56 勇敢な戦い
一人の姿が見えないだけで、リッドの警戒心は跳ね上がった。
相手がルーデンス殿下一人であれば、地面をさまようその影の位置がすぐわかるところだけれど、わたくしがそれをさせない。
手合わせの時のような近距離戦に持ち込み、魔法を使われたらさっきと同じ新技で躱す。
全身が痛みで悲鳴を上げるけれど、必死に何度も剣に手を伸ばした。
大真面目に諦めないわたくしの様子に、リッドは徐々に戸惑いを覚えてきたようだった。
「何故そこまでする? そもそもあなたが命を懸ける必要はない。死ぬのが奴の役割だ」
殺す気で剣を振るいながらリッドは訊いてきた。
「恐ろしくないのか?」
「恐ろしいですわ!」
剣を弾きながら、わたくしは怒鳴り返した。
「ご覧なさい、わたくしさっきから半泣きですのよ!」
「では何故!」
「ルディ様が好きだから!」
するりと飛び出したその言葉に、魔法を練っていたリッドの目が見開かれた。
「守りたいから! 失いたくないから! だからわたくしも諦めない!」
振るわれる剣を必死で捌き躱しながら、無我夢中で叫んだ。
「あの方の未来を奪う物語があるというのなら、このわたくしが、そのくだらない物語からあの方をぶん奪って差し上げますわ!」
わたくしの魂の叫びを聞いたリッドは、一瞬、ぱかりと間抜けに口を開いた。
その瞬間、視界の端にルーデンス殿下が素早く姿を現した。
少し離れた位置だけれど、何か新しく仕掛けようとしているかのようにリッドに向かって真っすぐに二本指をさす。
先ほどの作戦会議を聞いていたリッドは反射的に全ての警戒をルーデンス殿下に向け、魔法剣を構え――。
わたくしの手が射程に入るのを許した。
この技の射程はなんと、ハンマー一本分の長さにも満たない。
昔はもっと遠くから使えたのだけれど、ハンマーでばかり遊んでいたら、いつの間にかこんなに使い物にならなくなってしまっていた。普段の浮遊魔法や衝撃魔法とはちょっと感覚が違うのだ。
せっかく家臣のお墨付きをもらった技なのに。これからは真面目に練習しよう。
とにかくわたくしは一瞬で魔力をリッドの手元と剣に絡みつかせると、その固く握ったこぶしから、彼の剣を思い切り全力で、引っこ抜いた。
「な……!」
ルーデンス殿下の後方、草むらの中まで弧を描いて吹っ飛んでいった剣を、リッドは何が起きたのか理解できないという顔で眺めていた。
たぶんわたくしが必死に手を伸ばすのを、駄目もとながらも素手で剣をはぎ取るつもりでいると思っていたのだろう。
さっきの作戦会議と、殿下のこれ見よがしな動きは陽動だ。
自分の影にしか潜れないほど影魔法がろくに使えず、腕力もない殿下がリッドから剣を奪うことなどできないとわたくしは知っているし、わたくしのとんでもなく射程が短い『剣引っこ抜き魔法』の存在を殿下は知っていた。ロージーによくネタにされ笑われていたので。
最初の突撃でそれを使いたいことも見せてアピールしていた。
殿下がわたくしを信じて任せてくれたから、この作戦は成功したのだ。
予想外の不意打ちに動きが止まったリッドを逃さず、集中を高めていた殿下の影魔法がずぷりとリッドの両足を捉えた。
リッドは我に返るけれど、もう抜け出すことはできない。
その時、沈んでいくリッドを目の前で見て気が緩んでいたわたくしは、致命的なミスをした。
急に掴みかかってきたリッドの手から逃れることができなかったのだ。
「あぐっ……」
悲鳴を上げる暇もなく、大きな手で喉を鷲掴みにされた。
驚きと苦しさで思わず暴れようとするけれど、男性騎士の太い指にぐっと力を込められ、このまま首をへし折られるのではと、恐怖に体がすくんで動けなくなった。
魔力ももうすっからかんで、ハンマーもぽとりと地面に落としてしまう。
酸欠の魚のように必死で息を繋いでいると、沈み続けていたリッドの体がすねの辺りで停止した。
空気が、おののいた。
背後から……もし、深海の暗黒帯に王がいるのならこのような暴圧ではないか、と思わせるような重々しい声が響いた。
「はなせ」
数万年かけても光さえ届かない氷河の奥底のような、凍てついた魔力が辺りを満たして背筋を灼いた。
「そのてを、はなせ、リッド」
聞く者にすべてを諦めさせてしまえるような迫力を抱えた、短い言葉。
正面にあるリッドの顔を見上げると、リッドは見開いた目で殿下のほうを見つめながら、口の端を持ち上げて笑っていた。
初めて見るその笑顔は青ざめて歪に引きつり、冷や汗に濡れ、唇は震えている。
震える唇の隙間から、感嘆のような呟きが漏れた。
「はっ……なるほど、それが『影の魔王』か」
心配になってわたくしも後ろを振り向こうとするけれど、また指に力を込められたので断念する。
わたくしに視線をよこさないまま、リッドは小声で「あなたはあれを見ないほうがいい」と囁いた。余計気になりますわ。
