隣人時々武士〜私と武士と好きを考える明日へ〜
忙しなく鳴き続ける蝉の声。
地面が焼けてるんじゃないかと思うほどの熱気。
一歩踏み出した足は一秒と経たずに根を上げ始めている。
近年の夏はちょっとどうかしていると思う。
足の裏が地面に蕩けてくっついてしまうのではと思うほどの暑さにもう白旗である。
今年の夏はまだまだ始まったばかりだと言うのに。
地面も暑すぎて明日には蕩けてラクレットチーズみたいに削れてしまうかも。
そんな妄想をしてしまうくらい、今日の日差しは鋭い。正直夏休みに入ったらもう授業が始まるまで外には出たくない。
学校から家までの道のりはさほど遠くはない。10分もすれば家。
10分。
されど10分。
ジリジリと暑い陽射しが頭のてっぺんを焼く時間、私は異様なものに出会った。
「おい、そこの女子よ」
妙ちきりんな言葉遣い。
「そうだお主だ」
「え」
「女子よ、私はどうやら迷子になったらしい」
「は」
……おなご。
小学生? でも見た事ない。保育園児?
えらくハキハキ喋る幼児が、道路の真ん中で仁王立ちしている。謎に偉そうな口調。
謎だ。
12歳の夏。私は異質な存在とエンカウントした。
◇
「き、君……お母さんかお父さんは……」
「家だ。私は一人で外出した」
「へぁ……」
困ったな。変な声出ちゃったな。
最近はアニメの影響とか、ネットの影響で変な言葉を使う同級生もすごく増えた。その子の弟や妹も随分と大人っぽい言葉を使う。そんなに珍しい事でもない。
でもこの男の子は、そのそれとも違う様な、なんだかすごく変な感じがする。素で言っているような、そんな感じ。それも変だけど。
「住所とか、覚えてないの?」
「覚えてはいない。だが、手控えは持っている。しかし地図がないのだ」
「てびかえ……」
聞きなれない言葉だな。
思わずキョロキョロと周りを見回して、誰か大人が居ないかと探すが、残念ながら誰もいない様だ。こんな暑い中、そりゃそうだ。
「……ちょっと見せて」
交番どこだったかな。
これにまた「しばし待たれよ」なんて時代を間違えた様な返事の言い方になんとも言えない、そわそわした気持ちがしたが、なんとか押さえ込む。
男の子がポケットから取り出した三つ折りにされた紙を受け取り開く。
三つ折りって。
そこに書かれていたのは見たことのある住所。
「……あれ」
「知っているか!?」
それは私の家のすぐ隣の住所だった。
並べられた漢字はまるきり一緒。最後の番地だけが違う。
は、と息が詰まる。
「……君、ここの……この住所の子なの?」
「さよう」
「えぇ……さようって……」
なんだそれ。
侍かよ。
今侍のアニメ流行ってるのかな。戦隊モノ? とか? なんだろう。
「……この住所、うちの隣だよ、おいで、一緒に帰ろう」
「かたじけない」
かたじけない……。
思わず眉をひそめてしまった。
今時そんな言葉使う子供がいるだろうか。まぁ、いるかもしれないけど初めて会ったな。
「着いたよ」
ほんの数分だ。
「世話になった。礼は必ず」
ピシリと背筋が伸びて、90度に曲がる背中。
つむじが見え、ふわりとした柔らかそうな髪が重力に従ってゆっくりと落ちていく。
「あ、いえ……そんなそんな……」
「いや、助かった。それでは」
最後まで私の拙い返事を聞いていた男の子は、一つお辞儀をして家へと入っていった。
真っ直ぐで強い眼差し。
果たして自分があの男の子のような年齢の時、あんなにしっかりしていただろうか。
あんなにハキハキと話しただろうか。
「人それぞれ、なのかなぁ」
もうすぐ咽せ返るほどの暑い暑い夏がやってくる。昔に比べればとんでもない温度の空気が大地に降り注ぐ。
コンクリートを焼き、虫取りに精を出す子供はもしかしたら今年はいないかもしれない。
季節の変わり目が曖昧な今日この頃、私は変わった男の子とであることになったのだ。
◇
あれから何度目かの夏が過ぎた。
一向に出会うことがないままに、怠惰な夏休みを過ごし、中学、そして私は高校生になった。
あの男の子は何歳なのか。
