始まりのログアウト
「…………ここ、どこだ?」
板張りの天井を曖昧に眺めていたレリックに言葉が戻ったのは、身に覚えのないベッドで自身が仰向けになっているのを自覚した直後の事だった。
「……………」
上体を起こしたレリックは改めて辺りを見渡してみる。お世辞にも良質とは言えない簡素なベッドが一つに、その頭上部隣、ランプの置かれた粗末なシェルフには、いつの間にやら自身の剣が立て掛けられていた。
その他に家具類はおろか、窓も無い。無機質な石造りの壁がレリックを取り囲み、かつては天井と同じ色だったであろう黒ずんだ床は、足鉄を降ろせばギシリと音が鳴った。
こと、寝るという点においては不備のない殺風景な部屋。
推察するに、恐らくは宿部屋なのだろうとレリックは考える。
残る疑問は――。
「……なぜこんなところに……?」
唸るような独り言が無音の中を漂い行く最中、レリックは首を捻った。
レッド・ドラゴンを討ち取った大英雄。それがつい数分前まで群衆から彼に向けられていた言葉である。おおよそ戦帰りといった出で立ちのままベッドに腰掛けるレリックには、その時、その場の高揚感が今もなお心に深い余韻を残していた。
そう、自分は確かに王都に居たのだ。だが、人々から華々しい賛美を受けている最中、急に視界が暗転したと思いきや、気付けば知らない場所に居たのである。数多く向けられた群衆の目と賞賛を尻目に、宿屋へ入った記憶などレリックには微塵もなかった。
「どうなってるんだ……?」
立て掛けられていた長剣を背に納刀し、レリックは部屋を出た。するとその先には、狭い部屋に似つかわしい閉鎖的な廊下が続いている。やはり歩く度にギシギシと音が鳴り、壁端に並ぶ扉の少なさから、数多の人々が往来する王都に在るような宿じゃないことが伺える。それに宿屋、というよりかは古民家をそのまま宿屋にしたといった感じだろう。
しかし……不気味なくらい静かであった。
「誰も居ないのか……?」
無音だけがレリックに返事をよこす。自身の呼吸音、あるいは着込んでいる鎧の微かな金属音が冴え聞こえるくらい、辺りは静けさに包まれ
ている。その無音には人の気配はおろか、敵意の欠片すら感じない。
「………………」
一息、すぅ。と呼吸を最小限に止めたレリックは、背に携えた剣の柄を握る。こうも手狭とあっては自身の身長と並ぶこの刀身を振り降ろせるかは怪しいが、防御くらいはできるだろうと思っての判断だった。警戒するに越したことはない。
廊下の先に見えていた欄干までり着く。天井が吹き抜けになっているせいか、欄干から見下ろす一階はそれなりに広く見えた。長テーブルが転々と置かれた様子を見るに、ここは酒場と併用した宿屋なのだろう。誰一人として姿が見えない点を除けば、何処にでも在るような内装である。
つまり階段の真下がカウンターで、奇襲があるとすれば――そこからだろうと。
「おはよう」
レリックが階段を下りった先で――その人物はレリックが降りてくるのを見越していたかのように声をかけた。やはり階段の真下がちょうど受付になっているようで、レリックは警戒したまま声の主へ目を向ける。
「目は覚めたかい?」
その人物はカウンターの奥に座っていた。陽だまりの様に柔和な声や態度にレリックは安堵する。何かしらの攻撃かと思っていた手前、レリックは抜刀しかけていた手元をごまかす様に自身の後頭部へと回し、そのままゆっくりと声の主へ歩を進める。
「困惑しているね? まぁ、無理もないさ」
夜の闇や朝の霞よりも曖昧な色の長髪をなびかせた男……を、レリックは凝視した。声からして男だと思う。一瞬、どちらか考えてしまうくらい中性的な顔立ちを微笑ませた男は、レリックが近づくと同時に立ち上がった。白のローブをフワリと揺らしながら――。
「先ずはホームの宿屋へようこそ。ボクはこの宿屋の店主、カミシロだよ」
「ホーム……?」
聞いたこともない街の名前にレリックは疑問を覚える。今まで数多くの街を渡り歩いてきた彼にとって、聞きなれないその街名は目前で微笑む男よりも気掛かりだった。
レリックが硬直していると、カミシロと名乗った男はそっと手を指し伸ばす。
「君のお名前は?」
「…………レリック」
「レリック君か。よろしくね」
レリックが手を取ったカミシロは柔和な表情を崩さない。元々そういった顔立ちなのか、閉じているのか開いているのか分からない弧を描いた瞳が柔らかく見つめている。得体の知れない男だが……腰部に見える魔導士特有のワンドが彼の素性を表していた。それは間違いなく、レリックと”同族”である証。
