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闇の涯  作者: 藍原センシ
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『闇の涯』 第29回

  20. 工藤春姫 ── 西暦二〇五五年 八月十五日


 冷房のない薄暗い部屋で、春姫は素肌の上に薄い毛布一枚だけを纏い、小型扇風機の風に当たっていた。禎宣は、春姫の事など目に入らないような素振りで黙々とキャンパスノートにペンを走らせている。念の為、電波の入るような通信機器は一切電源を切っていたが、彼はデジタル端末がなくても書く事をやめない。

 船橋の雑居ビル、その地下室。三ヶ月が過ぎても、禎宣はそこから場所を移そうとはしなかった。配電線の切断により電気が通らない為、梅雨明け以降は熱気が籠り、春姫は禎宣が熱中症で倒れてしまうのではないか、という事が何より心配だった。

 地下室の扉が、あらかじめ取り決めていたリズムでノックされた。禎宣は緩慢な動きで立ち上がり、帰って来たクシュナを室内に招き入れる。

「階星紀とムウには会いましたか?」

「会った。貴様の言う通りの事を伝えたぞ、『志総経之を最外殻世界に浮上させろ。さもなくば《(まむし)》どもの命はない』とな」

「上出来です。それでは俺たちも、再浮上に掛かるとしましょう」

 禎宣は満足げに言う。クシュナは「もう一度確認しておくが」と言った。

「ヒミツ、とかいう連中が本当に志総経之を浮上させるかどうかは私にも分からない。あの娘が、『闇の涯』への到達を優先して仲間を切り捨てる可能性もある。そこまで私は責任を取れないし、この時点で契約は履行した事になる」

「結構ですよ。俺が隠した《臨空の盾》の連中は、あなた方ヨド氏に引き渡します。煮るなり焼くなり公開処刑するなり、自由にして下さい」

「今度は貴様の誠意を見せて貰おう。……その女を使ってな」

 クシュナの目が、蛇の如き狡猾そうな眼光を持ってこちらに向けられた。春姫は毛布を一層きつく体に巻きつけ、不安を気取られないように力を込める。禎宣は「先輩」と、低い声で言ってきた。「いいですね、クシュナさんの化身となっても?」

「……ええ」春姫は、強張った声で返事をする。「あたしは、何があっても禎宣君に着いて行くから。それが、人質になる事だとしても」


 三ヶ月前、まだライフラインの寸断が続いている中、苦労しながら鳳栖大に辿り着き、そこにある返霊器から浮上を試みた時、結論からいえばそれは失敗に終わった。禎宣を探すヒミツや警察の目を掻い潜り、大学に忍び込んだにも拘わらずそのような結果となった事に、彼も春姫も無念に堪えなかった。

 春姫は、何度も経之らヒミツに直接会い、自分たちの無事を伝えればいいのに、と提案したが、禎宣はその度に何かしらのリスクを挙げ、自分たちは身を隠す必要があるのだという事を強調した。刻印獣を最初に倒した少女──後に組織された特対課が”攻撃者(アタッカー)”という符丁で呼んでいる──が第二の刻印獣出現の折にも姿を見せ、世田谷北東部の多くを灰燼に帰しめたその敵を屠った際は、春姫は彼女にも接触してみてははどうか、と訴えたが、禎宣はそれもまた一蹴した。

 彼に決定的な態度の変化が現れたのは、春姫が禎宣のスマートフォンについて、本当に通信が回復しないのか、と疑いを抱いた時からだった。ある時、彼が眠っている間に春姫がこっそりと端末に手を伸ばし、電源が切られている事に驚いていると、知らないうちに目を覚ましていた彼から手首を掴まれた。

「困るなあ、春姫先輩。せっかく先輩を巻き込まないように、精一杯頑張っていたのに」

 彼は何故か楽しげでもあり、春姫はそれが何より不安になった。

「巻き込む……?」

「実は俺、まだ先輩に言っていない事があるんです。だけど、これは先輩にとってあまりにもショックが大きすぎると思う。俺は先輩の事、本当に大事に想っていますから。だから、先輩のその後の幸せまで奪ってしまいたくはないんですよ」

 彼はそう言うと、突然春姫を押し倒してきた。拘束したままの手首を引っ張り、室内を通っていた排水管におもちゃの手錠で繋ぐと、傍に食糧の袋と簡易トイレを置いた。そこで春姫は初めて、彼が最初からこのような状況を想定していたのだという事を悟り、動悸が止まらなくなった。

「ごめんなさい、先輩。俺、こっそり情報を集める必要があったから……二、三週間で戻って来ます。その時先輩がまだ、俺の事を好きでいてくれたなら……そして、全てを知る覚悟が出来ていたら、俺も全てを話します。そうじゃなかったら」

 禎宣は、その言葉だけは心から寂しそうに言った。

「せっかく、学生の間に好きな人が出来たのにな──そう思う事にします」

 そして、そのまま部屋を出て行ってしまったのだった。


 約束通り二週間と少しの後、彼はクシュナを伴って帰って来た。春姫はすぐに禎宣に食って掛かろうとしたが、すぐに彼の背後に立つ、鎖帷子(かたびら)を着込んだ女性の鋭い一瞥に、蛇睨みに遭った蛙の如く声が出せなくなった。

