50 会いに行こう
振り返って殿下に向き直ると、殿下は思いのほか真面目な表情をしていた。
「なんでしょうか」
「さっき、何か考えてたよね」
「まあ、わたくし、普段だって何も考えていないわけではありませんわ」
「またそうやって誤魔化さない。さて、何を企んでたの?」
ぴしゃりと言われて、わたくしは口ごもった。
殿下は心なしか肩を落としてわたくしに言った。
「じゃあ当ててみるよ。君、やっぱりまだ、テトラ嬢と話をしたいんだよね?」
「ど、どうして分かりましたの?」
「君は自分でやりたいと決めたことは、躊躇いなくやる人だからね。リッドと約束したから何もせずにいるけど、まだ諦めてないんでしょ」
図星だった。さすがにルーデンス殿下には、わたくしの性格はお見通しらしい。
「どうして君がそこまで彼女にこだわるのかは……まだ、僕には教えてくれない?」
殿下は少し残念そうな表情を浮かべて尋ねてきた。
わたくしは申し訳なさで胸が詰まる。
「お教えしようにも、わたくし自身、どう言葉にしていいか分からないのです」
殿下の恋路を応援したいという理由も本心だけれど、それが全てではなかった。
彼女が前世の記憶を持つと判明する前から、わたくしは彼女のことが気になって仕方がなかった。
不幸な境遇にめげず、素直に前向きに努力する、応援したくなる少女。
遠い昔のこと過ぎてはっきりと思い出せない。
わたくしが新しい日々を過ごす中で、常識も何もかも違う世界の古い記憶を、いつまでもずっと正確なまま覚えていられるわけでもない。
何度も開き続けた本が、いつの間にかだんだんと文字が掠れて、手垢やシミが付いて、縫製が甘いページが抜け落ちてしまうように。
人間として生きているなら、これは仕方のないことだ。
けれどそのいつかどこかで『私』は、確かに『彼女』に会ったことがある。
世界を隔てる壁越しに彼女に出会い、一緒に悩み、自分を重ね、そして憧れたことがある。
遠い日に別れたまま忘れかけていた友人と再会したような、確かな懐かしさだけが胸に残っていた。
この世界は現実であって、物語でもある。
彼女は物語の主人公。この世界にとって完璧な存在。
そして考えるのだ。もしも『私』がその役割に押し込められていたとしたら?
『私』は酸いも甘いも経験して大往生まで生きたし、また楽しく生きたいだけの図太い性格だから、もし主人公だったとしても気にせず自分の好きなように生きるのだろう。
現に悪役令嬢の身でやりたい放題だ。
けれど、今の彼女はこの世界で忠実に主人公を演じようとしている。
それも、はっきりと前世の記憶を持って。
よしんば彼女の態度が荒いだけで性格は善良だったとしても、本当の自分を四六時中隠して、生涯隠し通す覚悟で第一王子殿下と付き合うなど、相当な決意と強い意志が必要だ。
少なくともわたくしには真似できそうにない。途中で音を上げて彼から離れたのがわたくしなのだから。
ルーデンス殿下やリッドが語るには、彼女の目的は幸せになることだという。
しかし、今のまま第一王子殿下を攻略したとして……彼女は、本当に幸せになれるのだろうか?
