『闇の涯』 第30回
21. 階星紀 ── 西暦二〇五五年 八月十五日
「禎宣君が、禎宣君じゃない?」
僕とムウが大学に行き、クシュナに会った事を告げると、上白石さんは最初こそ動揺を見せたものの、すぐにヒミツとしての立場を弁えてか冷静さを取り戻そうと努め、「詳しい話を聴かせて欲しい」と言ってきた。
戻った時、ヒミツの活動拠点となっている研究棟に志総教授の姿はなかった。夏休みで、大学の講義もないはずだが、と疑問に思った僕だったが、神依を解いたムウは何か心当たりがあるのか難しい顔で黙り込んでいた。僕にはそれがどうも、以前彼女が”推測”として口に出した「教授の個人的な仕事」に関わりがあり、彼女はそれについて僕よりもずっと詳細を知っているのではないか、などと考えられたが、敢えて口には出さなかった。
他のメンバーたちも、皆都合があって出勤していなかった。僕の両親も今日は家で過ごすと言っていたが、刻印獣が現れるかもしれないからといって四六時中イレギュラーの態勢で居なければならないという事もない。一応ここには誰かしらが詰めていなければならない事にはなっていたが、今日の担当は上白石さんと志総教授だった。そのような中で教授が部屋を出て行ったきり戻って来ないので、上白石さんは文句を言っていた。
「禎宣がデイン様ではなく、彼の”化けの皮”を被った鉄器族だっていうの。だけど、それはおかしい。デイン様の姿なら、私も星紀も、現実で見ているもの」
「となると、いちばん可能性が高いのは神依……か」
上白石さんは、ムウの言葉を受けて考えながら言った。
「ほら、神依をすると化身は空魔の姿に変わるだろう? 教授は《臨空の盾》から接触を受けた時、確かにサナ氏のお世継ぎを引き受けた。その子が、誰かに神依していたら」
「それはちょっと、おかしくないですか?」
僕は、素直な感想を口にする。
「あのクシュナという空魔は、彼と正面から戦えば勝てる保証はない、と言っていました。デインは生まれて間もない頃にこちらに預けられたのですし、臨空術を使う事は出来ないはずです。当然、こちらでは神依の必要もない……それどころか、彼はやり方すら分からない可能性が高い。それに、もし神依で何者かの体を使っているなら、何故これ程の期間それを解こうとしないんです?」
「待って、星紀。もしかしたら……」
ムウは苦しんでいるような顔のまま、僕の発言を遮った。僕と上白石さんが同時に視線を集めると、彼女は独りごつようなトーンでぶつぶつと呟く。
「クシュナの言う事が本当なら、禎宣の正体は鉄器族……だけど、姿はデイン様で間違いがない。鉄器族なら変身術も使えないし、姿が変わっている理由は神依以外に有り得ない。そして神依をすれば、鉄器族でも臨空術を使える。鉄器族で、クシュナに勝てないと言わしめる程術に精通していて、肉体の主導権を握ったまま空魔を封じ続けられる人物……」
「ムウ?」
僕は声を掛けようとしたが、今彼女の頭の中で手持ちの情報が懸命に消化されようとしているのだと考え、思い留まる。
その呟きを聞くうち、僕の脳裏で何やら疼くものがあった。直前まで覚えていた事をど忘れした時のような引っ掛かり。何なのだろう、この違和感は?