「先輩。俺、自分でも何て阿漕(あこぎ)な奴なんだろう、って思います。昔から、俺はこういう時が来るのを待っていた。今が、その(きた)るべき時なんです。生まれ変わってから、ずっとこの為だけに生きてきたんですよ。先輩とこんなに仲良くなるなんて、全くの予定外ですし、俺のプランには微塵も関わりのない事でした。だけど……」

 禎宣のまくし立てるような言葉に、春姫は容喙出来なくなった。

「だけど、俺はそんな春姫先輩だけど、もう要らないって切り捨てる事はしたくない。どうか俺の──共犯者になってくれませんか?」

 如何にも彼の好きそうな、小説めいた台詞だ、と思った。今までと変わらない日常の中で掛けられていたらどんなに嬉しかっただろう、と思うような甘い単語が端々に散りばめられていたが、そこには意図的に仄めかされた脅迫のニュアンスがあった。

 春姫は、脅迫に屈した訳ではなかった。ただ、彼の事を知りたい、という思いが恐怖に(まさ)った。決して自惚(うぬぼ)れではないが、自分の人を見る目は確かだ、と思っている。刻印獣に自宅アパートを焼け出された時──もし、彼が春姫を「切り捨て」ても構わないと思っているのが本当だとしたら、そうであるにも拘わらず──助けに来てくれた彼を、悪心を持った人物だとはどうしても思えなかった。

「教えて」春姫は、左手首に嵌められたままの手錠に触れながら言った。「禎宣君の事」

「では、要点から単刀直入に。実は俺、デインではないんです」

 禎宣は至極あっさりと、最初に春姫に打ち明けた”秘密”を覆した。

「絶対に覚えられる名前ですから、間違えないで下さいね。俺は──志総禎宣です。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。この体はデインのものですけど、本当だったら俺、四十路よそじに差し掛かったおっさん……どころか、何世紀も生き続けているじじいなんですよね、何度も若返っているだけで」

「禎宣君……? あなた、一体何を言っているの?」意味を理解出来ない春姫に、彼は

「全部、現実世界の奴らが悪いんですよ」

 そう言って、春姫が今まで信じてきた全てを覆すような事を語り出した──。


「貴様も、つくづく無意味な行動をしたものだな」

 春姫の一糸纏わぬ剝き出しの肩に触れながら、クシュナは禎宣を嘲弄するように言った。

「予言を基に堕天戦争を引き起こしたサナと、自らに辛酸を舐めさせた父親。後者は措くとしても、サナはいずれ我々ヨドの手で滅ぼすつもりだった。愚鈍なるハクバスを殺す程度の事であれば私にも可能だったのに、わざわざこちらに貸しを作ろうとして……愛した女を、(しち)に取られるとはな」

「最初からこれが”契約”でない事くらい、分かっていますよ」

 禎宣は肩を竦めた。

「だけどね、俺が欲しかったのはヨドとの”繋がり”なんです。リスクを冒さずに招霊器を使用出来るという条件、大嫌いなサナ氏の神輿(みこし)に担ぎ上げられない為に刻印獣にオーバーキルされるなんて理不尽からの解放。俺はね、クシュナさん。無数の擬森界で、招霊器を使う為に何度もヨド氏に接触しました。何度もあなたの世話になったし、あなたがクーデターを起こしてハザクを擁立する事も何回も見てきた。どうせなら、そっちの未来予測を交渉材料にすれば良かったな」

「必要ない」

 クシュナは、舌鋒鋭く一蹴する。春姫は、彼女の方から積極的に危害を加えてくるような事はないと分かってはいるものの、何故彼はこのような恐ろしい女性と飄々として会話が出来るのだろう、と不思議でならなかった。

「そのように、解答を見ながら問題を解くような真似はしない。我々が因果律に縛られているのだと殊更(ことさら)に強調されるようで不愉快極まりないし、賢王の素質を持ったハザク様が自ら考える事をやめてみろ、彼はきっと鈍物に堕する」

「だから、これが最善の手だったんですよ。それに俺、復讐は自分の手でやりたいので」

「ともかく、これで我々の間に(よすが)は出来たのだ。ハクバスの死の公表、それが《(まむし)》の仕業であるという情報の拡散──《蝮》どもがハザク様の指揮の(もと)で処刑されぬうちにこれらを行えば、民は動揺を大きくこそすれ、新たな支配体制への適応は望めない。分かっているな、身柄の引き渡しは直ちに」

「しつこいですね。何遍も言わなくても分かっていますよ」

 禎宣は、もう一度春姫を瞥見する。春姫が最終同意の意を込めて肯くと、鉄界の──否、擬鉄界の夏服を着たクシュナの体が、無数のホログラムめいた光に分解してこちらの周辺を回り始めた。

 裸の肌に触れていた毛布の感触と、べたつくような地下室の熱気が、突如として掻き消すように感じられなくなる。気が付けば春姫は”視点”となり、クシュナの姿に変化した自分の体を見下ろしていた。

「それにしても……ヨド氏が世界を滅ぼすという未来は、本当なのか? それが分かっていて何故、貴様は私たちに協力する?」

 口が、勝手にものを言うのが分かる。予測していたとはいえ、自分の中から自分が消えてしまったような感覚に、春姫は俄かには表白し難い気持ち悪さを覚える。そして、その感覚を裏づけるように、禎宣の目にもう自分は映っていなかった。

「その未来を見てしまった時点で、俺は失敗したんですよ」

 彼は、自虐的に唇の端を曲げた。

「それが……滅びの未来が分かっているから、俺は俺の復讐をするんです」

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