「ここは……」
得も言われぬ雰囲気を纏う彼へ向け、レリックが尋ねようとした時、
「ここに来る前、足元がふら付く感覚と共に視界が真っ暗になったでしょ? 転移魔法や空間移動、あるいは状態異常の感覚とはまた違った感覚だったと思うけど」
言うか早いか、カミシロが被せるように口を切り出した。一旦言葉を飲み込んだレリックはそのまま頷く。全くその通りである。だがしかし、彼が誰かなんて今は重要ではない。いったいここは何処なのか。どうして自分はいきなりこんな場所で目を覚ましたのか。それに尽きるのだ。
レリックが太い眉を寄せていると、カミシロは納得したように言い放つ。
「そっか、じゃあ君も『ログアウト』に遭ったんだね」
――――ログアウト。
ホームという街名に引き続き、初めて聞く言葉。
それでも、後者は妙にレリックの頭の中に残る不思議な言葉だった。
「ログアウ……ト……」
故に、レリックは復唱するように口零していた。初めて聞く言葉なのに、初めてじゃない。意味は分からないが、その言葉を自然と受け入れている自分が居るのだ。
「そう、ログアウト。ボク達、“冒険者”と呼ばれる特異な存在がその現象に遭遇すると此処で目を覚ますようになる不思議な現象の事だよ。今はボクと君の二人だけだけど、次期に他の冒険者達も君と同様に目を覚ますことだろう」
「そう……なのか?」
「ああ、モリガン様が言ってたんだ」
冒険者――それは不老不死の存在。世界に生きる“ヒト”と似て非なる者。
冒険者――それは突如として世界に発生した“魔族”と呼ばれる天敵からヒトを守る女神モリガンの使い。
特異な存在とカミシロが言ったように、ヒトは父と母の間から産まれるが、レリックを含めた冒険者は女神により創造されこの世へ送り出される。
故に、レリックはなぜ冒険者だけが『ログアウト』という現象に見舞われ、ここで目を覚ますのか――それ以上疑問に思う事は無かった。そう言うものと言われれば納得するし、そう言う導きと言われれば何も考える事は無い。冒険者達の運命は、常に女神モリガンの掌の中にあるのだ。
ならば……レリックに残る疑問は一つだけだった。
「……どうして『冒険者』が『ヒト』の真似事を?」
ヒトは食わないと死ぬ。寝ないと弱る。病に罹る。そして、魔族に対抗する術を持っていない。だからこそヒトは冒険者を相手に商いをする事で生計を立てている者が多い。
その反面、冒険者は飯を食わずとも死なぬし(一応腹は減るが)、寝ずとも活動できる。そして仮に肉体が滅びようとも、冒険者は女神の祝福によってあらゆる外傷や内傷、病状を修復された状態で再構築される。謂うならば、冒険者が商いをする必要性など無いのだ。
だからこそ、レリックはもう一度尋ねた。その薄気味悪い笑みを絶やさぬまま黙り込んだカミシロへ向けて――。
「お前、本当に冒険者なのか?」
「冒険者……だった。というのが今は正しいかな」
「だった?」
レリックがその言葉尻の意味を考えていると、カミシロは語り始める。
「ボクがこの街から出れなくなって、今日で三ヶ月くらいかな。この街は倒すべき敵もいなければ出来ることもなくてね。漠然とした空白の時間だけが漂っている。だからこうして宿屋の真似事をしながら、誰かが目を覚ますのをずっと待っていたのさ」
レリックは困惑していた。そしてその困惑は自身へ向けられていた。
怖くなった……と言うべきか。
それとも、これが“恐怖”という感情なのか、そんな事レリックには分からない。もはや質問と認識できるかすら危うい小さな声でレリックは吐露するしかなかった。
「出られない……だって?」
「ああ、大丈夫大丈夫、時間が来れば元の場所に戻れるはずだから」
「時間が来ればって……あんたは三ヶ月も此処にいるのにか?」
カミシロの弧を描いた目尻が下がる。それは不自然なほどに滑らかな笑みだった。
そして、カミシロは空へ問うようにして口を開くのだ。
「君は――神の存在を信じるかい?」
神? 神……レリックは考える。といっても、答えは一つしかない。
この世界を創り出し、冒険者達を生み出す者――それ以外に何があろうか。
「神って……女神モリガンのことだろ? プレイヤー? どこの国の言葉だよ」
彼の全く的を射ない質問の意図が分からず、レリックは怪訝な声を返した。だが、レリックの当惑とは裏腹にカミシロは微笑んだままだった。
