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闇の涯  作者: 藍原センシ
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『闇の涯』 第28回

  19. 階星紀 ── 西暦二〇五五年 八月十五日


『はああ……凄い出費。しかも、私の洗髪料……えっと』

「シャンプー」僕が小声で言うと、ムウは『そうだった』と照れ笑いした。

『私のシャンプーと石鹸でしょ? 私の生活費は経費で落ちるみたいだけど、また寛美さんから何か言われそう』

「メンズシャンプーじゃ、やっぱり駄目?」

『駄目駄目。だって、(しば)らくは星紀も私の姿を使うのよ? 女の子として恥ずかしくないようにしなくちゃ』

 僕は、はあ、と溜め息を()く。


 特対課、自衛隊と協力した刻印獣第三号との激戦の後、懸念されていた通り僕の身体状態は悪化した。その上で、先月末に刻印獣第四号──今度は蟇蛙(トード)の怪物で、溶解毒を散布した──との戦いでまた回復途中の体を酷使し、遂に背骨にひびを入れ、治りかけを含めて三本もの肋骨を折ってしまった。

 この戦いでは、刻印獣/特災生物対策の専門家(スペシャリスト)としての特対課が機能し、第三号の時のように事前打ち合わせはなかったものの、僕/ムウとの共闘によって事態は四時間弱で収束した。特対課には称賛が巻き起こり、彼らはまた”攻撃者”の行方を調べ始めたが、僕たちはもう彼らに秘密を打ち明けるつもりはなかった。

 今まで何度か、ムウは僕を「逢い引き」と言って誘い──「デート」の意味だろうが、やはり彼女の語彙はややレトロだ──、一緒に洋服を買いに行ったり、擬鉄界のガイドの為に僕が東京を案内したりといった事もあったが、特対課の目を気にするようになってからは二人での外出は控えるように、とヒミツから要請されてしまった。ムウはまた僕の女性関係について両親が考えを巡らせているのでは、などと勘繰ってもいたが、上白石さんからも合理的に説明されては仕方がなかった。

 ただ、刻印獣第四号との戦闘で僕の怪我が日常生活にまで支障を(きた)す程に悪化してからというもの、「ムウを隠す」という方針に変化が生じた。

「私が、星紀に対して常時神依状態を維持します。そうすれば、負傷のない私の肉体情報を使い、負傷箇所に負荷を掛ける事なく生活行動が行えるようになるでしょう。普通に生活を送りながら、完全な安静状態を作り出す事が出来る」

 痛みのあまり医務室のベッドから起き上がれなくなった僕を関係者たちが囲み、治療について議論する中、ムウが挙手してそう提案した。僕は彼女の気遣いをありがたく思ったが、僕に主導権のある神依の状態が四六時中続く事になるのだ、と冷静に考えた時、不可抗力的に様々な想定が脳裏を()ぎり、居心地が悪くなるのを如何(いかん)ともし難かった。

 僕の気持ちを代弁したのは、父の秀夫だった。

「いや、ムウちゃん。気持ちはありがたいのだがね……星紀は、男だぞ」

「あ、それは」ムウは一瞬赤面したが、すぐに咳払いをした。「勿論、(しとね)に就く時や(かわや)を使う時、湯浴みをする時は解きますよ」

「そこだけ配慮すればいい訳じゃないでしょう」言ったのは母だ。「身体のプライバシーについて、あなたが気にするかどうかじゃないの。星紀が女の子の姿で出歩いて、恥ずかしくないかどうかまで考えなきゃ」

 僕は躊躇っていたものの、良かれと思って提案してくれたムウが悄然としている様子を見て考え直さざるを得なくなった。彼女自身も、自分が特対課の調査対象となっている事は理解しているし、森界や空魔族の秘密が語られれば擬鉄界中に収拾困難な混乱が起こる事も承知している。だが彼女は、その上で僕を現状の苦しみから解放したいと思い、提案をしてくれた。それに神依で主導権が僕に握られっぱなしになる事は、彼女の身体の自由が大幅に制限されるという事でもあるのだ──。

「僕は気にしないよ、ムウだって、このままじゃ軟禁になりかねないし」

「星紀君、女の子になりたいの?」

 上白石さんは余計な事を言ってきたが、誰かが突っ込む前に「そうなると」と続けた。

「外出する時は、その姿がムウちゃんだって事を悟られないようにしなきゃね」

「だけど……それでも、星紀の姿がずっとムウさんになるなんて……」

 母は歯切れが悪く、僕はやや考えてから最も効果的と思われる言葉で駄目押しした。

「病院で説明が出来ない以上、保存療法で治すしかないでしょう。あと何ヶ月もこんな痛みが続いたら、僕は耐えられないな」


『だけど、こうしている間にまた戦いが始まったら困るよね』

 帰り道、コンビニの駐車場でアイスクリームを舐めながらムウが言った。現在主導権は半分ずつ担っているので、アイスの味はやや薄いながらも二人で感じる事が出来る。

 ガラス窓に映った現在の僕/ムウは、白いワンピースにサンダルという装いで、髪は戦闘時の巫女風の結い方でないハーフアップにしていた。多少不自然だが、耳は禎宣のしていた偽装ヘッドホンで隠している。一見しただけでは、この少女が刻印獣と戦っていた”攻撃者”とは分からないだろう。