そう思った私は隣の家のインターホンを押せば解決すると言うのに、アホほど回りくどく時間のかかる方法を選んだ。
なんとなく。
積極的に探し当てたい訳じゃない。
本当に何気なく気になっている。その程度だったのだ。なんとなく気になった漢字の意味を辞書で探すみたいに、ただただ「ああ、なるほど」とだけ思いたい。それだけの欲求。
それだけを胸に、小学校の中を探してみた。
低学年を見て回ったが、私が出会った奇天烈な話し方をしている子供はいなかった。
発育が極端に悪い高学年だったりして、なんて思って他のクラスも見てみたが、やっぱりいない。それってつまり、小学生よりももっと下って事なのかな、と、その時の私はそう結論づけた。
そして特にアニメや戦隊モノで侍系が流行っているわけでもない事もわかった。
まぁ、これも人それぞれ。
私だって今更に10年前のアニメにはハマって古い歌を歌う事だってあるわけなのだから。今のようにおしゃれで作品の世界観をガッツリ掴んだ解釈合致の歌ではなく、アニメのタイトルを叫ぶ感じの歌とか。
私のハマったアニメは置いておいて、つまり何が言いたいのかと言うと、あの夏の始まりの日。その日を境に一度も出会わなかったのだ。
隣なのに?なんて思うだろう。
そう。家は隣なのに、会うことはなかった。
子供というのは不思議なもので、すごく奇妙なことも数日経てばすっかり忘れてしまうのだ。
すっかり忘れるまで言うと極端だけれど、記憶の端っこの端の端まで追いやられた記憶のかけらはそうそう飛び出しては来ない物だ。
隣の家だとしても、学年が違えば当たり前の様に会うことはない。
時々思い出して、玄関の扉を開けた時に立ち止まり隣の家を見やる。
一瞬だけ、過去の衝撃を思い出す。
ほんの少し。
あの玄関の扉が開かないだろうか。
あの変な言葉遣いの男の子は一体いくつだったのだろうか。きっと小学生だったならランドセルを。中学生だったなら制服を。
一目できっと年齢なんて推測できる。
そんな事を一瞬間思い出して、立ち止まって、うんともすんとも言わない隣の家の扉を眺めて、家を出るのだ。
18歳になった日、扉を開けて外の世界の空気を吸う。
18歳というのはなんだか区切りの歳なような気がして、気持ちがゆらゆらする。
受験の年齢だからかな。そう思えば「まぁ確かに」なんて自分の中で納得する。
その日はなんとなく、1時間以上も早く目が覚めてしまった。
誕生日のワクワクとは不思議な物で、何かと期待して早く学校に行ってやろうなんて思ってしまうのだ。不思議だ。
そして、ただなんとなく隣を見てから学校へ向かおうと思った。
隣の家を。
なんとなく、会える気がして。
扉がキィ、と唸り、ほんの少し高い声が「行って参ります」と空気を震わせた。
古風な言い回しに、胸がどきりと震える。
こんな言い方は変だけど、この衝撃を待っていた、みたいな。
自分で言ってて随分安っぽい。
でもきっと、そんな感じ。
家の中から出てきたのは、にょきりと背の高い男の子。キリリとした釣り上がった目を縁取るまつ毛は長く、頬に影を落としている。ざっくりと短く揃えられた髪は、今時珍しくスポーツ系。
すっかりおでこが出ている。
パチリ。
視線がかち合って、ピクっと肩が跳ねる。
「あ」
「え」
また時が止まって、一拍。
ぴかりと光った瞳が、大きく開いて、頬にほのかに赤みが宿る。
それはどっちが先か———なんてわからない。
朝の日差しがチカチカと鮮やかに彼の存在を映し出す。
記憶の中の男の子よりもずっと大きくなっている姿に、霞がかった記憶が息を吹き返した。
「あ、えと……おは……」
「おはようございます!」
「ほわ」
へら、と笑って手をぎこちなくあげれば、みなまで言わぬうちに予想もしない熱量の返事が返ってきた。
ちょっとだけ気怠そうなポーズを取るのがなんだか少し格好良い!なんて風潮が蔓延っている高校生にはないハキハキさに、私の挨拶なんて吹き飛んでしまう。
とんでもなく大きな声が住宅街に響き渡って、電線に止まって休憩していたであろう小さな鳥たちは羽をバタつかせて一斉に羽ばたいた。
