『闇の涯』 第19回
「えっ……?」
呆けた声を漏らしたのは、僕だったのかムウだったのか、判断がつかなかった。
出現したポリゴン片は、眼窩と掌から溢れ出す血液を凍結させるように封じ込めて盛り上がり、その部位だけで拡散した。顔を覆っていた左手が改めて見えるようになり、その甲に空けられた穴は──塞がっている。
(まさか……!)
僕は、スカートの裾から覗く太腿が、撫ぜられたように粟立つのを感じた。
刻印獣は、「いないいないばあ」をするようにゆっくりと両手を顔から引き離す。その眼窩には、僕たちがたった今破壊したばかりの眼球がしっかりと嵌まっていた。眼光は炯々と、先程よりも輝きを増したようにすら感じられる。擬界の住人のような汎用AIではないはずの刻印獣だが、僕はそこに瞋恚の焔を──明確な感情の色を見て取ったような気がした。
「自己修復プログラム……?」口から、無意識に言葉が零れた。「ただダメージを与えるだけじゃ、致命傷でもアンインストール出来ないって事?」
刻印獣は、無言のまま片膝を立てた。右手を伸ばし、傍にあった斜面型マンションの最上階から数階を押し潰すように突きながら立ち上がる。コンクリートが断層のように隆起し、巻き起こった風が僕/ムウの周囲で燃える炎を掻き消した。
真下から見上げる形となったその大きさは、お腹がすっと冷たくなる程だった。もしもこの巨体が、一歩こちらに踏み出して来たら……その足の裏が、狙いをつける事もなく僕たちの頭上から迫ってきたら……考えるだけで絶望的なのは、斬撃が通用しないかもしれないという推測の立った戦闘開始時と同じだが、やっと見つけ出した弱点を突いて尚倒せないという事がそれに更なる絶望を追加した。
反撃とばかりに、刻印獣はお辞儀をするかのように腰を折り、大通りに頭を乗り出しつつ瞼を閉じた。それが開かれた時、魔眼は一瞬にして僕たちの命を拭い去る。先程睨み殺された人々の亡骸は、いつの間にか焼かれ、破砕したコンクリートや土に混ざって見えなくなってしまっている。
あのような、問答無用で不条理な死が、僕たちにも襲い掛かるのだろうか。
そう思い、恐怖から立ち直れないまま蛇睨みに遭ったように硬直し続けていると、ムウが頭の中で叫んだ。
『動いて、星紀! この攻撃の予備動作は長いし、その間こっちの動きを見る事も出来ないはずよ! 十分に回避する時間はある!』
「……っ!」
僕は短く息を吐き出すと、まだ道路には被害のない南東へと走り出した。
全速力で魔眼の射程から離れる事だけを考えている為、敵から目を離さないよう慎重に、などといった余裕はない。刻印獣の視界から出られたのか、或いはまだなのか。いつ、敵は魔眼を開くのか、そうなった場合、僕の命も、ムウの命も一瞬で消されてしまうのだろうか。それは──痛かったり、苦しかったりするものなのだろうか?
突然意識が消失する恐怖に怯えつつ、僕が地面を蹴って更に加速しようとした時、背後で爆発音が起こった。
魔眼が炸裂したのか、誰にも当たる事なく、無生物を爆散せしめた音なのか。
刹那の間、僕はそう考えたが、すぐに違うと分かる。今の爆発音は道路で上がったのではない。もっと上方──それこそ、刻印獣の肩より上の部位で発生した。
僕は足を止め、恐る恐る振り向いて顔を上げた。
途端に、ただでさえ不安定な空気を震わせるようなローター音が聴覚に拾われた。
「チヌーク(CH - 47)? って事は……」僕は、掠れ声で呟く。
機体の前後にプロペラの付いた巨大なヘリが、低空飛行をしていた。乗降口が開き、そこから迷彩服を着た人影がドアガンを構えている。更に、そのヘリ──チヌークに続くように、無数の戦闘機やヘリが飛来していた。
『自衛隊……!』
ムウの目を見開く様が見えるようだった。