『私の状態で上書きしているとはいえ、攻撃を受けて傷つく体は星紀のものなんだから』

「だけど、刻印獣は全部削除(デリート)されたっぽいんだろう?」

 言いながら、僕は未だに自分が戦いの”終わり”を信じきれていない事を、改めて認識していた。

 先日、封鎖された例の清掃工場で焼却を繰り返されていた刻印獣第三号が消えた。獲龍宮で作戦に当たっていたシンハさんたちが成功したのだろう、と思われたが、その後彼から連絡は入らない。刻印獣のプログラムにバグが発生した偶然の結果ではない事を確かめるべく、志総教授がマトリックスにアクセス、擬界システムのネットワーク上に報告を求めるメッセージを残したが、それもシンハさんたちに読まれた形跡はなかった。彼らが獲龍宮のシステムを掌握出来たのなら、とうに伝言は見られているはずだ。

 推測は無数に巡らせられた。刻印獣が消えたのはバグの結果である。《臨空の盾》は作戦に成功したものの、最終的にヨド氏に囚われるか殺されるかして、報告が出来なくなってしまった。或いは両世界の時差を考えて、彼らがまだ、難を逃れてゆっくり報告出来るような状態に至っていないという可能性もある。

 刻印獣がもし、全てデリートされた訳ではなかったのだとしたら。デリートされていたとしても、まだヨド氏の技術者がシステムにアクセス出来、データの修復が容易に行える状態だったら──。

「……何にせよ、禎宣が見つからないんじゃ戦いは終わった事にならないのか」

 僕は、思考の最後の部分は声に出して言った。

 ムウの話では、擬界内の仮想体が死を迎えた後、肉体が死に至るには幾許(いくばく)かの期間がある。向こうではまだムウの最初の潜行から半日も経過していないのだし、禎宣がこちらで死んでいたとして、本体の状態からそれを知る事は出来ない。それ以前に、彼の本体はヨド氏によって奪われてしまった。

 志総教授の憔悴は、それが見られ始めて一ヶ月が経っても、改善されるどころか増々酷くなっていくようだった。ある時などは、疲労の為に大学での講義中に倒れてしまい、学生に助けられて病院へ運ばれた事もあった。ヒミツと大学での業務という二重生活を送っているのは僕の両親も同じだが、志総教授はその上何か個人的な仕事を行っているらしく、ムウもそれについては言及していた。ただ、彼女も僕がそれについて推測を巡らせようとすると

「仕事上の関係でも、あんまり個人的な事は詮索しない方がいいと思うよ」

 そう言うだけで、むしろ自分が”憶測”を口にした事を悔いるような素振りを見せた。

 体を大事にして欲しい──それは、教授や両親、ヒミツの皆が僕に対して思ってくれるのと同じくらいに、僕も彼らに対して思っていた。

『さて、と……そろそろ帰ろうか。暑くてもうバテそう』

 アイスを食べ終わると、ムウが今にも倒れ込みそうな声を出した。僕は体の主導権を完全に引き継ぐと、包装をゴミ箱に捨て、荷物を肩に掛け直す。

「そうだね。どっちにしても、今の僕たちには待つ事しか出来ない。せめて、夏バテしないように休める時はしっかり休んで……かな」

 外部からの刺激を受けるのが僕の体なのだとしたら、ムウが神依を解いた時は僕が日焼けしているのだろうか、などと考えながら、僕はコンビニの(ひさし)の下から出る。

 休学中の僕は気にも留めなかったが、世間では既に夏休みが始まっていた。大学生の一日は個人でそれぞれ異なるが、日中に街中で見られる若者の姿が先月までよりも多い気がする。歩いていると、この学生街に住んでいる鳳栖大の学生と思われる青年たちが、ムウの姿の僕に手を振ってくる事もあり、僕がやや得意げな気持ちで──何に対してかは自分でもよく分からない──軽く手を振り返すと、

『星紀、調子に乗らないの』

 ムウが、じっとりとした声で窘めてきた。

 青年たちと擦れ違って(しば)らく経った時、不意に背後から

「随分と余裕があるようだな、《(まむし)》のリーダーの妹? 刀も帯びずに出歩くとは」

 刃物にも似た、鋭く冷たい声が飛んで来た。

 その瞬間、ムウが何の前触れもなく主導権を切り替えた。素肌に当たっていた日差しのちりちりとした低刺激が消失し、コンクリートの輻射熱も感じなくなる。視覚と聴覚だけになった僕は、体が振り向くのに従ってムウと同じものを見た。