「声……でかくない?」
「ああ、すまない。つい力が入ってしまったようだ。おはようございます、えっと……」
「恋川妙だよ。おはようございます」
「土井蓮次郎です、おはようございます」
礼儀正しく、少し照れくさそうに私に続いてお辞儀をしてくれた遥か遠い記憶の中の男の子はようやく名前を持ったのだった。
「女子って呼んでくれてもいいよ」
そう言えば、キョトンとした顔が私を捉えて、しばらくはなんの事か見当もつかなかったのだろう。瞬きを数度繰り返しようやくからりとした笑みを浮かべて顔をクシャりとさせて、いかにもおかしなことを言ったとでも言いたげにくつくつと笑った。
「ははっ、そんな幼い歳でもないだろう」
私にとっては衝撃な言葉だったのだ。
女子なんて映画でもテレビでも聞かない言葉だ。ましてや小さな子供の口から飛び出すなんてもっともっと無いことなのだから。
片眉を下げて口の端をひょいと上げて笑う表情は、私が見たことのある人間のどれにも当てはまらないなんとも言い難い大人な表情を持っていた。
「私にとっては衝撃だったんですけど」
「そうか」
一言で区切られてしまった会話に、そうとは言わないものの、それ以上は踏み込ませない、そんな意図を感じるが、にこやかな顔はそんな気配すら見せてはくれない。「そんな歳でもない」だなんて、一体お前はいくつなんだよ、なんて心の中でツッコミを入れる。
私なんかよりずっとずっと年上のような気配を纏わせた不思議さ。チラリと盗み見たカバンの端っこには「五年生」とえらく達筆に書かれた文字が見えていた。
5年生。
11歳。
それの正体がなんなのか、昼を過ぎる頃まで経っても一つもわからないままだった。
「やばいじゃん。どうしたの妙、ぼーっとしちゃって」
「なになに、誕生日なのに催促しないなんてらしくないと思えば」
「あ゛っ」
しまった。
自分の誕生日だった。
早起きした理由も、早朝から友人にお菓子でもねだる気だったからだ。
もう半日も過ぎている。
しまったしまった。
「しまったしまった」
つい口に出して言ってみるが、友人達に「ぶふ」と噴き出された。
「じじくさ」
「いやいや、ばばくさ?」
「……だよねぇ」
心の中で誰を真似ているか、きっと友人達にはわからないだろう。
頭の中の男の子がカラカラ笑う。
やっぱり、年齢不詳だなーなんて頭の中で納得してしまえば、もう頭にこべりついて離れなかった不思議さはどこかへひょろりと行ってしまった。
彼が何者かなんて、本人に聞かなければ分かるものもわからない。今度会ったら聞いてみよう、なんて心の中でもう一度算段を立てる。
それからまた長い間彼と顔を合わせることはなかった。
◇
あっという間に過ぎ去った大学生活は本当に一瞬だった。瞬く間という表現が本当にピッタリだなと思う。
流れるように気がつくと夏が来て、忙しい夏休みなんていうものがやってくる。それは小学校や中学校、高校とも全然違う夏で、長く、とても暇でとても忙しい。
矛盾するようなこの二つは意外にも共存していて、過ぎ去ってしまえば実に怠惰な一年だったという感想に至るから不思議で仕方がない。
恋したり、恋愛したり、勉強に青春に就活に。
口にしてしまうとチープな並びだけれど、ありきたりでそれなりに楽しい数年間だった。
恋愛はどうだっただろうか。よくわからない。
大恋愛みたいなものもないし、ふわっと付き合ってふわっと別れる。傷つくこともなくて、気がつけば友人に戻っているこの関係は果たして恋人だったんだろうか。
なんだかつまみ食いされたような、損した気持ちが浮上する。きっとお互い様で、相手だってそう思っているに違いない。
改めて振り返った時、空虚な何かの存在に首を傾げるしかなかった。
これに名前をつける勇気は今のところない。
ぼんやり休日の朝に見る星座占いと、芸能ニュース。
毎日毎日飽きずに繰り返される破局や電撃結婚のニュース。
幸せになります。
大事にします。
画面の中で、美女が笑い、イケメンが宣言する。
それってなんだろう。
