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闇の涯  作者: 藍原センシ
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『闇の涯』 第20回


          *   *   *


 人工の川である野川は、そこまでの深さはなかった。だからこそ、刻印獣を落下させればダメージを与えられるかもしれない、などと僕が考えた訳だが、それは僕たちにとっても同じ事だった。

 流れのある川では、水深三十センチでも流されるといわれる。しかし、ムウとドッキング状態に在る僕は、腰に提げた刀の重さも相俟って沈み込み、流される事はなかった。落下の瞬間にまた血液が散り、衝撃が全身に襲い掛かったが、運良く打ち所が悪くて気絶するなどといった事はなかった。

 僕は川を渡りきると、対岸の草叢(くさむら)に身を隠した。刻印獣は堤まで引き返し、身を乗り出すようにしてこちらを探そうとしたようだったが、僕たちが姿を隠した上に先程崩れた堤防がずるずると地滑りを起こした為、辟易したように身を翻した。恐らく従来の挙動に戻り、桜丘方面に移動するのだろう、と思ったが、僕にとって今最も重要な事は、目の前で徐々に弱っていくムウの処置だった。

(病院には、連れて行けない……)

 空魔である彼女に、病院がどう対応出来るのかが分からなかった。彼女(と僕)の戦闘の様子は、既に各メディアでも取り上げられている。世間では刻印獣と戦う彼女に対して賛否両論の声が上がっているとはいえ、最悪の場合、病院が彼女を刻印獣と同質の存在として見る可能性もないとは言い切れない。

 僕はスマートフォンを取り出し──防水仕様で助かった──、HMEを開いた。刻印獣から離れた事で、通信は回復している。母のアドレスを選択すると、僕はメッセージを吹き込んで送信した。

『刻印獣を取り逃がした。陸自が介入。ムウが負傷。玉川に応援求む』

 詳細を説明する精神的な余裕はなかったが、母ならこれで伝わってくれると信じた。都道は破壊されてしまったが、用賀経由であれば同じく車で片道二十分程度。だが、大学まで帰る頃に、彼女がどれ程弱っているのか想像もつかない。それに大学の医務室では、もし緊急手術が必要と判断された場合対応が出来ない──。

「ムウ、僕に神依して。そうすれば、出血が抑えられる」僕は言ったが、

「駄目だよ……」彼女は、掠れ声で言った。「そしたら、傷の情報まで星紀に共有されちゃう……今の星紀の霊気じゃ、命を持たせられない……」

「君が死ぬよりいい!」

「感情的にならないで、星紀……自己犠牲は、そんなに綺麗なものじゃないよ」

「違う! 僕だったらどうとでもなるんだ!」僕は、躊躇う事なく言った。「だって僕の体なんて、システムコンソールを使えば幾らでも弄れるじゃないか!」

「星紀っ!」

 彼女が、そこで声を大きくした。お腹に負荷を掛けたのか、ごぼっという音と共に口から血液の塊が零れ落ちる。僕がはっとした時、彼女は背中から僕の胸の方に回された手を微かに上げ、こちらの爛れた頰に当ててきた。

「星紀は……人間、だよ。人工知能かもしれないけど、ただのプログラムじゃない……だって……ただの電子情報がこんなに優しい事を言ってくれて……それで、現実の住人である私が嬉しくなるなんて……そんなの、おかしいもん……」

「ムウ──」

 僕は、頰に触れられた彼女の指先に、自分の涙が伝い落ちるのが分かった。

 彼女を助けたい。その思いが、いよいよ膨れ上がる。どうすればいい──どうすれば、僕やヒミツの手だけで彼女の命を救える?

 ヒミツから助けが来る前に、方針を決めておかねばならない。僕は、考えろ、と自らを叱咤激励した。彼女の為に、生まれて間もない頃の一週間計画のように人間としてのアイデンティティをかなぐり捨てるような行為は、彼女自身に止められた。ならば、違う案を出さねばならない。

 それだけが、僕を二度庇ってくれた彼女の為に、僕が出来る事だった。


          *   *   *


 プリウスを飛ばして駆けつけて来たヒミツのメンバーは、予想していた事ではあるが両親だった。野川を渡った箇所からやや南東に移動し、多摩川堤通りと都道二四六号線がぶつかる二子玉川駅前の交差点で待っていると、やって来た両親は歩道に乗り上げんばかりの勢いで停車した。

「星紀、どうしたのその傷!? またムウさんが、派手にやったんじゃ……」

「違うよ、母さん」僕は、母の言葉を遮った。「僕は、輸血を受けて大きい傷を何箇所か縫合すれば大丈夫。この後病院に連れて行って。それより、ムウの方が酷いんだ」

 言いながら、この間の戦闘の後、ムウと母の間に何かがあったのだろうか、とちらりと思った。以前からやや、僕に対する接し方が小中学時代から変化しておらず、僕が交通事故に遭った最近ではそれがより顕著になった、と感じていた僕だったが、この間ムウが臨空術を使った事で霊気を消耗し、僕が倒れてしまった時、母はややもすると彼女を責めるような事を言ったのかもしれない。