「神。それは実在する女神に反し、酷く曖昧で抽象的で存在するかも分からない者。そしてそれは、それぞれの信念や考え方によって形を変える……。そんな存在に僕たちは運命を左右されているんだ」
「……はぁ?」
「僕が思うに、神から見放されない限りは大丈夫って事だよ」
この時のレリックは、彼の言葉の意味をまだ理解していなかった。
そしてレリックがその言葉の意味を知るのは――――。
「――――――――お?」
瞬間。レリックは自身の視界が歪み始めている事に気付く。
「おや、思ったよりも早かったね。おそらく一時的なものだったかな?」
意味が分からなかった。
いや。途中からカミシロが何を言っているのか聞こえなかったのだ。
この感覚には覚えがある。王都で遭遇した『ログアウト』とやらと同じ感覚――。
「――『ログイン』だよ。慌てなくていい。また来た時にでもゆっくり話をしようじゃないか。君には教えたいことが山ほどあるんだ」
視界が―――暗転する。自分が立っているのか、それとも伏しているのかも分からない。
何も聞こえない。何も見えない。
何も――考えられない。
「――ログアウト・ストーリーを考えるのは、神を失ってからでいい」
――――。
――――――――――――。
…………。……さん。
……レ……リ…………ん…………クレ。
――――レリックさん。
――あれ、まだロード中かな。
【接続確認――ようこそ! 幻想世界オンラインへ】
アナウンスが耳朶を打つと同時――”俺”は自身の頬や身体を触って接続を確認した。急な回線の切断だったので装備類のロストを心配したのだが……問題ないらしい。
「おかえりレリックさん。大丈夫?」
淡い青紫の毛先を曖昧に揺らした彼女が問いかける。そんな彼女、“シオン”へ向けて、俺は悔しさと共に肩を落とした。
「大丈夫……じゃない。おかげでエンディングムービー見逃した……」
「あー……。動画とかまだ挙がってませんっけ?」
「いや、レッド・ドラゴンを討伐したのは俺が最速だと思う……たぶん」
幻想世界オンラインの本式サービスが開始してから早3ヶ月。俺は寝る間も惜しみながらひたすらこのゲームに没頭してきた。それこそ学生という青春を犠牲に、全てを注ぎながら自身のキャラクターの研鑽に身を粉にしてきたのだ。
1ミリも無駄が生じないよう最適確のスキルへポイントを振り、激レアアイテムがドロップする難解なダンジョンや討伐を気が遠くなるくらい周回し、現時点で最強と謳われる最高峰の装備を揃えた上で、レッド・ドラゴンの討伐へ挑んだ。そして未だSNSや掲示板、どの攻略サイトにもレッド・ドラゴンの討伐情報や報告は無い。
つまりは――――。
「詰み。ですね」
「良いニューロン・ギアと回線使ってるのに事故だろコレ……」
俺はその場で崩れる。本当に最悪な気分だった。レッド・ドラゴンを討伐した英雄の凱旋エンディング。現時点での超最高難易度と謳われるだけあって、記念すべきエンディングの目撃者第一号となるはずだったのに。
「もう一周するとか……どうです?」
「いや、無理。あんなの人類が攻略できる難易度じゃない。というか絶対ソロを想定して作られてない。報酬もメインクエだから二週目以降はもらえないし」
「詰み。ですね」
「……最悪だ」
ガックシと首の角度が落ちる。シオンの言う通りだった。今回だって偶然、レッド・ドラゴンの挙動が鈍くなるバグで討伐が上手く行っただけで、もう一回やれと言われても二度とクリアできる気がしない。
この上ないくらい落ち込んでいると、
「じゃあ、じゃあ! 私が直ぐに追いついて、その時に一緒に視るのはどうですか!」
空のグラフィックよりも澄んだ藍色の眼を輝かせたシオンが言う。
因みにサービス開始当初から幻想世界オンラインを始めたという彼女のレベルは、まだ10である。そしてこのゲームは、他のゲームと比べて圧倒的にレベルが上がりにくい仕様。おまけに彼女の職業は、レベリングが一番難関と言われる遠距離攻撃専門の『アーチャー』なのだ。ついでにゲームは一日2時間という厳粛で厳格な門限付きである。
随分と先の長い話になる事この上ない。
「まぁ……そうだな。討伐したのは事実だし焦る必要はない、か」
「約束ですからね! 他の人と見てきたらダメですよ!」
シオンとはこれからもきっと長い付き合いになる。
年も近いし、何より話が合う。
だから……そう思っていたんだ。
数ヶ月後、このゲームを離れる事になるまでは――――。