結局のところ、それは私にはわからない。
◇
「あ」
「あ」
コンビニの袋をぶら下げて夜の道を歩いていると、近所の小さな公園で、二つ並んだブランコに小さく丸まった背中と、見覚えのある顔を見つけて、思わず近寄ったは良いが、完全に失敗した。
まだ2回しか話したことのない隣人で、年下の蓮次郎くん私よりも7歳歳下の男の子。関係性のステータスは声をかけるには貧弱過ぎる事に気がついたのは近くまで駆け寄って彼と目が合った時だった。
「……妙さん」
「ぅお……はい、蓮次郎……さん?」
突然話しかけられた声は随分と低くなっていて、思わず変な返事をしてしまった。その原因の八割は名前で呼ばれて驚いた事だが、何年も前の自己紹介をちゃんと覚えてくれていた事にほんのちょっぴり胸がふわふわとした気持ちになった。
まぁ。
私もしっかり覚えているわけだが。
気恥ずかしさが勝って、彼の足元に置かれた鞄にデカデカと書かれた名前を見て答えたふりをしてしまった。なぜそんな逆カンニングのようなことを。自分でもわからない。
自分も名前で呼んだくせに、私が名前で呼ぶとくすぐったそうににかりと笑った。それに釣られて私もヘラっと笑う。
「こんな時間に、何してるの?」
「この通り。学業の帰りだ。妙さんこそ。こんな時間に何を?女子の出歩く時間ではあるまいに」
「おなご」
「以前に呼べと言っておられたと記憶にあるが」
「やめてよ。一体何年前よそれ。女子なんて歳じゃないし」
「ははっ」
どうぞ、と指で指された隣のブランコに腰掛けると、久方ぶりの不安定な乗り心地によろけてしまう。なんとか腰を下ろして蓮次郎くんの方を見れば、彼の顔はぼんやりと空中を彷徨っている。
「……どうしたの。なんだか」
「なんだか……なんだ?」
なんだか変だね。なんて言えなかった。
そもそも変かどうかなんて私にはわからない。普段の蓮次郎という男の子を知っているわけでもなければ、気がおける友人でもない。ただの偶然会った隣人。
「……私の」
ポツリと、闇夜に溶けるように言葉が溢れた。
「私の秘密を妙さんに打ち明けたら、妙さんは困るか?」
「ひみつ……?」
「そう、秘密」
「その古めかしい言葉遣いの秘密? それなら知りたいけど」
「ははは、まぁ、それだな」
「私が聞いてもいいの?」
笑っているのに笑っていない声色が気になって、そう問い掛ければ、「……妙さんが良ければ」といった。乾いた笑みがくっついていたので、それに合わせて私も茶化すように笑った。
「そこは妙さんが良いんだ、でしょー」
「……ああ、その通りだな」
コンビニの袋がかさりと揺れる。
中身はビールとジュースとお菓子。
ビールの缶は結露で濡れて、ビニールがピッタリとくっついている。それも別に気にはならなかった。腐るものでもない。家に帰って冷蔵庫に入れれば良いだけ。
明日は日曜日だ。夜もまだ社会人にはまだまだこれから。問題なし。
「蓮次郎君門限は?」
男の子といえど高校生。夜遊びはいかんのだ。
自分はどうだったかはさておき。
「特には」
「ん。それじゃあ、聞かせてください」
「かたじけない」
かたじけない。
もはや絶滅種なのか、この子は。
「妙さんは、輪廻転生を信じるか?」
「えぇ、うーん……自分が経験しないとわかんないんだけど、どうかなぁ」
「ははは、だろうな。私も実は信じてはいない」
「なんだそりゃ」
「しかし、どうやら…あるようだ……何年も考えてみたが、まだわからない。これがそうなのか、否か」
「……ん? え?……それは、蓮次郎君が……?」
ゆっくりと足元を見ていた視線が持ち上がり、蓮次郎君の瞳が私を真っ直ぐ見た。私の目を捉える。
「さよう。私はこの体に生まれ落ちるまでは侍として生きていたのだ」
「んん? さむら、え? 刀、とか武士的な……?」
ものすごくアホな答えしか私の頭では捻り出せなかったが、私の拙い言葉で伝わったようで少し可笑しそうに笑い蓮次郎君は小さく頷いた。
「ははは、まぁな。武芸には人より少し長けていたが頭が悪くてな。年号までは覚えておらんのだ……あれは夢か記憶か……今ではどちらであっても幻の様なものだが」