先の刻印獣第一号、第二号出現の折、観測した時点で対策を講じる間もなく甚大な被害が出た事から、国は刻印獣──メディアでは「特別災害級生物」と呼称されていた──と指定した生物が出現した場合、自衛隊がより機動的な対応が可能になるよう法整備を進めていた。民間人の避難誘導を行う前に現地に機動兵器が現れ、攻撃を始めるのも、刻印獣出現の際にデジタル通信が阻害される事に基づいた”仕方のない”措置ではあるらしい……のだが。
『まだあそこには、取り残された人たちも居るのに!』
「それに、そろそろ通信無効圏内に入る。何で現場で通信が阻害されるのか、彼らが単に電波出力の問題だと思っているなら……」
その瞬間、再びチヌークから破裂音が上がった。ドアガンの巨大なライフルから弾丸が発射され、刻印獣の肩部で爆ぜて肉を抉る。追撃を掛けるように、追い着いてきたヘリ群が射撃を開始した。
刻印獣が、背を丸めるようにして身を翻した。先程まで自ら破壊し、突っ切ってきた瀬田方面に駆け戻り始める。発射された弾丸がその踵付近で次々に炸裂し、今にも刻印獣のアキレス腱を撃ち抜きそうに見える。
「ムウ……」『分かってる。私たちも行きましょ!』
僕は、刻印獣と並走するように疾駆する。巨体の移動に伴い地面が絶え間なく震動するが、大股で跳ぶように走り、両足の接地を最小限にする事で転倒を防ぐ。
走りながら、このまま進み続ければ多摩川に出る、と考えた。最初僕は「高い場所から落下したダメージが有効なのではないか」と推測したが、川に落ちた瞬間に重火器を以て集中攻撃すれば、刻印獣の自己修復を待たずして倒せるのではないだろうか。無論相手の再生能力がどれ程のものなのか正確なデータがない以上、確実な事は言えない。致命傷を負っても回復した事から、粉々に磨り潰されても回復する可能性は否めないが──。
皮肉な話ではあるが、刻印獣が東京に侵入した経路上に、まだ生存者が居る事は考えられなかった。魔眼の能力を考えれば、「半死」などという状態はまず有り得ないからだ。だがその分、自衛隊の行動から制約は除かれる。先程の様子を考えるに、飛び道具の射程は通信無効圏の半径より広い。
もしかしたら──もしかしたら、彼らであれば刻印獣を倒せるかもしれない。
そんな予感が、微かに脳裏に過ぎった。
「ムウ、右の道に入るよ!」
行く手に、道路標識の青看板が付いた歩道橋が見えてくる。刻印獣は瀬田三丁目、四丁目の辺りから住宅街に入り、直進してきたらしいので、このまま三一一号線を走り続けて玉川通りとぶつかる交差点に出てはかなりの距離が開いてしまう。実際に少し進むと、刻印獣による蹂躙を免れた建物も徐々に見えてくるようになった。
「追い着かなきゃ。こっちに居る人たちまで、戦いに巻き込む訳には行かない」
僕/ムウは住宅街の内部へと進み、遠くに見える自衛隊機と土煙だけを頼りに細い道路を曲がっていく。時計台のある瀬田地区会館が正面に見える十字路を右折し、百メートル程直進した辺りで再び十字路。更に直進し、狭く曲がりくねった下り坂を道なりに進んでいくと、やがて目の前に荒野が現れた。刻印獣の蹂躙したルートと、遂に合流したようだ。
刻印獣は、住宅街よりもやや土地の高くなった多摩川堤通りに屹立していた。自らの進んで来たルートを記憶しているのか、これ以上進めば川に──多摩川に注ぎ込む野川に落とされると判断したらしく、それ以上逃げる気はないようだ。僕はそれで、刻印獣に落下ダメージを与えるという策を放棄した。
ストライキを起こそうとする肺と足に活を入れながら、僕は焦土と化した坂を堤防へと駆ける。頭上を自衛隊のブラックホーク(UH - 60JA)が横断し、対戦車ライフルの掃射を開始するのが見える。僕は激しく波打つ胸を拳で押さえ、貪るように酸素を吸いながら、自衛隊の動きを見守った。
ブラックホークの一機が、魔眼の標的に定められた。刻印獣は緩慢に瞼を閉じ、やがて空中に大気の波紋を生じさせながら開眼する。しかし、そこから緑色の閃光が射出されようとした時、狙われたヘリがミサイルを撃ち出した。
