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闇の涯  作者: 藍原センシ
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『闇の涯』 第3回


          *   *   *


「偉大なる覇空主、ヨド・ハジャトの男児(おのこ)ハクバス。汝、両界を統轄し、牽引する者としてその身を大義に捧げ、神聖なる森の(うから)たる空魔氏族に、更なる繁栄をもたらす事を誓うか」

 神官のよく練られた太い声が、儀式場に響き渡る。

「大いなる流れの(しもべ)として」

 声変わりを終えたばかりのような、ややざらつきのある声がそれに応じた。廃工場の跡地の如く黒光りする金属の宮殿は、ごうごうと洞窟に住む獣のような音を立てて燃え盛る聖火の赤光に浮かび上がり、人工の夜空の下であたかも魔王の居城の如き様相を呈している。

 下から見上げたら首を傷めそうな程高い階段の上で、神官が聖剣を以てハクバスの両肩に触れ、洗礼を施している。その間、跪いた各氏族の空魔たちは深々と(ぬか)づき、儀式が進行するのを淡々と待っている。

 ヤドクに率いられたムウたちは、獲龍宮(かくりょうきゅう)を見上げる機械仕掛けの街を疾駆する。摩天楼が乱立する都市は、訪れる度に密度を増し、容れ物から水が溢れ出すように周辺へと規模を拡張しているように思えた。住人の居なくなった集落に森が進出していく様にも似ているが、こちらの侵食速度は自然現象の比ではない。

「魔科学に魅入られたヨド氏が『森の終焉』を招く……何百年と前の鉄器族の予言も、いよいよ実感を伴ってくるな」

 構成員の一人、縮れ毛の男ザンキが独りごちた。

「鉄器族本来の科学がどんなものだったのかは、今の俺たちには分からねえ。けど、少なくとも発明が実現したらどんな事になるか、想像力が常に技術に先立たなきゃいけねえってのは鉄則のはずだろ。ヨドの魔科学は、それを平気で無視しちまう。あそこで覇空主になろうとしているあいつだって、このまま行けばこれから先、どんな事が起こるのかをまるで理解しちゃいねえんだ」

「だけど、デイン様を絶対安全な場所に隠す事が出来たのも魔科学のお陰だ」

 ぼそりと呟いたのは、小柄なジャンプだ。

「皮肉だよな。空魔族と鉄器族、両方を救う為にはまず鉄器族を踏み台にしなきゃいけねえ、なんて」

「擬鉄界そのものは、悪い発明じゃないさ」

 ヤドクは、仲間たちの無駄話を諫めるように早口で言った。

「悪いのは、それに隣人である鉄器族を利用したヨド氏だ」

 ムウは肯く。その一方で、鉄器族はややもすれば、今幸福なのかもしれない、という思いがちらりと脳裏を掠める。むしろ、彼らにとっては自分たち《臨空の盾》こそが、眠っている赤子の目を無理矢理覚まそうとする者たちなのかもしれない。それでも──。

 映像で何度か目にした彼らの姿を思い出し、ムウはぎゅっと拳を握り締める。

 あれはヒトとして、否、生命として在るべき姿ではない。

 氏族の大半が継承の儀に出向いているらしく、深夜の街は閑散としていた。ムウたちは人気(ひとけ)のない通りを駆け抜け、獲龍宮を取り巻くように建設された工業団地へ入る。空気清浄設備が物凄い能率で稼働しているらしく、機械の動く音が絶え間なく響いてくる割には区画の大気は澄んでいた。

 いよいよ、空魔の気配は感じられなくなった。欠陥の自動検出、自動修復を含め、工場設備の九割は人工知能で動いている。区画内の見回りも全て多脚の自動人形(オートマトン)が行っている為、二十四時間体制で稼働している工場ではあるがその運営に空魔の手を(ほとん)ど必要としない。ムウとしては、相手が空魔であろうとオートマトンであろうと、敵は”敵”以外の何者でもない、と思っているのだが。