「そうなんだ」
頭が悪そうには見えないが。
私のバカみたいな返答をスマートに受け流す彼に、もはや私の年齢すら赤子のように写っているのではないかと心配になる。
しかし、輪廻転生がこうもぼんやりとした感じなのかとびっくりしてしまう。もっとこう、勝手ながら漫画や小説の様にチート感があるものかと思っていた。
「その時の自分の名前すら、思い出せない。だが一つ忘れ難いものがある。……妙さん」
「ん?」
「妙さんは、恋煩いはするか?」
「んん!?」
噴き出しそうになって、思わず大きな声が出た。
それに対してキョトンとしたような表情からすぐに申し訳なさそうな笑みを浮かべて、「すまない」と少し疲れたように言った。その言葉の中に、ほんの少し残念そうなニュアンスが隠れている気がして、慌てて「ちがうちがう!」と引き留める。
私の態度のせいで彼が傷つくのは本意じゃない。
「あー、私は、あんまりわからなかった。恋と言って良いのかもわかんないの。変だよね、私大人なのに」
「…………」
「あー、ごめんね。あんまり参考にならなかったでしょう?」
不甲斐ない。
頼られてもこれほどふわっとした返答しかできない自分、不甲斐なし。そう思ってヘラりと笑えば、なぜか大きな手が私の頭の上に置かれて、優しく撫でられた。
え?
どういう現象?
高校生男子に頭を撫でられる大人24歳。やべぇ。絵面がやべぇ。心境もやべぇ。
どんな顔して良いかわからない。
去っていく手のひら。
どんな顔して良いのかわからない。
「……変なんかではない。私も、わからない……忘れられない記憶の中に、一つだけ、たった一つだけ残っていたものがあるんだ……記憶の中の俺は、男色だったようだ」
「なんしょく?」
「ゲイだな」
「……ああ、おー……なるほど」
ええ!?とか、うお!?とかいう反応をすると思ってたでしょう。思っていたよ私もね。でもなんだかストンと腑に落ちた。それがゲイだとか、ノーマルだとか、そういったことではなくて。
「……気色が悪い話をした、忘れてくれ」
「……気色が悪いの?」
ゲイだとか。
ノーマルだとか。
普通とか、普通じゃないとか。
恋だとか愛だとか。
いくつもカテゴライズされた中のほんの一つ。
そこに気色悪いも悪くないも無いのではないだろうか。
大きくまとめてしまえば人間同士なのだ。
勝手に気色悪いと拒否した人にして欲しくなかった。
「気色悪くないよ」
「……ありがとう」
私は頭が悪いが、人の話が聞けないほどではないはずだ。
私を見る蓮次郎君の目が、ゆっくりと見開いてぴかりと光った。ゆるく開いた唇が、きゅっと一文字に結ばれフルフルと微かに震えたかと思うと、ググッと唇に皺が寄る。
はーっと長いため息が聞こえる。
きっと気持ちを落ち着かせるためのものだろう。嫌な気持ちにはならない。
「あの時は、違えようの無い気持ちだったんだ。死ぬ間際まで、その気持ちは変わらなかった……きっと今世の旅路も、同じように心が動くものだろうと思っていたのだがよくわからなくなった。遥か昔の恋人を想う気持ちにばかり目が行くのに、肝心の相手の顔も名前も思い出せない……迷子のような気分だ」
「迷子か……」
なんとなく、分かる。
「私も……よく分かんないんだ。一緒に居て楽しいとか、嬉しいとかは分かるけど、愛はまだ、わからないなぁ」
変だよね。私大人なのに、なんて決まり文句のようになってしまった言葉を投げかければ、数秒の沈黙の後にくつくつと笑いが聞こえてきた。
「変じゃ無いよ」
「ありがとう」
同じような返事を返して、くすくすと笑い合う。
秘密を打ち明けた仲間というには、その密度に差があるように感じるが、気分的には良い仲間を獲得したような気持ちになった。心がふわっとして、ゆるい毛布に包まれた心地よさ。
これを感じているのが私だけじゃないといいなぁ。
話すことで少しスッキリとしたのか、蓮次郎君は心なしか晴れやかな顔になっていた。
きっと私もそうなんだと思う。