「デイン様が、もし何も出来ない状態なら? 生まれたばかりの赤ちゃん同然で、記憶も自我もなかったら? それこそ、一回擬森界で十歳まで成長して、戻って来て全ての記憶を消された星紀みたいに……」
「まさか!」
僕は、ムウが何に思い至ったのか気付き、声を上げてしまった。
「ミムか? 記憶干渉装置で、神依後にデインの自我が抹消されていたらって事?」
「ちょ、ちょっと待ってよ。二人とも」上白石さんが、慌てたように口を挟んできた。「大学のミムは、十八年前に星紀君に使ってから暫らくはヒミツが保管していた。その事は、新入りの俺にも教授から説明されている。中央病院や付属クリニックに導入されたものだって、医局が厳重に管理しているし」
「じゃあ、ヒミツが保管している装置の場所を知り、そこに出入りする方法を掴んでいた人物という事になるよね。そして、鉄器族でありながら臨空術の経験があった──空魔族に神依される機会のあった人っていうと」
ムウは一息に言おうとしたようだったが、そこで歯が鳴る程の勢いで口を閉じた。目が伏せられ、躊躇するかのような先程の表情に戻る。
「どうしたの? 何か、分かった事があるなら……」上白石さんが催促する。
ムウはそれでも暫し逡巡の素振りを見せたが、やがて震えた声で「それが本当なら」と紡ぎ出した。「もう、黙っている訳には行かないのかな。教授との約束だとしても」
「ムウ、君は一体」
僕が更に言いかけた瞬間、彼女が唐突に上体をくの字に折った。
「ごめんなさい、二人とも!」
「えっ……ええっ!?」
突然謝罪され、僕も上白石さんも狼狽する。
「私、ずっと隠していたの。この一ヶ月半、志総教授が何をやっていたのか……それを話さないと、私がこう考えた理由も理解して貰えないと思う。だから私、今から教授との約束を破っちゃう。教授が何を考えて、何を調べていたのか、全部話すわ」
──ムウは、やはり僕の予想に違わず、教授に関する何かの事情を知っていた。
僕も上白石さんも、何故そのような事を隠していた、などという無意味な問いは発さなかった。僕が「お願い」と催促すると、彼女は堰を切ったように話し始めた。
「教授は、一ヶ月半前から毎日、第三層界以上の擬界に潜行して、各サーバーのシステムログを調べていたの。星紀が一週間計画で過ごした擬森界ももう滅びちゃってはいたけど、擬界システムが成立した以上、遺跡になっても招霊器や返霊器は生きているから。この第二層界からは、第三層界に残されたログまでしか見れないからね。
私、先月上旬にこれを教授から聞いたの。刻印獣第三号との戦いから撤退して、回復の為に一旦現実に浮上した時。あの時、星紀は私と一緒に居なかったでしょ? ……私、教授があまりにも疲れているようで、様子がおかしいと思ったから」
「それから後も、ムウちゃんは一人で教授と?」
「時々様子を聞きに行くだけだったけどね。夜、星紀が寝ている間にこっそり部屋から抜け出して大学に来ていた。教授も、この”調べ物”をする時間は夜しかなかったし。
教授が調べていたのは、十七年前に『闇の涯』を観測しに行って、戻って来なかった禎宣さん──彼の本当の息子である、禎宣さんの安否。教授、状況がこんなになって、自分の中で過去に区切りをつけなきゃいけないって思ったんだって。息子はもう死んでしまった可能性が高い、けどそれが分からないから、第三層界を初期化してやり直す事が出来ない。サナ氏が空魔氏族に結集を呼び掛けて、ヨド氏との全面対決に向けて動き始めている今が、全ての始まりであった”予言”が──ヨド氏による『森の終焉』が成就するかどうか、危急存亡の秋かもしれないのに、って。
『闇の涯』からデータを持ち帰って現実世界を、そしてヨド氏に支配された人類を救うには、もう西暦換算で紀元後一万年を超えた擬森界じゃ駄目。それより深い第四層界、第五層界の時間の流れはもっと早いし、第三層界が滅びた時点で『闇の涯』にデータを採りに行くのは不可能だから。教授は全てをやり直す為にも、息子の生存を諦められるだけの確証を得ようとしていた。勿論、もし彼が生きていて、データマトリックスの中から救い出す事が出来るならそれがいちばん良かったんだろうけどね。
で、最初彼は、何十層分のログを調べても禎宣さんの痕跡を見つけられない、って不思議がっていた。擬界の住人は人工知能だし、本当に何億分の一って確率だけど、システムに狂いがあれば消えてしまう事もある。禎宣さんも、それで消えたんだろうか、って。だけど、百層を超えた辺りで彼は思いがけない発見をしたの。それ以降の加速が、一万三千倍になるようにシステムが改変された、という記録を」
「一万三千倍!? その数値は、一体……」
僕の疑問に、ムウは整然と答えた。
あたかも、それが何を意味しているのかについて、もう忘れる事は出来ないというように。
「第n層界の住人が、第n+1層界を作ったら、その第n+1層界で招霊器と擬界──第n+2層界が作られるまでの期間は、九年半。これは最初に星紀にも説明したよね。この擬鉄界でヒミツが擬森界を作ったのが二〇二九年、擬森界は西暦換算で一年。その八年七ヶ月後にどっちも二〇三七年になって、こっちの世界でのその翌年一月末、擬森界は招霊器と第四層界の出来た二五四七年になっていた。
