『闇の涯』 第23回
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七月七日、七夕の日。梅雨らしくしとしとと雨が篠突く中、神依されてムウの姿になった僕は上用賀、馬事公苑で待機しながら、禎宣の以前言っていた事を思い出していた。
「七夕の日に例年雨が降るのは、別に彼氏彼女と七夕祭りに行けない非リア勢が御幣を振りながら雨乞いをしているからじゃない。年に一度会う事を許された織姫と彦星が天の川を渡って再会出来て、嬉しくて流した涙が地上に降り注いでいるから、なんだってさ。だから洒涙雨っていう」
彼は思い出したように、「梅雨前線とか無粋な事を言うんじゃないぞ理系男子」と釘を刺してきた。「もしくは、二人は結局年に一度の逢瀬を果たせなかった。それで流した涙が雨になっているっていう考え方もある」
何故この事が蘇ったのだろう、と考えていると、敷地内に降下したヘリコプター群の方から葛葉氏、留守氏が進み出てきた。彼らはどちらも迷彩服を身に着けており、今回は部隊で戦うのだな、と僕は思った。
「雨で視界が悪いですが、大丈夫そうですか? 通信機器が使えなくなる以上、目視だけは可能な状態になっていないと」
僕がムウの口を借りて問うと、葛葉氏は肯いた。
「我々の役目は、接近して急所に攻撃を入れる事ではありません。目標である清掃工場まで対象を誘導する事です。空対空ミサイルの射程では、特災生物の通信プロトコル書き換えの有効範囲外からでも十分に攻撃出来ますから。不安なのはむしろ、我々と通信出来ない上に対象に最も接近せねばならないあなた方……失礼しました、あなたですよ」
彼は、今回の作戦中は他の隊員たちに気取られないよう、僕/ムウをあくまでムウ一人として扱うという約束を忘れていないようだった。
「開け放った焼却炉まで対象を誘導し、最大火力で焼き払う。対象のサイズは、焼却炉の深さより数メートル小さいので、誘導さえ上手く行けば罠に嵌める事は可能です。この作戦に於いて最も危険なのは、火力調整の為に工場に残らねばならない工場関係者、そして焼却炉と特災生物、双方のぎりぎりまで行く必要のあるあなたです」
「その点はご心配なく。僕──いえ、私の身体能力であれば、誘導後直ちに離脱する事が出来ます」
刻印獣が火に弱いという情報から特対課が編み出した作戦は、現在刻印獣が活動を停止している砧公園の隣にある清掃工場、焼却炉に対象を導き入れて焼殺するという内容だった。継続的に火炎によるダメージを与え続ければ、刻印獣の再生能力を阻害する事が出来る。当然いつまでも炉に最大火力の火を入れて燃やし続ける訳には行かないが、同時に従来の作戦通り、現在現実世界ではシンハさんたちが獲龍宮を攻め、刻印獣を作り出している技術者を押さえようとしている。彼らの行動が成功すれば、刻印獣はサーバーから消去される。
「あの清掃工場が使用出来なくなりますと、世田谷のゴミ処理を八幡山の一工場と周辺の区の支援に依存するしかありません」
葛葉氏は、重要連絡なのか雑談なのか、判断に困る声色で言った。
「関係者には十分に補償を行うとは説明しましたが、よく三日のうちに彼らが作戦に工場を用いる事を承認して下さったと思います」
「……また、含みを持たせて交渉した訳ではないでしょうね?」
「まさか。ムウさんは正体不明の危険人物でしたが、彼らは間違いなく国民です。そのような手段を使っては、政治問題になりますよ」
その時、僕たちの頭側に装着したインカムから、作戦参加者全員に特対課の課長から通信が入った。
『一二:〇〇、予定通り対象地域の住民の避難が完了。これより作戦に入る』
「いよいよです。ムウさん、予定通りあなたは一足先に行動を。あなたには強制的な指示を出さぬよう、我々から課長には伝えています」
「ありがとうございます。それでは、皆さんもお気を付けて」
僕は簡潔に言うと、小声で──この二人には聞かれても問題はないのだが──言った。
「行くよ、ムウ」
『了解、星紀!』ムウが、打てば響くような声で応じた。