家までの帰路は一人で歩く道のりよりももっともっと近く感じるのだから不思議だ。
彼と会ってから、どうにも不思議がどんどん降り積もって、たくさん視界に入ってくる。
二人で並んで歩くと、とても変な感じがした。
初めて会った時は私より随分と小さくて、つむじもしっかり見えていた。
今ではどうだろう。
隣に立てば、首が痛むほど見上げなければ視線は合わない。
流れた月日が妙に感じられる日だった。
家に着いてしまえば、あとは玄関を開けて中へ入るだけ。
「じゃあ、蓮次郎君、おやすみなさい」
「ああ、妙さん、おやすみ」
扉が閉まる瞬間に目があって、微笑む蓮次郎君の瞳が少しの間見えた。
———ドクン
パタン、と音を立てて閉まるドア。
うっかりコンビニの袋がぶつかって、ガコンと音を立てた。すっかり汗をかいたビールの缶が袋の中で滴を散らす。
あれあれ。
あれあれあれ。
恋とか分かんないとか言ったのはこの口か。
秒でときめいているじゃないか。
変でしょう、私大人なのに。
今度は答えてくれる人は居ない。
「あれ? 何してんの?」
「なんでもにゃい……」
「変なの」
「うるへー」
「へんなの」
玄関の開閉の音にひょいとリビングから顔を出した母は呆れたように呟いた。
へたり込む私は確かに変だ。
◇
週末になると、決まってあの公園でおしゃべりをするようになった。
当たり障りない話。
進路の話や、会社の話。
先日のあの胸の高鳴りは、まぁあれだろう。気の迷いというやつだ。彼にとって良いお姉さんで居ることが今の私と、蓮次郎君にとって都合もよければ具合もいい。
互いに互いのメンタルクリニックごっこというやつだ。
しかしそれが、最近はどうにもうまくいかない。上手くいかない原因は私にある……と思う。
「あ、」
「……! 妙さん」
「あ、ごめん」
まぁ、あれだ。
お付き合いか、お遊びなのかはさておき、そういった相手と一緒に居るところを私が見てしまうという場面を何度か体験している今日この頃。
はた、と道端で見かけた二人組。
知っている顔。友人だけではない距離感。
私はとてもじゃないが、平常心では居られないのだ。
しかも全員相手が違うやんけ。
チューしとるやないか。
モテモテで羨ましいなちくしょー。
私も彼氏が欲しい。
幸せな話したい。
ちくしょー。
以上。
先々週。
「妙さん」
「あ、ごめんー! 私は今日は合コン! 幸せ掴んでくるから!」
「…………」
先週。
「……妙さん」
「ごめん、今週も出かけるの。ほんとごめん」
「…………」
そして、今日。
「妙さん……」
「大丈夫だよ」
「…………」
チャイムが鳴って、玄関の扉を開けばすぐ隣に住む蓮次郎君がぽつねんと立っていた。
黙って立ちすくむ姿になんだか申し訳なくなる。別にどちらかが悪い話でもあるまいに。とは思うものの、立て続けに予定を入れてしまった私も私だ。
気まずさを感じる。
それもひとえに私の中の気まずさが引き金になっているのだろう。
じゃあ、やっぱりコレは私のせいか。
社会人と学生の時間は、同じ一分一秒時差もなく過ごしているというのにまるで違う。一度重なった時間は当たり前のように繰り返しやってくるのに、どちらかがズレてしまうと元に戻すのは難しい。
「忙しかったの。ごめんね」
「…………」
「ちょっと待っ、わっ」
ヘラヘラと出ていけば、そっとではあるが手を引かれる。
その勢いで、つんのめって頭から蓮次郎君の体にダイブしてしまった。
中途半端に通した靴が仇となった。
やっぱり踵など潰さずにしっかり履かなくてはいけないらしい。
思わず、ぱっと離れる。
「ご、ごめん。こけちゃった」
「…………」
その時に見えた顔は、よくわからない。
何がなんだかよくわからない表情に、少しショックを受けたような、そんな顔だ。さらに何も言わないから、余計に不可解な間が出来上がって、ちょっぴりいたたまれない。
「公園、いこっか」
「……ああ」
帰ってきた返事は存外穏やかなもので、ちょっと安心した。それでもやはり、流れる空気は何週間も前のものと違う気配を纏っている。