そのまま睨み合いが続いたかと思うと、急にリッドが苦痛の呻き声を上げた。
その足元を見れば、片方のすねに纏わりつく影がとぐろを巻くように蠢いている。
リッドの脚の肉が不自然に歪められているのが分かった。……圧倒的な力で今にもねじ切ろうとしている。
「……っめ、やめ、っディさま……!」
気付いたわたくしは全身をバタバタさせて暴れ、びくともしないリッドの手の中でがむしゃらにもがいてなんとか制止の声を上げようとした。
そんな残酷なことを彼にさせるわけにはいかない。
彼にそんな魔法の使い方をさせたくない。させてはいけない。
わたくしの反応で思いとどまってくれたのか、その攻撃はすぐにやんだ。
「……はは。何故やめる。貴様には簡単なはずだぞ」
けれども、捨て鉢なリッドは優しい殿下をさらに煽ろうとする。
「このまま俺がカレッタ嬢を殺めれば、貴様は完全に『影の魔王』となるのだろう。それで本来の筋書き通りになる。彼女を危険な目には合わせたくなかったが、サフィエンス殿下と協力して必ず貴様を討ち取るだろう。それが物語の結末だ。その踏み台となるならば、俺はここで貴様に殺されても構わない」
また首が締まり、情けない声が出る。抗議も文句も言えなかった。
背後の魔力が再び暴れ狂う気配がしたけれど、すぐに落ち着きを取り戻す。
「カレッタは殺させない。……僕は魔王なんかにならない」
無理やり抑揚を抑え込んだような声で、ルーデンス殿下はリッドに問いかけた。
「リッド。何故そこまでして彼女の物語にこだわるんだ。……君の、本当の望みは何なんだ」
リッドは自分の死を確信し、ある意味冷静ではなかった。そんな状態だったからか、リッドは笑い慣れない歪な笑顔を浮かべたまま、素直にルーデンス殿下の問いに答えた。
「彼女は、母と同じなのだ」
「母って……キリー将軍と?」
キリー・クラウン将軍は有名人だった。
史上例を見ない雷属性の体得者。
その一撃必殺の強力な属性と、魔法への飽くなき探求心を持ち、さらに剣技の才にも恵まれていた彼女は世紀の実力者となった。
実力を認められ武門であるクラウン侯爵家に嫁入りした彼女は、やがて一軍を率いる将となり、戦乱の時代を駆け巡った。
けれどその華々しい生涯は、戦乱の末期に儚く散ることになる。原因は、現国王陛下の『やらかし』だ。
この国でいう戦乱というのは、付近の大国同士の長い戦乱に否応なしに巻き込まれていたものだった。
直接的にどこかの国と対立していたわけではない。政治取引や外交交渉で回避できる戦闘もたくさんあった。
その中で、当時ルーデンス殿下の誕生絡みで信用を失い、数年経ってすっかり意固地になっていた陛下の失策により、回避できなくなった戦闘。
その戦闘で民間人や軍の仲間を守るため、命を落としたのがキリー将軍だった。そういう状況に追い込まれてしまったのだ。
その犠牲を重く受け止めた国政を担う貴族たちの尽力で、国内での戦闘はそれが最後となり、その後国家間の情勢が改善したためこの国の戦乱の時代は終わった。
勇猛な将と称えられるキリー将軍と、テトラ嬢の姿はどうも結びつかなかった。
「まだ幼かった俺は偶然が重なり、母の今際のきわに立ち会った。今も脳裏に焼き付いている」
リッドはどこか怒りを滲ませながら言った。
「俺も兄たちも、恐れを知らず勇敢に兵を導き民を守る母に憧れていた。母のような騎士になることを夢見ていた。だがあの日、致命傷を負って砦に担ぎ込まれてきた母は、自分の死を恐れ身も世もなく泣きじゃくっていた」
最後まで勇敢に戦った、という伝説だけではわからない、英雄の本当の最期が息子の口から語られる。
「声まではっきりと思い出せる。母は後悔ばかり叫んでいた。『死にたくない』『本当は戦いたくなんかなった』『ただ魔法が好きなだけだったのに』『勇敢なふりをするのが辛くてたまらなかった』『怖いのに逃げられなかった』『将軍なんてやりたくなかった』『子供たちともっと遊びたかった』『我慢すれば幸せになれると信じていたのに』……そんな言葉を、母は声を失う時まで繰り返し続けた。そしてその合間、ひと時正気の光が戻った瞬間、母は俺に言ったのだ。『あなたたちだけが私の光、私の真実だった』と」
キリーという一人の女性の壮絶な最期に、ルーデンス殿下もわたくしも言葉を失った。
民と家族のために自分を偽り、勇猛な将軍の姿を苦しみながらも演じ続けたお母様。
そして、成長したリッドの前に現れたのが、本当の自分を偽り殺して幸せな未来を妄信する少女。
そんな少女を、このリッドが放っておけるはずがなかったのだ。
「テトラは母に似ている。俺は、俺だけは、テトラの真実でいてやりたいのだ」
ちょうどその時、風が吹き、霧の晴れ間が見えた。
差し込んだ夏の日差しが、俯いたリッドの笑顔に影を被せた。