一発目のそれが、刻印獣の単眼にめり込むように頭部を直撃し、爆発した。すかさず二発目も放たれるが、こちらは寸前に敵の突き出した拳によって先端からぐしゃりと押し潰され、そのまま爆散する。
ここまでは、最初に僕/ムウの行った攻撃の結果と同じだ。しかし、刻印獣は今度は再生を待たず、残った攻撃手段──手足による格闘戦でブラックホークに応じた。
僕が最初に抱いた、人型でプロポーション的に敏捷性が高そう、という印象は間違っていなかった。刻印獣は右足をほぼ垂直に振り上げると、低空飛行するヘリの一機を踵落としで粉砕する。続いて向かって来た二機目に、いつの間にか握り締めていた機体の残骸を投げつけて爆散させ、続いて背後から接近した三機目を回し蹴りで破壊する。飛来したそれらの欠片が、僕たちの周囲まで降り注いできた。
『星紀、伏せてっ!』
ムウに叫ばれ、僕は顔から倒れ込むような勢いで過熱した地面に這い蹲った。
頰に焼けるような熱さと皮膚の引き攣りを感じた時、耳元で轟音が次々と炸裂した。熱さに耐えながら頭を抱え込み、身を屈める。しかし、周囲が開けている以上、襲い来る鉄片を完全に防ぎきる事は不可能だった。
砕け散り、落ちてきた機体の欠片が、ぐさぐさと湿った音を立てて背中に突き刺さった。肩から両腕、項、尻から太腿、水盤から水が溢れ出すように、背中より低くなった部位という部位を熱い液体が流れ落ちるのを感じる。血を吸った着物が不快な重さに濡れ、焼けた傷口に吸いつくのが分かった。
「う……うう……っ!」僕は、絶叫しそうに震える喉を懸命に宥める。
実際の痛みよりも、この状態が続けばどうなるのだろうか、という恐怖が僕を叫ばせたがっていた。もし、出血が危険な量に達したら。もし、尖った鉄の部品が血管内に入り、全身を巡り始めたら。もし、更に大きな落下物が真上から降ってきたら──。
それは、自衛隊が最初に予想以上のリードを見せた事によって生じた些細な──この程度なら抱いても許されるのではないか、と思われる程些細な──希望が、徹底的に破壊される瞬間だった。追い討ちを掛けるように、機体の爆散に巻き込まれてちぎれ飛んだと思しき腕が目の前に落ちてくる。
鉄の降雨が一段落すると、僕は頭を上げ、膝を突いて立ち上がる。しかし、裂傷と火傷により、全身の毛穴という毛穴から金串を挿し込まれるかの如き痛みに足元が蹌踉とし、刀に寄り掛かるような姿勢になってしまう。
焼け爛れた肌に染みるような、濃度の高い涙が目尻から伝い落ちた。
『星紀……』
ムウの声が、同じくらい悲痛な響きを持って頭の中に谺した。彼女は、それ以上の言葉が出ない、というかのように何度か僕の名前を呼び、口を噤む事を繰り返したが、やがて決意を孕んだ声で言った。『星紀、待ってて。すぐ痛くなくなるから』
「ムウ、それって──」
言いかけた僕の声が、唐突に出なくなった。
絶え間なく全身を苛み続けていた痛みが、あたかも嘘だったように蒸発する。主導権がムウに移り、感覚が彼女に引き受けられたのだ、と分かった時、僕は『ムウ!』と叫んでいた。
主導権のない間、心の中から彼女に話し掛ける方法。今まで彼女が使っていながらも、僕にはやり方が分からなかったそれを、何故今出来たのかは不明だ。しかし、今は理屈など考えている暇はなかった。
ムウが、先程の僕と同様呻き声を上げて膝から頽れた。
『ムウ、無理しないで! 痛んでいるのは僕の体なんだ、君が背負い込む必要は……』
「あるよ……傷を受けるのが、星紀だけだからこそ……」彼女が、激しい嗚咽と喘鳴の中から言ってきた。「せめて、私も……星紀の命を削って戦うしかない私も……!」
『そんなの──』
僕が言いかけた時、堤防でまた爆発音が鳴った。
刻印獣が、一、二分前に破壊された眼球をまたもや再生し、更に一機のヘリを魔眼の餌食としたのだ。立て続けに優勢ムードを覆された事で、自衛隊機の動きが混乱しているように感じられる。それは個のみではなく、部隊全体にもいえる事だったが、彼らが無秩序になりつつあるのは単に隊員の中から死者が出たからだけではない。