黙ったまま歩く公園までの道のりは、途方もなく遠く感じて、足は重たい。
私の手を引いて、握られたままの手は今もそのままで、こんなところ恋人に見られたらどうするんだろうなんて人ごとながらに心配してしまう。
嬉しいか嬉しくないかと聞かれたら、答えはイエスだ。ちょっぴりときめいている。
合コンが失敗続きだったから?そうかも。
蓮次郎君がかっこいいから?そうかも。
私ってばちょろい。
ちょろいだけに、残酷だ。
恋とか愛とか、付き合うとか好きとか。
それってすごく曖昧で掴めそうで掴めない。
コレだよって教えてもらっても、自分の中で腑に落ちなければ素直に掴めないから厄介だ。
私は、まだわからない。
それなのに蓮次郎君がゲイだと打ち明けてくれたあの言葉に勝手にがっかりなんかしてしまっている。
この関係に名前がつかないことを誰よりも望んでいるのは私だ。
彼の特別になりたい私は一体何者なのだろうか。
ようやく手が離された時は、もう公園に着いていて、目の前には定位置となった空席のブランコが二席。
チカチカと光る街灯は少し不気味だけれど、そのおかげでこの特等席はぽっかりと空席を保っているのだから文句は一つもない。
ストンと座れば、一拍遅れて蓮次郎君も腰を下ろす。
「どうしたの?」
話があるようなそんな素振りを見せながらも黙ったままだった蓮次郎君にそう問いかけると、ゆっくりと私の方へ首を動かす。
「……合コンは、どうだった?」
「う…… 合コンね……残念ながら全敗よね……」
「そうか」
「何よ……私の話じゃなくて蓮次郎君の話をしてよ。それで?迷子は卒業した?」
言葉は選んだつもりだった。それでも、やはり蓮次郎君は神妙な顔をしたままむつりと黙り込んでしまう。
「私は……まだよくわからない」
「……そう、一緒ね」
「……一緒……か」
あ。
しまった、と思った。
傷つけたかも。
そんな予感が頭を巡る。
適当な返事をしたつもりもない。
それでも間違ったかも、とも思う。
自分だったら嫌だ。
知った顔すんなって、私にはなれないだろって 言うに違いないのに。
返事のないぶつ切りの会話に何か返さなくてはと焦る気持ちだけが大きくなっていく。
ごめん、訂正させて、そう言うべきかと下げた視線を蓮次郎君の方へ向き直した。
あれ。
なんで?
そこにあったのは、顔を覆って、かがみ込む蓮次郎君の姿。指の隙間からは、ほんのりと赤くなった顔が覗いてる。
「そ……か」
「なに……一緒だと嬉しいの? 私には大問題なんですけど」
そう、大問題。
茶化して言ってみたが、
恋だの愛だのを語る前に相手がいないとなんともならない。何も始まらないし、なんの確認もできない。始まってもいない物語を進めることなど誰にもできない。それは私だって一緒だ。
「いや……私は……妙さん」
「ん?何?改まって」
「私は分かった事がある」
「分かった事?」
「左様」
でた、左様。
古めかしい言葉。
でもなんだか、蓮次郎君と話している、という感じがしてすきだ。
「私は、男色というわけではなさそうで……昔の良い人との事は今でも胸を焦がすような思いがあるが、今世はどうも、わからない」
「そっか。じゃあ、その人が好きだったんだねぇ」
「そう、なのだろうな」
男が好きなんじゃなくて、その人が好き。
蓮次郎君の株が上がった。
良いじゃないか。素敵なことだ。
そうか。
じゃあ、私が見かけてしまった恋人たちは、そんな狭間を彷徨った結果だったのかもしれない。
「もう輪廻の前の事ばかりを追いかけるのは辞めにすることにしたんだ」
「そっ……か」
辞めにするってことは、きっとこの不思議な会合も無くなって、それぞれの日常に帰っていくってことなのかな。
少しだけ気に入っていた空間。私の前にだけ現れる武士。それが終わってしまうのは少し、ほんの少し、悲しい。
自分本位な考えに苦しくなるけれど、思うだけなら良いじゃないか、なんてこの後に及んで言い訳を考える。
「それで」
「ん?」
「それで分かったことがもう一つ……あって……」