僕は駆け出し、木立を走り抜けると、塀を跳び越えて用賀七条通りに出る。その道路を西に向かってひたすら駆けて行くと、行く手にあの単眼巨人の刻印獣の姿が見えた。先日までは公園だった砂丘の頂に屹立するその姿は、不気味なモニュメントのようにも感じられる。
近づくに連れ、そこまで巨像恐怖症の傾向はない──実際、既に三回刻印獣と戦っているのだから──僕でもぞわりと背筋が竦み上がるのが分かった。二十メートルの巨人が彫刻の如く静止している様は、動いている時とはまた異なる恐ろしさがある。心の何処かでは、倒れてきたらどうしよう、という不安も少なからずあるのかもしれない。
まずは、あの目を覚まさねばならないのだ。覚醒した瞬間いきなり魔眼を受けては堪らない為、狙うとすれば背後からという事になるが──。
『清掃工場はすぐ隣。焼却炉に誘導するには、刻印獣を一旦跳躍させる必要がある。このままじゃ勢いが足りないから、美術館通りから卸売市場との間をぐるっと回って、北から工場に飛び込ませるわよ』
「OK、ムウ! 追い立ては自衛隊がやってくれる、僕たちは波状攻撃で行こう」
路傍から、環八通りまではみ出している砂丘を駆け上がる。吹き飛ばされてきた砂が堆積しただけなので、革靴で踏みつける度にずるずると滑り落ちそうになるが、僕は刀を杖代わりにして堪えた。
砂の中に半ば埋没した刻印獣の右足に近づくと、その脹脛の裏側に刀を向ける。
「まさかとは思うけど、睡眠中に攻撃するとダメージ三倍、とかは……」
『ないでしょ』「だよね」
僕は苦笑すると、刀を振り被る。火の性、単発水平攻撃。
「緋炎斬!」
炎を纏った猩猩緋の軌道が、巨人の下腿三頭筋を大きく抉る。外径がメタセコイアの二倍程ある足を半切断の如き状態にされ、刻印獣は体重を支えきれなくなったらしくがくりとそちらの膝を折った。手応えは相変わらず岩のようだったが、やはり火のダメージは入りやすいらしい、何十トンという質量を掛けられたその足が捥がれるように折れ、血液が搾られたように噴き出す。
砂丘は赤黒い粘度のような状態となり、僕/ムウは足を取られないようにそこから飛び降りた。刻印獣の巨躯はゆっくりと美術館通りへと傾倒を開始したが、その途中でじわじわと欠損した右足が再生を始めた。……ここまでは予定通りだ。
刻印獣の不気味な点は、特撮の怪獣であればこのような場面で上げるであろう怒りの咆哮を一切上げず、無言で動くところだった。石炭の如き眼光が爛々と輝く頭部が、空気を引き裂きながら攻撃者──僕/ムウの方を向く。
そして、魔眼の予備動作が開始された。
「ムウ、強化を! それから二時の方向に回って! 踏まれないように!」
「分かった!」ムウが、すぐに主導権の切り替えを行う。視点だけとなった僕は、彼女の走行に合わせて刻印獣の(僕たちから見て)右側へと視界をスライドさせる。最初に魔眼を披露した時のように四つ這いになった敵の体側まで回り込んだ時、既に僕/ムウから大きく狙いを外した魔眼が炸裂し、砂丘を舞い上げた。
足場が消えた瞬間、ムウは空中を滑るような動作で移動し、美術館通りに出るや否や道なりに走る。一つ目の角を右折し、工場を右手に見ながら進むコースに入った時、プロペラ音と共に自衛隊機の姿が見え始めた。
僕はもう一度ムウから主導権を譲り受け、隊員たちに回線を繋いで叫んだ。
「私たちと特災生物では、歩幅が違いすぎます! 追い立てる際、随時急所への攻撃を狙って進度の調整をお願いします。皆さんがターゲットにされ、対空砲火の的にされてしまう蓋然性も増大しますが……」
『了解しました』真っ先に応答してくれたのは、やはり葛葉氏だった。『ムウさん、あまり我々に気を回しすぎぬよう。狙われるのは、我々の仕事でもあるのですから』
僕はすぐにその言葉が、彼が作戦に参加している隊員全体に聞こえるように言ったものであるという事に気付いた。葛葉氏や留守氏から詳細情報を知らされていない隊員たちは、恐らくムウ──僕の存在は伏せられているので──が説明を一切する事なく自分たちに指図だけはする、という状況に少なからず良からぬ気持ちを抱いているに違いない。それを暗に制してくれた葛葉氏に、僕は内心感謝した。