本当の自分を永遠に、深く深く沈めたままで。
自ら望んで『恋愛ゲーム』をしている彼女が、わたくしには辛そうに思えてならなかった。
もちろんこれは外野の想像だ。彼女にとって演技なんて苦でも何でもないかもしれない。
ただのおせっかい。ただの好奇心。最低な動機。
それでも、彼女がそこまでして『幸せになる物語』に執着する理由に、触れてみたくなったのだ。
中途半端な記憶しかないわたくしでも、彼女と同じ目線でこの世界を見ることは、まだできる。
そうすれば、何かを、彼女と分かち合えるかもしれないから。
長く考えていたわたくしの言葉の続きを、ルーデンス殿下は辛抱強く待っている。
結局これしか浮かばなかった、我ながら身勝手だと思う言葉を、わたくしは自嘲しながら自分の答えとした。
「ただ……彼女、面白くなさそうなんですもの」
そんなわたくしの言葉に呆れる様子もなく、殿下はほんの少し目を丸くすると、同意して微笑んだ。
あの柔らかい瞳で。
「そうだね。僕もそう思う」
今更だけれど、どうしてこの方はこんなに優しいのだろうか。
この優しさに触れるたび幸せで、胸が苦しくてたまらなくなる。
わたくしがいくら自分勝手にめちゃくちゃな言動を見せても、この方はいつも真っ直ぐに受け止めてくださるのだ。君らしいねと笑って。
彼の親友でいられることは、彼を好きになったことは、間違いなくわたくしの誇りだ。
ルーデンス殿下は表情を引き締めて言った。
「カレッタ。テトラ嬢に会いに行こう」
「でも、リッド様との約束は」
「さっきも少し触れたけど、リッドは黙っていても今の状況になることを予測していたよ。それに彼が僕らを脅したのは、たぶん、時間稼ぎだ」
「時間稼ぎ?」
わたくしは首を傾げた。何の時間を稼ぐ必要があるというのだろうか?
ほんの少し気まずそうにしながら、ルーデンス殿下は説明した。
「のぞき見していた時、一度だけリッドとテトラ嬢が会話しているところに出くわすことができたんだ。短い会話だったけどね。その会話で、彼女が気になることを言っていた」
苦い表情を浮かべて、殿下は彼女の言葉をなぞる。
「『あとは学年末夜会で悪役令嬢とラスボスをぶっ倒せば終わり』。……これ、僕たちのことだよね?」
確かに『悪役』とは物語の中で討たれるものだ。その危険を指摘され、わたくしも息を飲んだ。
「リッドは物語が終わる時を待っているんだ。このままリッドが彼女の物語の通りに進めようとしているのなら、その学年末夜会の日、あるいはその前までに『悪役』である僕たちは……分からないけど、取り返しのつかないことになる可能性がある。今ラミレージ家に圧力が掛かっているのも『終わり』が近い影響なのかもしれない」
最近、時々感じることがあった大きな流れのようなものを思い出す。
自然にそうなっているのか、誰かの作為があるのかは分からないけれど、リッドなら間違いなくその流れの方向へ持っていこうとしているだろう。
悪役たちの破滅、そして彼女の幸せな結末の方向へ。
「学年末夜会……」
これから学年末考査の期間に入り、夏至の日に試験が終了。その翌週に行われるのが学年末夜会だ。
この夜会は一年の中でも特別な夜会で、卒業する六年生の門出を祝う最も盛大な夜会だ。
この日ばかりは学年を問わず全校生徒が参加する。
卒業生の中には王宮の重要な役職に就く者も多くいるので、毎年この夜会には国王陛下が自ら参列し、彼らの任命式を行い、卒業と成年貴族の仲間入りを祝福するのだ。
任命式は簡易的なもので陛下による学園向けのパフォーマンスのような意味合いが大きいけれど、学生も先生方もその晴れ舞台を毎年楽しみにしている。
その学年末夜会が、物語の最終幕。
殿下は冷静に続けた。
「でも、リッドが僕らを牽制したということは、逆を言えば、今僕らが動けば状況を変えられるかもしれないということだ。テトラ嬢に接触して、少しでも彼女の気持ちを動かすことができたなら、物語の展開を変えられるかもしれない」
お兄様は大人しくしているようにとおっしゃっていた。
けれど、このまま何もせずにテトラ嬢の物語が終わるのを待つのは……嫌だと思った。
「会いに行こう。もちろん、僕も連れて行ってくれるよね」
そっと差し出された頼もしいその手を、わたくしはしっかりと握り返した。