 しかし今の僕は、それについて複雑な思考を巡らせている余裕はなかった。それ以上を両親に言わせる時間も与えず、言葉を続ける。

「医務室の準備をする必要はないよ。大学に行ったら、すぐに返霊器に彼女を繋いで。禎宣の体が《寄生木》に奪われたみたいだから、今現実(あっち)で招霊器に接続されているのはムウの本体のはず。すぐに送り返せる」

「……ムウちゃんを送り返して、どうするんだ?」

 父が、解せない、というように尋ねてくる。僕は、先程考えたプランを口にした。

「こっちでのムウの命は、仮想体(アバター)の状態に依存する。そして仮想体の状態は、招霊器を使って擬界に潜行(ログイン)した時の本体に依存する。……さっき、ムウが気を失う前に、現実で覚醒したらすぐにまたこっちに潜行するようにって伝言を預けておいた」

「リロードか。確かにそれなら、健全な肉体情報で彼女が戻って来られる」

「それなら、彼女は処置なしで回復出来る訳ね?」母が、父の両肩を押した。「まず、最寄りの病院に星紀を連れて行きましょう。私もそこで降りるから、あなたはムウさんを大学へ運んでちょうだい」

「よし、分かった」

 父が肯き、再び運転席側のドアを開ける。僕は「父さん、母さん!」と声を荒げた。

「いや……階先生。これはムウの化身である僕の、現場からの判断です。彼女を運ぶ事を優先して下さい」


  14. ムウ ── 森暦某日 / 西暦二〇五五年 七月四日


 目を開くと、そこに円蓋状の高い天井が見えた。前方に焚き火が見え、その周囲を数人の空魔が取り囲んでいる。そこに居た一人──ジャンプが、こちらが動いた事に気付いたらしく立ち上がり、駆け寄って来た。

「お嬢ちゃん! どうしたよ、デイン様は見つかったのか?」

「ジャンプさん……」ムウは招霊器の座部から立とうとし、すぐに胸に鈍痛を感じてよろめいてしまった。

「おい、大丈夫か!?」彼が、素早く支えてくれる。小柄なジャンプはムウとそこまでの身長差はなく、こちらが寄り掛かるとふらふらと数歩下がってしまった。

 ムウは「ごめんなさい」と謝りつつ、深呼吸をする。魂が本体に戻され、仮想体の負っていた傷はこちらの体には存在しなかったが、肌感覚として染みついた痛みはそうすぐに消えるものではない。ノーシーボ効果、という言葉が頭に浮かび、ムウは何度か呼吸を繰り返して苦痛の残滓を払った。

「お嬢様?」焚き火を囲んでいた空魔の一人が、こちらに身を乗り出した。

 その声が可愛らしい少女のものだったので、ムウはつい驚いてしまう。よく見ると、そこに集まっているのはサナの村で見知った顔ばかりだった。考えてみれば、先日シンハが擬鉄界に潜行してきて「禎宣/デインの本体が奪われた」と報告してきた時、ムウは彼らに、その奪還の為に獲龍宮へ攻撃を仕掛けるように言った。《臨空の盾》の仲間たちの大部分は今そちらに当たっており、この拠点(アジト)に居るはずがない。

 けれど、だからといって何故女子供を含む村の非戦闘員が居るのだろう?

「こらこら、ジャコ。お嬢様はさっきまで、ただ寝てた訳じゃねえんだ。遊び相手なら兄ちゃんがすぐなってやるから、な? ちょっと待ってな。ジャグル、ジャイロ、お前たちもな」

 ジャンプは彼の弟妹たちを元の位置に戻すと、ムウに向き直って続けた。

「シンハの旦那たちが出発してちょっと経った頃だったんだけどよ、こいつらが山に入って来たんだよ。俺はお嬢ちゃんの魂落ちした体を番してなきゃいけねえし、留守番頼まれたんだがな、そしたらこいつらが来て、村にヨドの連中が来やがった、って言う訳よ」

「ヨド氏が村に?」ムウは息を呑んだ。

「私たちを人質にして、《臨空の盾》の皆さんに投降を促すつもりのようでした」ジャンプの後に続いて言ったのは、彼の母親であるフナトだった。「ヨド軍のうち、《寄生木》に属する者たちです。覇空主ハクバスは、隠密の存在である彼らを使う事に、躊躇いを持たなくなってきています」

「皆、てんでんばらばらに村から逃げたんだと。もう捕まっちまった奴が居るのかどうかすら分からねえ。こうして俺の家族や近所の連中は、俺たちの隠れ家について情報を持っているからここに来られた訳だがな。関所の周りじゃ、今や逃げた村の連中を探してヨド軍が山狩りみてえな事をしている。シンハの旦那に許可を取るなんて暇はねえけど、俺は引き受けたぜ。旦那だって、きっとそうする。それで、ここが奴らに割れちまう危険性があるとしても」

