『闇の涯』 第10回
「星紀君、気を強く持って聴いて欲しい」
教授はそう前置きすると、腕を伸ばして両の掌を僕の肩に置いた。
「君のご両親──私の後輩である階秀夫君、寛美君は、ヒミツの一員だった。そして、我々は自分たちの生み出した第三層界、擬森界の近未来を観測する事で、擬界が因果律に基づいて動く事を証明する為、生後間もない君をテスターに登用した」
「………?」僕は、何を言われたのか分からなかった。「どういう事ですか?」
「二〇三七年二月四日。この日、五百二十倍に加速された擬森界の年月日と、ここ擬鉄界の年月日がぴったりと一致する瞬間があった。生後六日目であった君は、そのタイミングで擬森界に接続された。一週間、向こうの時間で約十年の間、君は森界の住人として暮らしたのだ。AIである空魔たちと共に」
「僕が……空魔たちと一緒に?」
「そうだ、まだヨド氏が台頭する前の森界、サナの村で。現実からの擬界への潜行と異なり、ホログラムである私たちは、精神と肉体情報がイコールの関係だ。戻って来た時、君の体は十歳児のものとなっていた。そして、擬森界で十年間を過ごした君にとっては、こちらの世界こそが異世界だった。私や実の両親を見た君は、パニックを起こした」
教授の説明が進むに連れ、徐々に動悸が大きくなってくる。
「テストの成功後、私たちはミム、記憶干渉装置を用いて君の一切の記憶を消去、更に《臨空の盾》から教わったコードでこの世界のシステムコンソールにアクセスし、君の肉体情報をコンティニューして生後十三日目の乳児に退行させた。私が、医学部の管理下にあるミムの使用方法を知っていたのも、この実験が理由だ。
……失敗すれば、君がどうなるかは不明だった。それでも新生児を登用しなければならなかったのは、可能な限り脳の記憶容量が空に近い者の方が、擬界の一部として自然な行動を取りやすいからだ。因果律の収束地点により、運命は遂行され続ける。しかし、どのような形で因果の『補完』が行われるのかは、システムしか知らない事だから」
「それは、成功したんですよね?」
僕は、咳き込むように震えた声を放っていた。
「成功していなければ、僕は帰れなくなって、擬森界で寿命を迎えていた……だけどもしそうだったら、今の僕は僕じゃないって事になりますよね? それで……禎宣みたいに、僕も本物の僕じゃないって事にはなりませんよね? ……いや、そうだったら僕は、もう階星紀とは赤の他人で……」
言葉が支離滅裂になっているのは、自分でも分かっていた。ムウが「落ち着いて!」と言いながら僕の背中を擦ってきたが、僕には彼女のその声すらも何処か遠い場所で響いているように感じられた。
両親が、ヒミツに参加していた。同じ鳳栖大の教員であるという以前に、志総教授とは同じプロジェクトを進行する関係だった。だから、僕と禎宣はお互いのすぐ近くに居て、出会う事は必然だった──。
考えれば考える程、現実は恐ろしい形で繋がっていく。ムウから森界や空魔族の事を聞いた時、その事実を比較的容易く受け入れられた事も、彼女や本当はデインだった禎宣と顔を合わせた時に感じた懐かしさも。僕が本当に、何世紀も昔のサナ氏の中で育ったのなら、ムウや禎宣と同じ遺伝子を持った祖先とも顔を合わせた事があっただろう。そして、禎宣と共に称された「天才コンビ」の事も。
言葉を含む記憶を消され、肉体情報を改変されても、発達した知能だけは恐らく不可逆的なものだったのではないだろうか。知能とはどれだけ知識を持っているかではなく、どれだけ学習能力を持つかだ。僕は当時、生後一週間にして十歳児と同等の知能を持っていたのだ。言葉も、技能も、一度教えられれば瞬く間に定着したに違いない。だがそれらの知識や能力は所詮、小学校中学年程のものでしかなく、年齢がそこまで達する頃までに急激に伸びる訳でもなかった。
「……私」ムウが、僕の背に触れたまま言った。「星紀の事も、『闇の涯』を観測する為にそこまで擬鉄界の人々が動いていた事も、知りませんでした」
「そうでしょう、ムウ殿。私たち鉄器族も、人類の自由と尊厳を取り戻す為にこの計画に着手したのです。しかしその実際は、今ここに居る私たちが電子上の紛い物であるという事を全面的に利用したものだった。更にはそれと同じ道を、若い命たちにも強いねばならなかったのです。それを、関係者全員に明かす事が出来ましょうか」
志総教授は言い、再び僕の方を向いた。
「当時から《臨空の盾》の中で全てを知っている者は、ヤシロ殿にヤサム殿、その子たるヤドク殿、補佐役のシンハ殿のみだった。ヤシロ殿に続いてヤドク殿までが亡くなられた今、『闇の涯』潜行計画を知る者はシンハ殿と最小限の関係者だけだ。けれど、十七年間の末に、君は因果律とはまた異なる”運命”が悪戯をしたように、ムウ殿の化身となってしまった」
「……はい」僕は、俯いたまま微かに肯く。
「しかし、これだけははっきりと言える。君は間違いなく、秀夫君、寛美君の間に生まれた本物の階星紀君だ。それだけは、疑う事なく信じて欲しい。直接君に対して、人道に反する事を行ってしまった私が言うのもおかしな話かもしれないが……君は自分を見失ったり、絶望したりしないで欲しい」
教授はそこで背筋を伸ばし、一瞬の後九十度近く体を折り曲げた。
「このような事態になって、初めて全てを打ち明ける私を……どうか許してくれとは、言わない。許して貰わなくても構わない。だが、せめて謝る事だけはさせてくれ。星紀君、本当に申し訳なかった」
彼は繰り返し、何度も、何度も頭を下げ続けた。僕は慌てて止めようとしたが、やはり最適な言葉は現れてくれない。禎宣がこんな僕を見たら、また「お前は理系だから」などと言うのかな、と、ちらりと思った。
今にも血を吐くのではないか、と思われる教授の謝罪を何度も聞いているうちに、僕の中で眠り続けていた思い出が、徐々に頭を擡げてきた。
舗装されていない、荷馬車の轍が続いた土手の道。夕陽を反射した光の粒が、溢れんばかりに辺りを飛び交うそこを、幼い僕は二人の友人と共に声を上げて笑いながら家に向かって歩いている。
階星紀としての記憶を全て失った時、代わりに蘇った思い出。何処を切り取っても「もう戻れない日々」として輝いているような、帰りたいと思う程懐かしい──。
「デルマ……ヤエナ……」
やっと思い出した彼らの名前を口に出した時、自分でも知らないうちに頰が熱く濡れていた事に気付いた。僕は声も出さず、静かに涙を流し続ける。
これは、終わりであるはずがなかった。
今この瞬間にもヨド氏は刻印獣の準備を進め、禎宣は行方不明のままだ。




