『闇の涯』 第13回
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再び街に災厄がもたらされたのは、二日後の午後の事だった。
志総教授から連絡を受け、ムウと共に研究棟の屋上に出てすぐに目に入ったのは、下北沢方面のビル街から空に向かって伸びた巨大な植物だった。ソコトラ島の竜血樹にも似た、茸のような木が無数に縒り合わさった外見。しかしその樹冠は毒々しい赤紫色の花に覆われ、血煙の如き花粉を放っている。
根元の方がどうなっているのかは分からないが、それはビル群をおもちゃの如く蹴散らしながらこちらへ進んでいた。花粉が砂嵐の如く立ち込め、崩壊する建物の様子がよく見えなくなる。
そして、次の瞬間それらの花粉が、刹那に散った火花と共に爆発した。
「こういう時って、『出たわね』って言うんだっけ?」
ムウは、精一杯冗談めかしたつもりのようだった。前回の第一号との戦いに於いて、僕はずっと彼女に肉体と霊気を使われたまま、ただ彼女の視点に引っ張られていたに過ぎない。実質的には、これが僕にとっての初陣だった。
『分析結果、シグネチャーに該当パターンを発見。刻印獣です!』
通信機の向こうで、ヒミツのメンバーの一人が告げた。だろうな、と思いつつ、僕は顎を引く。同じく研究室でモニタリングを行っている母から『気を付けてね』と通信が入った。『あなただけを戦わせなきゃいけないのは、惨い事だけれど』
「問題ありません、階先生」
僕は、今は自分もヒミツの一員なのだ、という意思を示すべく、わざとそのような答え方をした。
風向は北東、風速は五メートル毎秒=やや強い風。粉塵爆発を引き起こす花粉はこちらへ流れているが、ヒミツは政府にも認知されていない組織だ、周辺住民には公から避難指示を出して貰う事も出来ない。可及的速やかに戦闘を終わらせる以外で、被害が広がるのを防ぐ方法はない。
「対刻印獣戦は、ヒミツの人たちにとっても初めての事。だけど向こうはマルウェアで、擬鉄界のシステムそのものに干渉してくる。必ずしも力技だけじゃ押しきれない事もあると思うから、教授たちにも弱点分析を行って貰う必要がある」
『その点はご心配なく、ムウ殿』志総教授が、ムウの言葉に応えた。『逐一、観察と報告を行いデータを送信します』
「感謝します。……星紀」「ああ、行こう」
僕とムウは、素早く視線を交わし合う。彼女の姿が無数の光の粒子へと変じ、僕を取り巻いて肉体情報を上書きする。すぐに主導権が移譲されたらしく、次第に体の感覚が彼女のものに変化していった。
「階星紀、並びにムウ、行きます!」
僕は宣言すると、屋上の柵に足を掛け、膝の撥条を使って体を宙空へと投げ出した。重力に捕まって自由落下が始まる前に目の前の棟に飛び移り、その屋根を駆けて更に跳躍する。
空魔族の身体能力は、鉄器族のそれよりも遥かに高いようだった。それは最初に見たムウの戦闘の様子からも分かっていたが、自分もそれが行えているという状況には何やら違和感がある。少しでも強く地面を蹴れば、あたかも月面に放り出され、重力の制約から解き放たれたように過剰な跳躍になってしまうのだ。
『星紀、一時的に主導権を貰うわよ。身体強化術を使うから』
「……なるほどね」僕は、眼前に迫る血煙のような粉塵を睨み据える。
その向こうに見える建物は、立ち込める土煙の為に輪郭しか捉えられないが、いずれもかなり大規模に崩れているようだった。今のところ、刻印獣は一撃しか粉塵爆発を使用していないが、それでも広範囲かつ高威力な攻撃だ。何の措置も取らないまま喰らえば、体が粉々になりかねない。
真紅の粉塵と土煙の混ざり合った靄の中へと突入した時、主導権がムウに移った。空気抵抗や、肌に当たる土塊の軽い痛みがみるみるうちに希釈されていく。口が自然に動き、身体強化術の詠唱が始まった瞬間、
『ムウ、防御!』
彼女の意識の奥で、僕は叫んだ。刻印獣が、僕/ムウが粉塵爆発の影響圏に入るや否や待っていましたとばかりにそれを実行し、四方から熱と衝撃をぶつけてきたのだ。
ムウが刀を正面に構え、咄嗟に体前面の急所へと襲い掛かった攻撃の威力を減殺しようとした。それでも、四方八方から容赦なく攻め苛んでくる衝撃を完全に殺しきる事は出来ない。寸前に発動した身体強化術が功を奏し、即座に体がばらばらになるような事はなかったが、もしコンマ数秒でも遅れていたら──。
『油断するな、まだ来る!』上白石さんの叫びが、僕の思考を中断させた。
ドローンでも飛ばしているのか、その合図は正確だった。立ち込める靄の中に隠れ、同時に切り裂きもしながら、刻印獣の枝のような触手が射出される。それは、再び主導権を移されたばかりの僕/ムウの足首──もう少しでアキレス腱に当たっていたと思われる部位を正確に貫いた。
『星紀!』「退魔剣!」
激痛を感じたのは、僕だった。その痛覚が神経を支配する前に、僕は素早く刀を振るって触手を切断する。こちらの傷口から迸った血液は、粉塵爆発の余熱で沸騰したのか空中で素早く赤い煙となり、斬られた触手の断面を染め上げた。
『星紀、大丈夫?』
「ムウこそ……でも、ちゃんとヒットさせられて良かった」
僕は歯を食い縛りながら、最寄りのビルの屋上へと降りる。振り向くと、刻印獣の樹冠がまた内臓の如く蠕動を始めている。赤い花は泡状になり、また粉塵爆発の予兆エフェクトを見せ始めている。
「大きすぎるよ……最初に戦った奴の十倍か、幅も含めたら二十倍以上ある」
『しかも、再生速度が尋常じゃない。さっきの粉塵爆発からまだ一、二分しか経っていないのに、もう次の攻撃準備を始めているわ』
刻印獣は、最初の攻撃で梅丘全域から世田谷区役所、豪徳寺の一部を巻き込み、次に区立中学校と女子校の近くにある経堂の公団住宅街を爆破した。その影響圏は半径約五百メートル四方、これを一分弱のスパンで繰り出し続ければ、約一時間で世田谷区全域が壊滅するという事になる。更に、爆発を引き起こす花粉は風に乗って更に広範囲に飛散するので、周辺地域にも甚大な被害がもたらされるだろう。
──幾ら何でも、過剰殺傷すぎる。禎宣一人の命を奪う為だとしたら。
僕は唇を噛み、また追撃を掛けてきた触手の一本を断ち斬る。先程よりも太く、硬いものだったが、ムウの性である火の攻撃を行うと先程より軽く切断出来た。やはりテクスチャに違わず、構成成分は木に近いらしい。
しかしこちらの攻撃も、ただ滅多矢鱈に相手を燃焼させ続ければ勝てるといったものでもなかった。今し方僕が焼き切った刻印獣の触手は、ビルの一部を大きく削り取りながら炎に包まれて落下していき、地上で爆発を起こしたのだ。粉塵爆発の余波を二度受け、脆くなっていた基礎部は、不安定な上部から更なる衝撃を受けた事と駄目押しとばかりの爆風によってビル全体を傾倒させ始め、僕/ムウは足を滑らせた。
同じように、焼き切る形で敵を討伐すればどうなるか。
計算式など立てる必要もない。今刻印獣の鎮座している場所は焦土と化す。