 そこに、僕やムウよりも何歳か上と思われる女性が立っていた。腹部を開けたチューブトップに黒いノースリーブのベスト、ショートパンツに黒ストッキング。擬鉄界の服を着用してはいるが、明らかに鉄器族とは異なるのは、腰に幅の広い肉切り包丁にも似た刀を差している事だった。咄嗟に確認すると、耳も長く尖っている。

 空魔、と僕が心の中で呟いた時、ムウが身構えた。

「《銀狐》……クシュナ。何で、あんたが擬鉄界に……?」

『えっ?』

 誰だ、と僕が聞こうとすると、それよりも早くムウが説明してくれた。

「ヨドの親衛隊長にして、《寄生木》の首領。お兄ちゃんを殺した奴──」

「望むならば、すぐここで貴様も葬送(おく)ってやる事が出来るのだぞ? 兄と同じ場所にな」

 クシュナと呼ばれた空魔の女性は、酷薄な笑みを浮かべて刀の柄に手を掛ける。

 僕もムウも、近所への外出だからと油断していた訳ではなかった。如何に装いを変えたとしても、武器を持って出歩けば誰かに見咎められ、政府に隠れて独自に動く、という方針に破綻を(きた)す危険性があったからだ。もしも刻印獣が出現したら、ヒミツと連絡をつける必要もあるし、その際に向こうから届けて貰うつもりでいた。

「あんたの目的は、禎宣──デイン様?」

 ムウは、声が震えないように細心の注意を払っているようだった。

生憎(あいにく)様だけど、彼の居場所は私たちにも分からない。もし、刻印獣が使えなくなったからあんたが直接出てきたんだとすれば……」

「意味はない、か? 私が、刻印獣のように(またた)く間に街を破壊出来ないから?」クシュナはせせら笑う。「安心しろ、私にそのようなつもりはない。もっとも、今までヤシロの男児(おのこ)を葬るべく刻印獣を起動していたのは確かだがな。最早その必要もなくなった」

(まさか……!)

 もし体の主導権があったままだったら、僕は脳から血液を落下させていただろう。

 ムウも、明らかに青褪めているだろうと思われる顔で叫んだ。

「禎宣の本体を殺したの!? シンハさんたちが、獲龍宮に攻め込んだ報復に?」

「違う。私が貴様の仲間たちの行動への反応を、そのような腹いせで済ませると思っているのか? 宮へ襲撃を掛けた《(まむし)》は、皆拘束した。直ちに処刑してもいいが、その前にもう少し貴様らに対して利用させて貰おうと思ってな」

「利用?」

「あの男の──ヤシロの男児デインの化けの皮を纏った、鉄器族の男を殺せ。私は警戒されているだろうから、奴には手を出せん。誠に業腹ではあるが、正面から奴と戦っても私に勝てる保証はないからな」

「鉄器族の男って……禎宣の事?」ムウは、まさかというように呟く。

「確か、そのような名前だったな」

「ふざけているの、《銀狐》? 禎宣はデイン様本人でしょうに」

 唐突に浴びせられた情報量に、頭が追い着かないのは僕も同じだった。ムウがかろうじて返すと、クシュナの表情が苦笑に変化した。

「事態は、貴様らが思っていた以上に単純ではなかったという事だ。だが、それは後から貴様ら自身が確かめればいい。今私は、頼んでいるのではない、脅迫しているのだ。禎宣かデインかはどうでもいい、あの男を油断させ、殺せ。さもなくば、《蝮》のリーダーの妹、貴様の仲間たちが処刑される事になるぞ」

「突然現れて、そんな事──」

 ムウは言いかけたが、すぐに口を噤んだ。下手に突っ撥ねるような返事をすれば、クシュナが脅迫を実行に移すという事が分かっているのだろう。

 僕は、ムウに何と言葉を掛ければ良いのか分からなかった。クシュナは身を翻すと、最早話す事はない、と言わんばかりに歩き始める。

「冷静に判断しろ。こちらの世界に居る限り、考える時間など幾らでもあるだろう」

 捨て台詞の後を、ムウは追い駆けようとはしなかった。

 僕は頭を回し、突如もたらされた情報を頭の中で整理し始める。

 シンハさんたちが、ヨド氏の俘虜とされた? 禎宣が、デインの振りをした誰か? 《寄生木》の長が、正面から戦えば勝てない相手?

 ──分からない。今の僕には、分からない事の方が多い。

 主導権をムウが握り、皮膚感覚のないはずの体からすっと熱が退()いたような気がした。

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