退魔剣(タイマケン)!」

 建物の中の一つに入り込むと、兄は刀を抜きつつ行く手で赤外線監視装置を回転させていたオートマトンに斬り掛かった。大気中に含まれる魔気を錬成した臨空術を、武器による攻撃に付加した一撃──剣技を死角から放つと、自動人形は叫び声に反応したのかこちらに頭部を回転させた。単眼を思わせる凸レンズが発光し、危険人物発見の警告音を発しつつ射撃を開始しようとする。

 だが、鼓膜を破らんばかりの音も、何十何百という弾も、自分たちに届く事はなかった。それらが発される前に、兄による斬撃はオートマトンの胴部を袈裟懸けに両断していた。

 やはり、兄の速度は凄まじい。これが他の者であれば、たちまちにして蜂の巣にされ、応援を呼ばれていただろう。

 再度辺りを見回し、他の敵が居ない事を確認すると、兄はこちらに手招きしてきた。ムウたちが駆け寄る間に、兄は少し先にある昇降装置へ移動し、階層案内板を弄り始める。追い着くや否や、少年を帯で背中に結わえたシンハが「お任せ下さい」と言い、機械に手を翳した。彼の(てのひら)から魔方陣が生じ、それに呼応するかのように十二桁の認証番号が次々に入力、確定されていく。

 全ての桁が確定すると、行き先に新たなボタンが現れる。一同がそれに乗り込むと、兄はシンハに向かって無言で微かに顎を引き、ボタンを押し込んだ。


          *   *   *


「ムウお嬢様、無理はしなくて宜しいのですよ」

 紫色の雷光が閃く、暗雲の垂れ込めた空。工業団地地下、最下層とは思えない光景だが、その荒天も地平線も、全ては球状になった天井に映し出される映像に過ぎない。見た目の開放感よりも遥かに小さい──とはいっても、サナ氏族長の屋敷の敷地面積とほぼ同じ広さではある──その空間は、濃厚な薬品の匂いで飽和していた。

 ムウは今までの《臨空の盾》の作戦で、何度もここヨド氏の魔科学工場には潜入を行っている。しかし、兄たちから聞いていたこの部屋に自ら足を踏み入れるのは初めての事だった。

 想像通りの、しかし想像していたからといって緩和されるはずもない悲惨な光景が、容赦なく網膜に焼きつく。雑多な機械の合間に規則的に並べられた立方体の、刳り貫かれた上部から紫蘇(しそ)色の光がぬらぬらと立ち昇っている。

 胸の中が腐敗するような気がして、込み上げる嘔気を堪え始めた自分に、シンハが声を掛けてきた。ムウは匂いを吸い込まないように口呼吸をすると、「大丈夫」と手首を上げて彼を押し留めた。

「お兄ちゃんが……隊長が戻るまで、私も守るから」

「しかし」

「私も戦える。だから、守りたいの──ここに居る人たちの為にも」

 自分の毅然とした声に何か感じるものがあったのか、シンハはそれ以上何も言わなかった。兄がこちらを振り返り、微かに口角を上げる。それから、前方に向き直った。

「見えたよ。あそこにあるのが招霊器……擬鉄界への窓口だ」

「あれが……」ムウは、小さく呟いて正面の物体を見つめる。

 祭壇の如く、ここよりも数段高くなった石積みの台。そこに、片手で運び出せそうな大きさの椅子型の機械があった。肘掛けに当たる場所には幾つかのボタンが並び、背凭れの上部には兜のような電極が付いている。

 完璧な計算によって、因果の再現された世界。しかし、それは実在する。あの装置を起動した瞬間、接続者の魂はその世界へと潜行を開始するのだから。電気信号が脳に流され、五感を通じた擬似体験を()()()頭の中で完結させるのではない。文字通り、異なる世界へ”行く”のだ。

「日付が変わるまで、あと一分弱」

 兄は、着物の懐から懐中時計を取り出した。

「擬鉄界の時の流れから考えて、十五分から二十分程度で俺は戻る。向こうの『ヒミツ』の協力者は、デイン様に彼自身の血筋と森界の実情について真実を打ち明けた上で、教育を施している。俺が迎えに行っても、彼が必要以上に混乱されたり、俺から説明をし直さなければならない事態にはならないだろう。

