私、星紀に神依しているんだけど」
「おい、マジかよお嬢ちゃん? 森界にゃ魔気があるんだ、神依なんかしても意味がねえっていうか、却って足手まといになるんじゃねえのか? 別に星紀が役に立たねえって言っている訳じゃなくて、神依は化身の体も結構消耗させるから──」
「分かっています」
僕は、ムウから主導権を譲り受けて開口した。
「だけど、僕にはムウと一緒にやらなきゃいけない事があるから……ジャンプさん」
「お、おう」
「こっちに本体のない僕は、今神依を解けば不安定なデータの存在になってしまう。この前──えっと、五時間前にやった時みたいに、僕の肉体情報で動ける体が必要です。ジャンプさんが、僕の化身になってはくれませんか?」
「俺か……」ジャンプさんは唇を噛みつつ眉根を寄せる。「星紀にその気があるなら、俺は喜んで引き受けてえ。旦那たちの事も、俺が直接助けに行けたらって思うしな。けど、俺はその旦那から任されてんだ……ここでお嬢ちゃんの体を守れって。で、今じゃ守らなきゃいけねえ奴らが増えちまった。俺がここを離れたら、こいつらは──」
「心配しないで、お兄ちゃん」
不意に、聞き覚えのない声が響いた。見ると、ジャンプさんのすぐ後ろに、彼によく似た子供たちが集まっている。声を掛けた、いちばん年上と思われる女の子が、彼の着物の端を引っ張りながら言った。「私たち、《臨空の盾》じゃないけど、ここを守るくらいの事だったら出来るよ」
「ジャコ……」ジャンプさんは、驚いたように目を丸くする。
「僕も!」「私も!」他の子供たちからも、次々と手が挙がった。ジャンプさんは暫し呆気にとられたように皆を見ていたが、やがて声を詰まらせた。「ジャグル、ジャイロ……お前ら、皆……!」
言ってから、すぐに思い直したように激しく頭を振る。
「けど、それは侍としての責任を背負うという事だぞ。もしどうしてもここから逃げなきゃいけねえ時は、おふくろや皆を先に逃がして、お前らが命を賭けてヨド軍と戦わなきゃいけねえって事だ。俺は……俺が、そうするつもりだったんだぞ」
「出来るよ、お兄ちゃん」ジャコと呼ばれた女の子が言う。「私たち、お兄ちゃんやシンハさんが思っているよりずっと大人だもん。だって、お兄ちゃんのきょうだいだよ?」
唇を震わせるジャンプさんに、彼女は安心させるように微笑み掛けた。
「ね、だから置いて行って!」
「いい子たちですね」僕が声を掛けると、彼は「ああ」と何度も肯いた。
「分かった。星紀、俺を現の魂魄として使え。……それじゃあ、お前たち」
拳を胸に当て、サナ式の敬礼をする。
「森の息吹が、お前たちと共に在らん事を」




