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闇の涯  作者: 藍原センシ
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『闇の涯』 第16回

  10. ムウ ── 西暦二〇五五年 六月五日


「ねえ、星紀。……起きてる?」

 保健室の寝台を取り囲む(とばり)──カーテン。このような名詞の使い方について、経之たちからはしばしば「サナ氏の文化が掴めない」と突っ込まれる──越しに、隣の寝台に横たわる星紀に話し掛ける。彼からは「起きてるよ」という短い返事が返って来、ムウはややぶっきらぼうなその声に、彼の機嫌があまり良くないのではないか、と不安になる。

 こちらがそのような事を考えて黙り込んでしまった為、星紀の方でも慌てたらしかった。やや早口で、「どうしたの?」と上がり調子の声が続く。

「いえ……目を覚まして、体調はどうなのかな、って」

「あんまり良くない、かな。だけど、肋骨が折れている以外の傷は(ほとん)ど塞がったし、これは多分丸二日寝込んでいたせいだと考えられる」

「考えられる、って」

 口語にしては堅苦しい言い方に、ムウはついくすりと笑う。戦闘中、素早く刻印獣の弱点を発見して計算し、作戦を立てた事からも、彼が「どちらかといえば」ではなく、はっきりと経之たちと同じ人種なのだと分かった。……彼本人は、極度な文理二元論は好きではないらしいのだが。

 思わず笑ってしまってから、ムウはすぐに「ごめんね」と言った。

「その『肋骨が折れている』っていうところが、いちばん問題なのに」

「先生は、若いし一、二ヶ月でくっつくって言っていたよ」

「そういう事じゃなくってさ……」

 X線写真なるものを撮影した結果、彼は肝臓に大きな衝撃を受け、胃壁を一部損傷し、肋骨一本が折れるという文句のつけどころがない”重傷”に陥っていた。しかし、それは彼と共にムウもまた(こうむ)った傷だ。

 神依によって自分たちが同化した際、取る姿はムウのものだが、使用する肉体は星紀のものだ。戦いが終わった時、その身に受けた傷を全て背負い込むのは彼一人なのだ。

 その上、臨空術及び剣技に使用した霊気も、彼の肉体に依存したものだ。生命の源であるそれを消耗した事は、彼を疲弊させ、その後の傷の治りも遅くする。二日前の刻印獣との直後も彼はそれによって倒れてしまい、目を覚ましたのはつい先程だった。戦いが終わった後、自分の痛みが嘘のように消え、傷一つない体のままだったムウは、一人だけ重傷になってしまった星紀に、神依の本質を見たような気がした。

 応援を呼んだ後、駆けつけた階夫妻──特に星紀の母親である寛美から、ムウは半ば責めるような口調で「星紀だけがこれ程追い込まれているのは何故なのか」と詰問された。彼女としては、ムウを害しようという気持ちはなく、ただ鉄界の日常では決して受ける事のない未知の干渉を受けた我が子が現在どのような状態に在るのか、真実を知りたいという一心だったに違いない。ただ、神経を張り詰めた戦いの後でそのような詰問を受けたムウはつい興奮し「少し彼に対して過保護すぎるのではないか」という事を──無論ここまで直接的にではないが──言ってしまった。共に駆けつけた上白石が仲裁に入ってくれなければ、武力を行使しない二回戦へと突入していたかもしれない。

 考えてみれば、星紀の両親が最近彼に対して過保護気味なのは、《臨空の盾》であるムウの登場によって彼らが過去に自分たちの息子に行った人体実験めいた行為──一週間計画の事を思い出したからかもしれない。生まれたばかりで第三層界に送られ、内部の時間で十年間を過ごして帰って来た彼の体を、擬界のシステムコンソールなどを使って機械の如く乳幼児に退行させる、その行為は失敗していれば、親の手によって子供の命を奪っていてもおかしくないものだった。

 その上、ムウが現れる以前、星紀は交通事故に遭って全ての記憶を失うという状態にも陥っていた。それでは、階夫妻が彼の事について神経過敏になるのも、無理のない話ではある。

 実を言えば、ムウも彼らと同じ気持ちではあった。自分が神依を行ったから、秘奥義の為に相当量の霊気を絞ったから、このまま彼が目覚めないなどという事になってしまったらどうしよう──そのような思いで、胸が詰まりそうになった。

 彼と出会って、もう半月以上が経過した。状況の急変に次ぐ急変、いつ襲い来るか分からない刻印獣への対策と、生死不明となった禎宣の捜索。余裕のなさがそれを感じさせる事もいつしかなくしていたが、星紀と出会った時とは即ち、自分が最愛の兄を喪った時でもあった。心の表層まではなかなか現れる事のない、それで居ながら胸の奥深くに押し込まれ、醸成を続ける悲しみを、擬鉄界(こちら)での生活の中で癒し続けてくれていたのは確かに星紀だった。

「……ムウ」

 (おもむ)ろに、彼がこちらの名前を呼んできた。ムウは無意識のうちに毛布の束をぎゅっと抱き締めながら、「なあに?」と返す。

「ありがとね。ずっと、心配してくれていたんだろう?」

「え、ええ……まあ」本人から直接言われると、(いささ)か照れ臭い。

「それでも、刻印獣を倒せて良かった。だよね?」

「それはそうよ」

「良かった」

 彼が大きく息を吐き出す音が、(とばり)──カーテンを揺らしたような気がした。

「目が覚めてから、ネットでどんな事が書かれているのか見たんだ。刻印獣は倒せたけど、その為に支払われた犠牲はあまりにも大きかった。桜丘・下北沢間は広域に渡って壊滅、被害者は第一号の時以上……僕たちが戦ったせいでこんな事になってしまったんだって言っている人も、それなりに居るみたいなんだ」