 戻る時は、向こうの返霊器でデイン様から先に送り返す。当然だけど、彼はこのシステムを使用された事がないからね。だから、俺が『魂落ち』になっても心配する事なく招霊器から引き離して、彼の体を接続しておくように。大丈夫、ここまで奴らによる妨害はなかった。手順さえきちんと守れば、上手く行く確率は十分以上だ。……皆の事を頼んだぞ、シンハ」

「はっ、隊長」シンハが敬礼する。

「ザンキ、ジャンプ、バクン、ドウラン……」兄は構成員たちの名前を一人一人順番に呼んでいき、最後に「ムウ」と言った。「俺の体を、宜しく頼む」

「分かった。隊長、森の息吹(いぶき)が、あなたと共に──」

 ムウが、サナ式の敬礼をしようとした時だった。

 突如、背後で何かが鋭く空を切る音が響き、仲間の一人が呻き声を上げた。脊髄反射のような動きでムウが振り返った時、目に入ったものは、一同のしんがりを務めていた構成員が(うなじ)を矢に貫かれ、どうと倒れ伏すところだった。

 頭から、さっと血液が落下するのを感じた。皆と共に、得物(えもの)に手を掛けつつ悶えている仲間の向こうを見やる。

 そこには、甲冑と具足に身を包んだヨド氏の侍がずらりと並んでいた。(ただ)し、彼らの顔は見えない。皆、黒地に白い二重丸を染め抜いた面布を笠から垂らしているのだ。前方に居る数人は空中に弓を浮かせて矢を(つが)えており、彼らがあの距離から正確に急所を狙い撃ちしてきたのだと思うと、戦慄が走った。

 ヤドクが、太刀の柄に手を掛けながら進み出た。

「……《寄生木(やどりぎ)》だな?」

「えっ、あいつらが?」

 ムウは、兄と侍たちの間で視線を往復させる。

 ヨド軍暗殺者部隊《寄生木》。それは覇空主の陰に隠れ、敵対する氏族に対して諜報や破壊工作までをも行う非公式部隊だった。将来ヤシロの跡を継ぐはずだったヤクシャが怪死を遂げたのも、この《寄生木》に属する呪詛師が関与しているのではないか、と疑われている。

 名前だけは、耳にした事があった。実際に兄たちも、《臨空の盾》としてヨド氏の偵察を行う中で、《寄生木》ではないかと思われる相手と(やいば)を交えた事があったそうだ。しかし、実際に目の当たりにするのはこれが初めてだ。

(私って、本当に世間知らずのお嬢様だったんだ……)

 そのような事を思った時、覆面の一団の中から一人が進み出てきた。軽そうな袖なしの鎖帷子(かたびら)を着込み、幅の広い鉈のような刀を持った戦士。体形から、ムウにはその相手が女である事がすぐに察せられた。まさか、と思いつつ見ていると、その戦士は無造作に面布を払い、黒鼠色のおかっぱと狡猾そうな美貌を晒した。

「クシュナ? 何でこんな所に……」

「私が貴様らなら、きっとこの瞬間を狙うだろう。ハクバス陛下や軍の注意が、儀式場に向いているこの隙にな」

 ヨド軍の親衛隊長、《銀狐》のクシュナは、酷薄な笑みを浮かべる。

「それに、貴様らは今まで何度もこのプラントに探りを入れていただろう? たかが特化型人工知能のオートマトンを何体屠ったところで、本当の私たちの目は欺けまい。(しば)らく泳がせてはみたが、やはり目的は招霊器か」

「何? クシュナ、貴様……何を知っている?」

 兄の声が、そこで動揺したかの如く上擦った。クシュナは不意に笑みを消し、氷点下まで温度を下げた声色で言った。

「お喋りはここまでだ。我々ヨドに盾突いた罪、貴様らの命を以て贖って貰おう」

 彼女はこちら側の誰かが発言するのも待たず、部下たちに「やれ」と短く指示を出す。弓矢を構えていた暗殺者たちは、魔方陣を展開してそれぞれの(さが)に合わせた臨空術の効果を付加すると、一斉にそれらを放ってきた。矢の雨の下を、身を屈めてそれらと平行に飛ぶかの如く、刀を抜いた者たちも向かって来る。