背後で、無数の炸裂音が轟く。刻印獣が悲鳴を上げない為、それが空対地ミサイルの着弾した音なのか、もしくは自衛隊機が破壊され、爆散した音なのか判断がつかない。しとしとという雨音が途切れる事なく響き続けているのも、状況を判断し得る細かな音情報を拾いにくくしている要因だった。
今回の作戦を発動するに当たって、ヒミツのメンバーたちは最初から戦闘配置には就かない事になっていた。というのも、ドローン空撮を行ってもそのデータがヒミツに届かない事、自衛隊との連携作戦に於いて僕/ムウの背後に民間組織の存在があるという事実が伏せられている為、僕たちが自衛隊の見ている前で彼らと繋いで指示を仰ぐ、といった方法を採れない事がその理由だ。
中央病院で面会した際、僕が「必要最低限の情報」を話す間当然のように母がそれを聞いていたので、葛葉氏たちは恐らく刻印獣との戦いが、僕とムウだけで行われているのではないという事についても薄々察しを付けているだろう。それでも彼らは、僕と交わした暗黙のルールによって、背景的な事情には踏み込まないように”配慮”を行ってくれている。あの面会の後で、ムウと一緒にお見舞いに来てくれた父や志総教授、上白石さんに葛葉氏たちとの約束について話すと、
「星紀君の人を見る目を、私たちは信じる事にしよう」
教授が率先して、そう皆に言った。僕が勝手に機密情報の重要度について線引きをし、外部の──政府の人間である葛葉氏らに一部を話した事を叱責されるような事はなかった。
「ただ、そうなると次の共同作戦で俺たちが出来る事、なくなってしまいますよね?」
そう言ったのは、上白石さんだった。
「俺たちの世界を……いや、それじゃ大袈裟かな。街と、禎宣君を守る為に星紀君たちを登用しておきながら、サポートすら出来ないなんて」
「出来る事ならありますよ、上白石さん」ムウは冗談めかす風ではなく、さも当たり前のように人差し指を立てた。「私と星紀の無事を、お祈りしていて下さい」
僕は思い出しながら、今最も不安と戦っているのは、こちらの状況を知る事の出来ない彼らなのではないか、とちらりと思った。何が起こっているのか分からないからこそ、際限なく滞留していく不安。それを、絶望という形に行き着かせてはならない。
その時、またもや爆発音が──今度は僕たちの真上で響いた。
動物的な直感で、項の産毛が弥立つのが分かる。
『星紀、危ないっ!』
ムウが叫んだ刹那、目の前の道路に破砕したヘリの残骸が落下してきた。燃料は既に空中で燃え尽きていたらしく、火の手が上がる事はない。が、間近であるだけにその衝撃は凄まじかった。殴られたような風圧を体の前面に感じ、僕/ムウは尻餅を突いた。
振り向いた時、最初にこちらが曲がった角を刻印獣が右折してくるのが見えた。敵は再び地面に腕を突くと、手首を曲げて掌底を道路に打ち込む。
途端に、コンクリートの中を大蛇が這っているような、蛇行した亀裂がこちらの足元まで走ってきた。跳躍やダッシュなどで避けられるような速度ではない。足元に震えを感じた次の瞬間には、僕/ムウの体は木の葉の如く吹き飛ばされ、落着したヘリの残骸に激しく背中を打ちつけていた。
毎回、健全なムウの肉体情報で上書きされているというのに、余裕を享受して貪り喰らうようにそれを痛めつけてしまう。激しい衝撃を受けた胃壁から出血したらしく、僕は酸味のある血を吐き出しながら顔を上げた。
こちらから見上げるような体勢となった刻印獣が、膝立ちの状態のまま両腕を振り回していた。それに打たれた自衛隊機は、先日の瀬田での戦いの時と同様粉砕され、爆炎を上げる。今日は雨が降っているので、その炎は熱した鉄が冷えて黒ずむように、すぐに黒煙の塊となって散った。
(立たなきゃ……このままじゃ、この前の二番煎じだ。皆死んでしまう)
僕は、軋む体に活を入れる。この作戦の要は、僕/ムウで刻印獣を上手く誘導する事なのだ。まだ、その作業は半分も終わっていない。今この体を使っている僕が、へばっていては仕方がない。
自衛隊を全滅させないように。吉報を待っている両親やヒミツの皆に、絶望を味わわせないように。自分がいちばん頑張るように──一体幾つのプレッシャーを背負い、自分は戦っているのだろう、という思いがふと頭を過ぎった。