語尾がくしゃりとなって、聞こえづらい。隣にいるのにこんなに聞こえ辛いことがあるとは。
驚愕していると、蓮次郎君の強い視線が私をじっと見つめる。
ブランコに並んで座って、私よりも遥かに身長も高いと言うのに、その位置から見上げてくるなんてすごいテクニックだな、なんて思ってしまう私は本当にどうしようもない。
そうでも思わないと、頭が変な期待を持って想像を開始しようとアップをし始めるので私なりの静止方法なのだ。誰かに頭の中を覗かれているわけでもあるまいし、モーマンタイ。
「妙さんが、合コンにいくと聞いて、その……嫌だったんだ」
「へ?」
「嫌だった。誰かに手篭めにされると思うと心の臓が裂ける」
心の臓って。
いや、てごめ……。
「そうでなくとも、誰かが、私の目の前から妙さんを連れて行ってしまうと思うと、いてもたってもいられなかった……」
「あ、だから……」
だから、今日も、先週も、先々週もわざわざ家まで来たと言うのか。
なんとなく、コンビニの帰り、散歩、そのノリで出会って話すということを繰り返していたのに、突然家に迎えに来たのはそれでだったのか。
一気に捲し立てるように話していた蓮次郎君は、はたと口を塞ぐと、静かに息を吐いた。
「……気色の悪いことを言った、忘れてくれ」
恥ずかしそうに、目元を覆って項垂れる蓮次郎君は、やはり随分と大人びて見えた。
あれやこれやと脳内で言い訳を考える、体だけ大人になった私とはなんて違うんだろう。
「気色悪いの?」
静かな暗闇の中で、所在なさげな瞳が、私を捉えた。
「気色悪くなんかないよ」
いつか言ったような言葉を、同じように返す。
気色が悪いか?そんな事はない。
私なんて、ちょろいもので、そんなふうに期待を含んだ言い回しをされれば喜んでしまうお調子者だ。
「都合が良いと罵ってくれても良い」
「そんなこと言わないよ」
「これが、好きという気持ちか確認しても良いだろうか」
「もちろん」
「私と、この好きについて一緒に考えてもらえるだろうか」
「喜んで」
それは、好きを伝えるためにはきっと大事なことで。誰もが口には出さないけれど。とてもとても大事なこと。
柔らかな笑みが降りかかる。
古めかしい言葉と、複雑な秘密を抱えた少年の瞳が、ゆらゆら、ピカピカと光った。
ブランコの金具がカシャンと音を立てる。
そろり、と壊れ物を触るようにして私を抱きしめた蓮次郎君は、私を綿菓子か何かだとでも思っているに違いない。私も負けじと短く切り揃えられた髪を撫でれば、私が綿菓子じゃないことに気がついたのだろう。ちょびっとだけ引き寄せる力が強くなる。
普通だとか、普通じゃないとか。
言葉を知ると、その言葉に縋りつきたくなる。
名前のついた枠に囚われて、抜け出せなくなる。決めつけてしまう。
そろりと、蓮次郎君の手を握る。
そうすれば、眉の下り切った赤い顔が私を見つめる。
きっと私も同じように情けない顔をしているかもしれない。
二人で探していけばいい。
二人にぴったりの関係がきっとあるはずだから。
名前のない世界へようこそ。
一緒に未来を探しに行こう。
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◇
小話
「妙さんがもしお付き合いしてる人がいたらと思うと……」
「思うと?」
「帯刀していなくてよかったなと思った」
「こっわ」
◇
小話
「それで、輿入れだが」
「え?」
「ん?」
「いや、なんていうか、ほら色々あるじゃん。性格とか体の相性とかさ」
「なっ」
「え?」
「女子が破廉恥な言葉を使うな!」
「破廉恥……おなご……」
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最後まで読んでくださり、ありがとうございました!
学生武士ヒーローと、社会人ヒロインの好きを考えるお話です。言葉にしにくくて、でも伝えたい
そんな関係を書いてみました。
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