08 先生のお使い
その日最後の授業が終わって帰り支度をしていると、担当していたコドラリス先生に声をかけられた。
「カレッタ嬢、また一つ頼まれてくれませんか」
この先生はまだ二十代の若手教師だけれど、短期間ながら王族の家庭教師を務めたという経歴がある有能な先生だ。
難しい経済学を低学年向けにかみ砕いて教えてくれる授業はとても面白く、端正な顔立ちと柔らかい物腰で、特に女生徒たちからは大人気だ。
そんなコドラリス先生は、その優しい気質のせいなのか、クラスで浮いているわたくしの様子がどうしても気になるらしい。
時折、何かのついでを装うようにして、最低限の接点を持とうとこうして声をかけてくださる。
先生は十二歳の少女相手と軽く見ているのかもしれないけれど、投げかけられる会話や用事はわたくし相手でなくても済むものばかりだ。
さすがに気遣われていることくらいは察することができる。察したのはつい最近だけれど。
気持ちは嬉しいので、いつも通り素直に手伝いに応じることにした。
お使いの内容は、先生の資料室に、授業で使った資料を置いてきてほしいというものだった。
教師にはそれぞれ個人の資料室が割り当てられている。資料室が集まっている資料室棟はこの教室から寮に帰る途中にあるので、帰りがてらに寄って行けば丁度よかった。
「資料室棟の一階を真っ直ぐ進んで、右側の奥から二番目の部屋です。ドアには私の名前が掛かっていますので、行けばわかると思います。すみませんね、すぐに出ないといけない会議があって……」
「構いませんわ。さっそく行ってまいります」
わたくしは折りたたまれた先生手描きの大判図表と本を二冊預かって、帰りの生徒でにぎわう廊下に出た。
「あら?」
廊下をしばらく歩くと、視界の先に見覚えのある背中を見つけたので、挨拶をしようと声をかけた。
「アローナさん!」
「ひぃっ!」
やや大げさに驚いて、アローナ嬢は兵士の訓練のようなキレのある動きでこちらを振り返った。
「カレッタ様! ご機嫌麗しゅうございます!」
「ええ、ごきげんよう。驚かせてしまったかしら」
「いえ、滅相もございません!」
アローナ嬢とはあれから何度か『遊んで』いる仲なのだけれど、緊張しているようでなかなか自然に接してもらえていない。プリステラ嬢とはすっかり仲良くなってくれたのに。ちょっと寂しい。
「あの、本日は……」
「ああ、ごめんなさい、今日は先生にお使いを頼まれてしまったの。また今度遊びましょうね」
「そっ、そうでしたか」
あからさまにほっとした顔をするアローナ嬢。彼女も今日は都合が悪かったのかもしれない。
「そういえば、プリステラさんは? 今日は一緒にいないのですわね」
「はい。彼女は、今日はマールー部の見学に行くと言って、すぐ帰りました」
「ああ、興味があると言っていましたわね。なるほど、ネオン子爵家ですものね。でもおひとりで大丈夫かしら」
「少し心配ですが、カレッタ様や私の指導で、距離感の取り方は随分改善してきましたし……それに、マールー部には顔見知りの親戚の先輩がいると言っていましたから」
「そう、それなら安心かしら。もしプリステラさんが嫌な思いをなさるようなら、わたくしが殴り込みにいきますわ。すぐに相談してくださいまし」
「いえ、それは……大丈夫だと思いますわ、マールー部ですもの」
「そうですわね、マールー部ですものね」
それでは、とあいさつと雑談を終えて、わたくしは改めて資料室棟へ向かって歩き出した。
資料室棟の入口にある守衛室に声をかけ、コドラリス先生の部屋の鍵を借りようとすると、帳簿を改めていた守衛が首を傾げながらこう言った。
「おや。今朝貸し出してから、まだ返していただいていませんね」
「あら? もう、先生ったら」
どうやら先生が鍵を持ったままらしい。こんなうっかりをするなんて意外だと思ったけれど、本当に急いでいて焦っていたのかもしれない。鍵の話などひとつもしていなかった。
わたくしもここへ来るまで鍵が必要だとは知らなかったので、単純な確認ミスだ。
このまま守衛室に資料を預けて帰ってもいいかもしれないけれど……せっかく許可をもらって資料室棟に入れる機会なのだから、少しでも中の様子を見ておきたかった。探検は楽しいものだ。
「でしたら、先生のお部屋まで行ってみますわ。鍵が開いたままかもしれませんし、確認してまいりますわ」
「助かります。少し暗くて、廊下に物も置いてありますから、足元にお気をつけて」
初めて踏み入れた資料室棟の廊下は、確かに薄暗くてひんやりとしていた。
長い廊下の両側には、模様入りの大きなすりガラスが嵌ったドアが等間隔に並んでいる。光源はそのドアを通して差し込んでくる弱々しい光だけだ。各資料室の中を通ってきた自然光だろう。
誰も居ないのかひっそりと静まり返っていて、わたくし自身が立てる物音以外は何も聞こえてこない。
なんだか肝試しのようでドキドキした。
「一階の、右側、奥から二番目……」
部屋のドアには各教員の名前の板が掛かっていた。知っている教員の名前もちらほらと見かける。
時々、ドアの周りの壁際に資料や道具が雑然と積まれている部屋もあった。教員の名前を記憶と照らし合わせて、性格が出ますわね、などと考えながら進んでいった。
目的のコドラリス先生の部屋の辺りは、廊下の中でもひときわ薄暗かった。
隣の一番奥の部屋は、中でカーテンでも閉まっているのか真っ暗。
そして廊下の向かいは他とは違う一枚板のドア。小さく開いていた隙間から奥を覗くと、どうやら上階に続く階段室のようだ。
歩けないほど暗くはないけれど、まるで洞窟の奥にでもいるような気分になってきた。
コドラリス先生の名前を再度確認し、念のためにガラス窓をノックする。
もちろん何の反応もなかったので、そのままドアに手をかけた。抵抗もなく、かちゃりとノブが回る。開いている。
「失礼いたします……」
なんとなく小さくなった声で囁きながら、静かにドアを押し開けた。
部屋はさほど広くない。空気に乗って流れてくる書物のにおいを感じた。
正面に開いた窓から差し込む日光が眩しくて一瞬だけ目がくらむ。
明るさに目が慣れて、ようやく部屋の詳細が見えてくる。
壁を覆う資料棚。中央の広い作業机に山と積まれた書類と授業の道具類。
そして部屋の奥、窓際の書き物机が見えてきて。
「…………っっ!」
そこで悲鳴を上げて飛び上がったりしなかった自分を、わたくしは褒めてやりたい。
ものすごく驚いた。
誰も居ないと思っていた部屋で、机に突っ伏して、人が寝ていたのだ。