「それは」ずきり、と胸郭の内側が疼いた。「仕方がない、って言っちゃ語弊があるけど、私たちが戦わなかったら桜丘は全域が焼け野原になっていた。もしそれでデイン様が──禎宣が死んだってヨド氏が把握しなければ、攻撃は続いて、世田谷、東京、或いは関東以上の範囲が滅んでいたかもしれない」

「だけど、死んでいった人たちの家族や友達は、そこまで考えられない」

「感謝している人も居るはずよ。私だって、ちゃんとニュースを観たもの」

「分かってる。そういう人たちの方が、多いって事も。だけど、禎宣が前に言っていた事があってね……百人に褒められるよりも、一人に非難される事の方が重く感じてしまうって。あいつは、小説の事でそう言ったんだろうけど」

「………」

 ムウが黙り込むと、彼はすぐに「だから」と続けた。

「一緒に戦ったムウが、僕たちのした事は間違っていないって言ってくれると、凄くほっとするんだ。弱気だって思われるかもしれないけど、僕、今まで刀を持って戦った事なんてなかったからさ」

 ムウは、毛布を抱く手に力を込める。心なしか、頰が熱くなっている事を自覚した。

 星紀は一体どのような顔で、このような台詞を言っているのだろう、と気になったが、カーテンを開ける度胸はなかった。

「だけど、そろそろ刻印獣騒動も大きくなってきたね」

 話題を維持したまま、星紀から恥ずかしい事を言われないような方向へ話を引っ張ろうとして、ムウは頭を回しながら言葉を紡いだ。言ってから、その内容が照れ隠しでは済まないものである事に気が付いた。途中で止める事は出来ない為、続ける。

「日本政府も、もうじき本格的に法整備を始めるんじゃないかな。自衛隊も、対刻印獣戦の為に特別な演習を始めるかもしれないし。禎宣を狙っている以上、今後も刻印獣は世田谷に現れる……二回じゃまだ偶然で済むかもしれないけど、これが三回、四回と続いたらさすがに、皆世田谷に何かあるんじゃないかって疑い出すと思う」

「何ともいえないところだよね、それは」

 星紀の声色が、心なしか険しくなった。

「自衛隊の強力な機動兵器を導入出来たら、戦いはやりやすくなると思うよ。だけど、それで危険に晒される命が増えたらって考えると……ね。それに、ヒミツと国が連携する事になったら、ムウたちの事や現実世界の事、志総教授たちが三十年間進めてきた研究の事も黙っている訳には行かなくなる。だけど僕たち現人類の本体が異世界で管理されていて、ここに居る自分たちがAIだなんて、さすがに公表したら世界中がパニックになるよ」

「はい、二人とも」

 その時不意に陽気な声が響き、ムウと星紀それぞれの寝台を囲むカーテンがさっと開けられた。ムウは「わあっ!?」と叫び、反射的に身を起こす。

 弁当の容器を持った上白石が、そこに立っていた。

「星紀君。目を覚ました途端にこれからの事を考えて話し合う態度には感心だけど、そうずっと気を張っていたら、治るものも治らなくなるよ。平時には普通の大学生らしく、帰ったらムウちゃんと何をするか、とか考えていればいいの」

「何を、って」星紀が複雑そうな表情になる。

「羨ましいよなあ。女の子と同棲とか、俺の大学時代は最終目標の一つだったのに」

 上白石の言っている事に気付き、ムウは顔の火照(ほて)りがぶり返した。

「それは言わないお約束です、上白石さん!」星紀は、さすがに慌てたようだった。「ムウがこっちで活動するに当たって、必要事項です。いざっていう時になって、空魔と化身が離れていたら大問題でしょう」

「じゃあ、役得ってやつだ」

 上白石は容器を一つずつムウと星紀に渡し、にこりと笑った。

「少しリラックスした方がいいっていうのは本当の事だよ。例えば試験一ヶ月前だからといって、それから一ヶ月間四六時中試験の事を考えている事なんてないだろう? 君たちは戦闘時のバディっていう以前に、友達なんだから」

「友達……」自分たちの声が、自然に重なった。

「そうだろう? そうじゃなきゃ、そこまで打ち解けられないよ。仕事上の関係っていったって、お互いに預け合っているのは自分の命だ。俺だったら、そんな最大級のリスクを担っている相手にフランクになれるとは思えない」

 彼は見舞い用の椅子に腰を下ろすと、軽く手を伸ばして「どうぞ」と勧めてくる。ムウと星紀は「ありがとうございます」と言い、容器を開けた。

 友達か──。ムウは頭の中で、上白石の言葉を反芻する。考えてみれば、ムウが兄を喪ったあの日、星紀も幼少期からの友達だった禎宣が生死不明になっているのだ。彼もムウと同じ不安や悲しみを背負っているだろうし、ある意味ではムウや経之の告げた”真実”によって衝撃は一層著しいものになっただろう。

 自分が星紀の存在に助けられているように、自分も彼の心を癒せているのだろうか。

 そうだとしたら──それが、友達という事なのかもしれない。

(ずっと”お嬢様”でいたら、気付けなかったのかも)

 弁当を口に運びながら、ムウは星紀に気取られないよう箸の陰で微笑した。

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