 兄が、「シンハ!」と副官を呼んだ。「お前の背中に負われている体が死んだら、打つ手はない! 出来るだけ下がって、《寄生木》どもに背を見せないようにするんだ」

「御意!」

 シンハは返事をしたが、その目は据わっていた。背負っている体を守るように、真っ直ぐ前半身を敵に向けながら長槍を抜き放つ。その位置取りは自然にヤドクの前に立ち塞がるものとなっており、ムウにはシンハが、兄も皆もまとめて守ってやる、というような気迫を放っているように感じられた。

「エエイッ!!」

 裂帛の気合いと共に、彼が槍を盾の如く振り回す。飛来した《寄生木》の矢は、そこに当たるや否やへし折れて地面に落下した。

 同時に、直接襲い掛かってきた侍たち数人もムウたちの目の前に到達する。ドウランとザンキ、それに兄がシンハの前に進み出、迎撃の構えに入るのを見、ムウも急いで剣技を発動しようとした。

断落双(ダンラクソウ)!」

 縦斬り、一旦減速してからの追い討ち。ムウの繰り出した上段二連撃技は、肉薄してきた侍の刀を落下させ、体幹をすっぱりと斬り割った。返り血がこちらの刀身を赤黒く染めるのを見て、ムウは自分が空魔を斬ったのだ、と自覚する。

「動揺するな、ムウ!」兄が、同じく侍の一人を斬り倒しながら叫んだ。「真剣で戦えば、そうなるものなんだ! そうならなきゃ、やられるのはお前の方なんだぞ! 作戦に着いて来たからには、覚悟を決めろ!」

余所(よそ)見をするな、《(まむし)》のリーダー!」

 クシュナが、倒れ伏す侍の亡骸の陰から宙を泳ぐような動きで兄に襲い掛かった。バチンッ! という鉄釘を叩いたような音が響き、彼女の突き出した刀の刀身がばらける。鞭の如く(しな)ったそれは、剣技の発動を意味する赤黒い発光を伴ってシンハと兄を大きく薙ぎ払おうとする。「鉈爬螺(ジャバラ)!」

「お兄ちゃん!」「うっ……!」

 ムウが叫んだのと、ヤドクが呻き声を漏らしたのはほぼ同時だった。

 兄の胸の上辺りから血飛沫(しぶき)が舞う。伸縮する刀身に、見切りをつけたつもりでも見誤ったのか、と思ったムウだったが、すぐにそうではない事に気付き、心臓に焼き鏝を当てられたような気分になった。

 兄は、クシュナの技を自らの剣技で弾く事も出来たはずだ。それをしなかったのは、弾かれた相手の刀が、ムウに当たってしまう為だった。そうなれば、位置的に考えて、射程がどうであれ確実にこちらの頸動脈は掻き斬られていた。

 やはり、自分は足手まといでしかなかったのか。

 そう思った時、胸の内で渦巻いていた恐れや焦燥が、ある一点を突き抜けた。怒り──否、もっと激しく、それでいて熱を持たない、不思議な冷静さへと。

真退魔剣(シンタイマケン)!」

 ムウは、シンハが新たに相手をし始めた敵を撫で斬りにし、横から幅跳びの要領でクシュナに接近した。手負いの兄に追い討ちを掛けようとしていたクシュナは、ぴくりと眉を動かしてから冷静に対処しようとする。

「斬撃強化型か。何故、己が(さが)を用いようとしない?」

 言いざま、彼女は刀身を青白く光らせた。剣技、初見だが恐らく性は空。対して、ムウが持つ臨空術の性は火だった。反属性にはならず、そこまで相殺効果は期待出来そうにない──そう考える事は、自らに適性がある火を満足に扱えるようになって、初めて出来るようになる事だ。

 ムウは、腰を落として迎撃位置を調整しつつ、剣技が取り消されないよう図る。刀身がぶつかり合った瞬間、伸縮するクシュナの刀はこちらの(やいば)の上で何度か跳ね、ムウの頰を断続的に切り裂いた。