本物の禎宣さんは何層目の擬界でも、必ず九年半はそこで過ごさなきゃいけない。繰り返す同じ日々に疲れた彼は、ある世界でヒミツかヨド氏が作った擬界システムをハッキング、加速度を五百二十倍から一万三千倍にした。そうすれば、その世界で一日弱過ごすだけで、二層先の世界でも招霊器と擬界が完成した年になるから。だけどそれは、『擬界の加速は常に五百二十倍』という因果律の規定を狂わせるものだった」
「それじゃあ、整合性を保つ為に因果の収束が起これば……」
「そう、次の次の擬界、禎宣さんが居た地点を第n層界とすると、そこから第n+2層界の相対加速度は一億六九〇〇万倍になっていたの。それ以降の世界でも、前の世界との時差が一万三千倍という状態が維持されていたのね。仮説だけど、そこに潜行した禎宣さんが見たのは……もう『森の終焉』が訪れてしまった世界だったんじゃないかな? その世界が擬森界だったとすれば、一層先の人間が技術的特異点に到達して……それを、擬鉄界を技術採取の目的で運営していたヨド氏が盗んで。地球の自浄作用が、急激に発展した魔科学技術によって限界を迎えるのが早まって。
それは、それ以上招霊器を作る事が出来ず、『闇の涯』に辿り着けなくなった世界──この先どん詰まりの世界だった」
ムウの言葉に、僕は腹の底に鉛を沈められたような重さを感じた。
本物の禎宣さんを──肉体をコンバートし、何百年、事によると千年以上もの時間を繰り返した彼を、その末に待っていたものは”絶望”だったというのか。それも、忍耐出来なくなった彼自身の干渉によって引き寄せられた──。
「もし、そうなったとしても」上白石さんが、希望を込めて口を挟んだ。「一層前の世界でやり直せば、新しい『一層先の擬界』を作る事が出来るじゃないか」
「駄目よ。再製作案が禎宣さんの口から出れば、『擬界と招霊器は必ずその世界の住人の手によって作られる』っていう規定、因果律の収束地点が狂って、更なる整合化が働く。それがどんな形になるか想像も出来ないけど、従来の因果から増々逸脱するのは確か」
ムウは即座に首を振り、唇を噛んだ。
「本当の事は分からないよ? だから、教授は今も尚ログを遡る作業を続けている。けど、もしかしたら、って私は思う……禎宣さんは、絶望の中で浮上してきたんじゃないかな? 第三層界以上先に痕跡がないのは、彼はもう潜行状態にないからで。そして彼は、ここ第二層界に居るヒミツの人たちに、帰還を報告しなかった。
……ここまで説明すれば、私が何を考えたのかもう分かるでしょ? 過去に空魔族と接触していて、神依を通して臨空術の使用経験がある人物。ヒミツで匿っていた禎宣=デイン様の正体を知っていた人物。ミムの保管場所と使用方法を知っていた人物──」
「今デインの姿を取っている鉄器族の男っていうのは、本物の志総禎宣……!?」
「他に考えられる?」
ムウの鬼気迫る声に、僕も上白石さんも揃って首を振った。これが本当だったら、それ程残酷な事があるだろうかとも思う。だが、他に納得出来る説明をしろと言われても出来そうになかった。
「だけど……だけどだよ、ムウちゃん」上白石さんは、眉間を揉みながら言う。「本物の志総禎宣が浮上していたとして、何でそれを教授に言わないんだ? その上に、デインを神依させて記憶を消して、自分が彼の代わりをするなんて。一体、何の目的で?」
「それは」ムウは言おうとして、言えなかったようだった。
僕は、自分が茫然自失に陥っている、という事にすら気付けなかった。ムウがはっとした表情になり、僕の両肩を掴んで揺さぶってきた時になって、初めて我に返った。
心臓が激しく拍動し、未だに折れたままの肋骨を内側から叩くような痛みを感じた。
「星紀、気を確かに持つのよ。まだこれは、状況証拠から考えられた、推理ともいえない憶測の類なんだから。まず教授に話さなくちゃ。私が約束を破った事について、教授は怒らないと思う。彼は、一人で抱え込もうとしただけなんだもの。星紀にとっては、ショックどころじゃ済まない話だと思う。だって、これが事実なら」
「言うな!」
僕は、気付けば叫んでいた。ムウがびくりと僕から手を離し、僕ははっとする。
「ごめん……だけど、言わないで。憶測なら……」
彼女が何を言いかけたのかは、僕にも察しがついた。
もしこの”仮説”が真実ならば、禎宣は何かしらの企みを秘めたまま十数年間暮らしてきた事になる。恐らく、僕と初めに出会った時から。彼は僕が、一週間計画のテスターだと知った上で友達の振りをしていたという事に──。
「そうだね……私こそ、星紀の気持ちに気を配れなかった。ごめん……ゆっくり、どうすればいいかを考えて。長くなってもいい、だってこっちで何日過ごしても……現実じゃ、一日も経たないんだもの」
ムウのその言葉に僕は、彼女も今焦燥に苛まれているのだ、という事に気付いた。
クシュナはこうも言っていた──禎宣を油断させて殺せ、さもなくばシンハさんたちが処刑される、と。