「私が、お兄ちゃんに……隊長に代わって許可するわ」

 ムウは、即座に言い切った。当然だ。自分たちは全空魔氏族の為に戦っているのだし、その中には身近な者たちも含まれている。目先の危険を回避する為に彼らの危機を見過ごしたのでは、自分たちの理念に反する。

 ムウは言ってから、すぐに本来の目的を思い出して手を打った。

「そうだ、ジャンプさん。私、すぐに戻らなくちゃ。もう二分は経った? あっちだと、半日と五時間……」

「ん? どうしたんだよ、いきなり?」ジャンプが怪訝な顔をした。

「私、擬鉄界で大怪我しちゃって……仮想体を回復させる為に、一旦こっちに戻って来ただけなの。星紀も酷い傷だったけど、私の方がヤバかったから」

「一体どんな状態だったんだよ……」

 ジャンプが呟くが、ムウはそれには答えなかった。過剰な心配をさせたくない。

「だけど、星紀の方が治るまで時間が掛かるみたいなの。それに、刻印獣もまだ倒しきれた訳じゃない。あの速度なら、半日もあれば桜丘を壊滅させてしまうかもしれない」

 ムウは有無を言わせず、もう一度招霊器に座ると、「ジャンプさん」と彼を呼んだ。

「こっちの事を、宜しくお願いします」

「お、おう。任せとけ」

 僅か二分弱の間に起こった事に頭の整理が追い着かないらしい彼に、ムウは心の中で密かに詫びた。彼にとっては、五百二十倍の速度で進んでいく擬鉄界の移ろいに追い着く方が無理な話だろう。またムウも、自分たちの行動に合わせて刻々と変化していく現実世界の状況──兄の死から《寄生木》の本格的な行動開始、禎宣/デインの本体強奪、シンハたちによる獲龍宮への攻撃──が、数時間のうちに変化したものだという事が信じられずにいる。

 時間に追われるように、とは、今のような状況を形容する言葉なのだ、と思った。


          *   *   *


 潜行し直すと、ムウは照明の点いていない雑然とした部屋で、やや仰向いた視線を維持したまま天井を見つめて(しば)しぼーっとしてしまった。返霊器の肘掛けから右手を持ち上げ、着物に包まれた胸の上に置く。浮上前、仮想体に刻まれていた深い傷は跡形もなく消えていた。

 ほっとしてから、どっと疲労が押し寄せた。数分のうちに潜行と浮上を反復した為、精神で処理される情報量の差が負荷になったのだろう。何しろ、先程までは一秒間に処理していた外界の情報を、こちらでは約〇・〇〇二秒で処理しているのだ。

 ──それでも、星紀の抱えている苦痛に比べれば取るに足らないものだ。

 ムウは立ち上がると、これまでの二回と同様内線で経之に連絡した。彼は数分で来、部屋の鍵を開けてくれる。

「ムウ殿……申し訳ありませんでした。先の戦闘では、何もお役に立てず」

「いえ、志総殿。ヒミツの皆さんに非はありません」

 ムウは言ってから、経之の顔に憔悴が色濃く浮かんでいるのを見て取った。目の下に隈が出来ているが、その色の濃さは満足に睡眠を取れていない時間が一日程度ではない事を物語っていた。刻印獣第三号が現れた昨日から始まった事ではないな、と思い、不安が込み上げる。

「志総殿、眠られていないのですか? デイン様が、未だに見つからないから……」

「ああ、いえ、お気遣いありがとうございます。けれど、問題はありませんよ。こういう状態でも、大学では授業をせねばなりません。ヒミツがオペレーティングを行って刻印獣と戦っているなど、誰にも言えませんから。二重生活で、多少疲労が蓄積したのかもしれません」

 私も歳ですな、と冗談めかして付け加えた彼だったが、ムウは笑い事ではない、という非難の意味を込めて彼を見つめ続けた。こちらの真剣な眼差しに、彼はすぐに苦笑いを消し、ふっと息を吐き出した。

 経之はそのまま、やや何かを口に出すべきか出さざるべきかと逡巡するような素振りを見せたが、やがて「ムウ殿」と言い、微かに目を伏せた。

「現実に於ける擬界システムの投影装置(ビジュアライザー)、データマトリックスに、どれだけの余力が残されているかはご存知でしょうか?」

「えっ?」ムウは、彼が何と言ったのかよく聞き取れなかった。

「禎宣は──本当の私の子である彼は、データマトリックスの向こうで私たちの助けを待っている……そのような期待を、何処かで抱いていました。だから私は、彼が何処で遭難したのかを、一からログを辿って洗い直していたのです。しかし、何十層もの記録を調べても、彼は現れない」

 経之は、唖然とするムウに向かって言った。

「禎宣は……文字通り消えてしまったのでしょうか?」

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