恐らく彼らは、最早互いの機体に対して通信を行う事が出来なくなっているのだ。僕やムウが最初に恐れていた通りの事が、現実になってしまった。
そして──刻印獣が遂に、最大人数を搭載した隊長機、チヌークに手を掛けた。缶詰を開けるような動作でプロペラに指先を引っ掛け、前後共に毟り取る。飛行の術を失ったそれを、刻印獣は無造作に地面に叩きつけた。
チヌークが、ぐしゃりと潰れて爆炎を上げた。ムウが、見ていられないというように目を背け、僕には彼女の足元しか見えなくなる。視界が滲んでは流れる、を繰り返し、彼女もまた泣いている事に気付いた。
『ムウ……』僕が、もう一度彼女に声を掛けようとした時だった。
航空部隊の大部分を殲滅した刻印獣が、焼け野原に佇む僕/ムウの姿を捉えたらしく視線をこちらに向けた。ムウが目からひっきりなしに涙を流している為、その巨躯が明滅しているように見える。
『いけない、隠れなきゃ!』
僕は、やや離れた所に盛り上がっている瓦礫の山を認めた。あの陰に隠れよう、と続けようとすると、ムウは同じ事を考えたらしく、手の甲でごしごしと目を拭って駆け出した。
刻印獣の視線が、舌で舐めるような執拗さで僕/ムウを追って来る。瞼がゆっくりと閉じていくのを見、僕は光線の射出まで間に合わないか、と胸裏で歯を食い縛る。
瓦礫の山の陰に入るまで、あと十メートル。刻印獣の瞼が落ちきり、魔眼の発動予兆を示すようにぴくりと痙攣する。開眼するまでコンマ数秒、一方僕/ムウと隠れ場所まではあと五メートル、約一秒。間に合わないか、と僕が思った時、ムウが思いも寄らない行動を取った。
彼女は唐突に神依を解き、満身創痍の僕を、思い切り隠れ場所の方へと突き飛ばした。自らの声帯に戻った僕があっと叫びかけた刹那、彼女は地面を蹴ってぴょんと後方に跳び退る。僅かにムウを逸れた魔眼が、一瞬前まで彼女の体があった場所の地面を爆散させ、先程降り注いでそこに埋没していた自衛隊機のプロペラ片を舞い上げた。
衝撃によって足を取られ、滑りかけたムウの胸に、その破片が突き刺さるのがコマ送りのようにスローモーションで見えた。
僕が声を出せたのは、彼女が焦土の上に倒れ伏した後になってからだった。
「ムウ!!」
僕は、刻印獣の魔眼の的になる事も厭わず隠れ場所から飛び出した。焼かれ、乾燥した地面に血液がどくどくと流れ、足が滑りそうになる。だが、僕はそれに回す意識の余裕を失っていた。
僕に膂力があれば、身軽な彼女を抱え上げる事も出来ただろう。だが、僕の全身状態は限界に近い。大量出血の為貧血が起こりかけているらしく、頭も朦朧としている。僕は彼女の刀を自分のベルトに挿すと、帯を解いてそれを綱代わりに自分の背中に縛りつけた。胸を圧迫すれば、突き刺さった破片がより深く入り込んでしまうとも思ったが、破片はすぐに抜けたらしかった。それで血液が噴き出していないところを見ると、負傷箇所は心臓や大動脈からは間一髪のところで逸れているらしい。
それでも、何時間も持たせられるような状態でない事は明らかだった。
「星紀……大丈夫?」ムウが、弱々しく囁いてくる。僕は激しく頭を振った。
「大丈夫じゃないよ! 君が僕を庇って、なんて……!」
言いかけた時、今し方の爆発で上がった土煙が霧散し、刻印獣の姿がはっきりと見えるようになった。相手も僕たちを仕留め損ねた事を察したらしく、堤防を踏みつけて跳躍する。巨大な影が空を横切り、その踏圧でこちらを圧殺せんばかりに住宅街の跡地へと跳んで──否、飛んで来た。
僕は、悲鳴を上げる体に鞭打って駆け出す。引き返すのではなく、先程まで刻印獣の居た多摩川堤通りへと。緩やかな坂道を駆け上がり、こちらも刻印獣が破壊したらしいガードを通り越して野川の河川敷へと下りる。川面は、三十メートル程先で濁った光を放っていた。
天地を揺るがすような衝撃波が堤防を突き崩したのと、僕が河水に飛び込んだのはほぼ同時だった。