「太刀筋は兄と同じ、腕もそこまで悪くはない。性を使わないのは、私が舐められているという事か!」

「やめろ!」兄が、クシュナの目を再び自分に引き付けるべく動き出した時、

「もう日付は変わっています、隊長!」

 シンハが、《寄生木》の侍たちを三人まとめて斬り伏せながら一喝した。

「この場は我々で持ちます! 恐らく、既に大勢のヨド軍が通報を受けてここに向かって来ているでしょう。これ以上敵に増えられたら、守りながら戦う事は出来なくなる! 今のうちにあなたに招霊器に接続して貰えれば、ムウお嬢様も格段に戦いやすくなるでしょう。ですから早く!」

「シンハさん、そんな……!」

 ムウは、絶え間なく襲い来るクシュナの斬撃を刀で受けつつ、左手の甲で顔から流れ出す血液を拭う。何故、そのような事を言うのだ、と思った。

 足手まといになっているのは、完全にこちらの方なのに──。

「お嬢様」シンハは、意地でも《寄生木》に背中を見せまいというように、横滑りに移動しつつ槍を振るった。その穂先がクシュナの鎖帷子(かたびら)を掠め、微かに火花を散らす。ムウが躊躇いがちに彼の顔を横目で窺うと、彼は「心配するな」というように肯き、槍の胴部を打ち出してクシュナを退かせた。

 ムウに加勢しようとしていた兄は、ぐっと唇を噛む。「ムウ……」

「行くのです。……行け!」

 シンハは、痺れを切らしたように怒鳴った。ヤドクは太刀を鞘に納めると、歯息のような声で「すまない、頼んだ!」と言い、身を翻して招霊器へと駆け出す。シンハとムウは並び、引き続きクシュナの相手をしようと身構えた。

 だが、クシュナが次に取った行動は思いがけないものだった。

「汚らわしい《(まむし)》が……それは、貴様らが触れて良いものではない!」

 彼女はそう叫ぶや否や、腕に回転を掛けて刀を振るった。ムウ、シンハが攻撃を仕掛けていれば、防御が一切行えないまま肉体が切り裂かれるであろう無防備な姿勢。しかしそれが(かえ)って、こちらには予期出来ないものとなった。

 クシュナの刀身が伸び、招霊器に近づいていたヤドクの首筋へと一直線に向かって行き──貫いた。

 血液が、彼の(うなじ)()ぜた。小さく、そして刀が抜かれた瞬間、夥しく。

「お兄ちゃん!!」

 ムウは、傾倒する兄に向かって滑り込むように駆け寄った。クシュナが背後から同じように狙ってきた気配があったが、それは刹那にすぐ耳元でのカシンッ! という剣戟に変わる。シンハが素早く動き、庇ってくれたようだったが、ムウには今し方自らに命の危険が迫ったという事を実感する余裕もなかった。

 伸ばした指先を招霊器の座部に掛けたまま、兄は俯せに倒れて動かない。ムウは彼の伏せられた頭の前まで回り込むと、血の池の中からその頭を抱き起こした。

「お兄ちゃん! お兄ちゃん! しっかりして!」

「ムウ──」彼は、痙攣する顔を上げてこちらを見つめる。既に頰からも唇からも、血色は失われて真っ青になっていた。

 ムウが、更に呼び掛けようとした時だった。不意に、兄が力を振り絞るようにして震える右腕を振り抜き、こちらの左肩口を押してくる。ムウは不意を突かれた事で屈み込んだままよろめき、背中から招霊器に倒れ込んでしまう。

「えっ?」

 すぐさま、兜のような電極が頭に嵌まり込んでくる。一瞬遅れて、ムウは兄が何をしようとしているのかに気付いた。「お兄ちゃん、待っ──」

「すまない、ムウ……デイン様を、頼む……」

 掠れ声で言うと、兄は肘掛け部分のボタンを押し込んだ。血の雫がボタンに付着し、やがて持ち上げられた兄の腕がだらりと血溜まりに落ちる。

 そして、ムウの視界に、次第に無数の光の粒子が凝集し始めた。

 それで目の前が満たされていくに連れ、周囲の戦闘音が徐々に遠ざかっていく。

「こちらクシュナ。ギルファン、聞こえるか? 直ちに、擬鉄界に刻印獣を……」

 クシュナが通信機に向かって呼び掛ける声が、最後に耳に届いた。

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