挿話 リッドの選択肢
「うっぜぇ……クソうっぜぇ……」
俺は、傍らの花壇の縁に座る彼女を黙って見下ろしていた。
彼女の手には、筆記用のインクで真っ黒に汚された教科書が握られている。
怨嗟の呟きをその小さな唇から吐き出し、彼女はその所業を睨みつけていた。
制服ドレスの下の脚は表から見ても分かるほど品がなく開かれており、片膝は苛立ちを発散させようとしているのか、一定の速度でゆさゆさと上下していた。
「人が黙ってりゃいい気になって、下らねーこといつまでも繰り返しやがって。サルかよ。あー草。草草草ぁ!」
使い物にならなくなった教科書を、彼女は地面に叩き付けた。
『草』というのは彼女の口癖のようだった。
以前俺は一度だけその意味を問うたことがあるが、彼女が答えた「面白くてめっちゃ笑えるって意味」で使われている場面に出くわしたことがない。
そもそもこの姿の彼女が、冷笑以外で純粋に笑っているところなど俺は見たことがなかった。
「嫌ならいつでも対処してやると言っているんだがな」
「ハァ? ざけんな。せっかくシナリオ通りになってきてんのに。テメェこれ以上ややこしくすんじゃねーよ」
気遣ってそう言うが、返ってくるのは半眼の鋭い睨みだ。
彼女は根本的に、自分以外誰も信用していない。
……いや、あるいは、自分自身すらも。
「確かに君の言う通り、カレッタ嬢が『悪役』になるようなうわさが立ってきたな」
「アイツらが素直に大人しくしてりゃ、きっちり強制力が働くんだろうよ。テメェが刺した釘が効いたってのがシャクだけど」
思案するような顔の彼女から、また新しい『強制力』なる単語が飛び出した。しかし今詳しく訊くことは避ける。
彼女は詮索されるのを嫌う。情報を引き出すのも彼女の機嫌次第だ。
ルー博士の正体にも最初から勘付いていたのに、俺が自分で答えにたどり着くまでは黙っていた。俺にとっては彼女がルー博士を嫌っていたのも重要なヒントになったが。
俺は新しい単語の意味よりも、現状の把握を優先して尋ねてみる。
「しかし、その『原作』とやらと、現在の状況はそこまで違っているのか」
「ちげーよ。もはや別ゲー。言っとくけどテメェも全然ちげーからな」
気が向いたのか、今日は『原作』の話に乗ってくるようだ。俺は慎重に耳を傾ける。
「悪役令嬢が丸くなってるせいで、放課後の呼び出しリンチイベントが起きなくて、テメェとのフラグ立ってねぇからな。それもこれも全部あのラスボス野郎が狂わせやがったんだ。アイツが出張ったせいでテメェには本性バレるし。あの野郎、ラストのイベントで倒されるだけのお飾りラスボスのくせに……」
ラスボスというのは、物語の最後に倒され大団円を迎えるために用意された敵のことらしい。
彼女が言うには、この世界のラスボスは第二王子ルーデンス。
だが、彼女の前に現れたあの体には、物語本来のものとは異なる魂が宿っているのだという。
彼女と同じ世界から来た魂が宿り、本来の物語を捻じ曲げているというのだ。
命を終えた魂が、別の体を新しく得て生まれ変わる。
信じがたい話だが、彼女がもと居た世界では『転生』と呼ばれ、一定数の人間に信じられている死生観らしい。
死んだ魂は自然に還り、自然の神々と子孫たちを結びつける存在となるとされているこの世界の一般的な信仰とはかなりずれがある。
まるで怪しい新興の秘教が唱えそうな死生観だが、彼女が心からそう信じているのなら、何も言うまい。
「いつどこでオトしたんだか、悪役令嬢を無害に変えやがったせいで、入学すぐに引きこもりになってるはずのお義姉様は元気すぎてウゼェし。絶海の貴公子なんか重症のシスコンになってるじゃねーか! しかもあの野郎が前世チートで妙なゲーム作りまくってるせいで、賭博ギャングの元締めやってるはずの不良合法ショタは、完全にただのお子様になってるし……クソ、ゲーム自体は面白いのが余計ムカつく」
投げた教科書をつま先で何度も踏みつけて、彼女は怒りを露わにする。
シスコンは妹のろけのことだろうか。ショタはよく分からない。不良なのに合法? 違法もあるのか?
「どーせあの野郎、先生との関係も良好なんだろ。『原作』じゃ病んでく第二王子を見てらんねーって鬱ってるとこからフラグ立つキャラなのに。なんで毎日あんな生き生きしてんだよあの先公」
「先生……コドラリス先生か? 彼も『原作』では相手役なのか」
かの教師が第二王子に情を移し、個人的に庇護している事実は調べて把握していたが、物語の中ではそんな可能性もあったのかと俺は意外に思う。
「そーそー、けっこうバラエティ富んでるっしょ。先生ルートならわりと平和な部類で終わるんだけど、フラグ立たねぇし。今『原作』通りで残ってんのはサフィだけ。でもさ、推しキャラだけは無事ってもうコレ運命じゃん? だからアタシも頑張って、裏表なく素直で一生懸命、支えてくれる癒し系令嬢を演じてんだからね。サフィのルートはやりこんでるから楽勝」
彼女が言う『原作』とは、読み手の選択によって展開が分岐する物語で、男との恋愛を疑似体験し楽しむというゲームの類らしい。
恋愛対象の男たちにはそれぞれ好みがあって、彼女の普段の姿は、サフィエンスに好かれるために完璧に演じきっているものだ。
それは性格の演技だけに限らず、学業の成績や魔法の技術まで、全て彼女の努力の賜物だった。
サフィエンスは彼女の本性には全く気が付いていない。
俺もサフィエンスもその物語の恋愛対象だと聞いていたが、他にも何人か居るようだ。しかも相手によって筋書きは大きく変わるらしい。
「本来の魂ならば、第二王子殿下も相手役になりえたのか?」
「ムリムリ。アイツは攻略不能キャラ。最初から最後死ぬまで悪役令嬢一筋のヤンデレ」
片手を翻して否定しながら、彼女は哀れなラスボスの顛末を語る。
「ヤンデレってのは、病的に執着してるってこと。本当だったらね、実力もなくて性格も悪くてハブられてる悪役令嬢に、勝手に自分を重ねて共感して、一年の頃からストーカー……こっそり付きまとってんの。んで、ヒロインが転入してきて悪役令嬢とやりあうようになると、裏から悪役令嬢を助け始める。最終的に公爵家も巻き込んで二人は共闘関係になるんだけど……」
記憶を掘り起こしているのか一度言葉を切って、彼女は虚空を見上げた。
「このままサフィルートで行けば、悪役令嬢は全校生徒の前で断罪されて神殿送りの判決になるんだけど、当の悪役令嬢は憎しみマッハになってて、その場で毒飲んで自殺する」
物語とはいえ、顔見知りの令嬢がそんな死を迎えると聞いて、俺は眉を寄せてしまった。そんな俺の内心を感じ取ったのか、彼女はにやりと冷たい笑みを浮かべる。
「でね、これがなかなかエモいのよ。悪役令嬢は、自分が第二王子に病的に愛されてるのを知ってた。自分に力がないからって、最後に特大の爆弾を仕掛けて逝ったってわけ。つまり彼女が死んだことで……第二王子がキレて、王国を滅ぼそうと影魔法を暴走させて虐殺を始めんの。作中では『影の魔王』とか呼んでたな」
国王の言葉を思い出した。
違う魂だという話だし、現実の第二王子の人となりをそこまで知っているわけでもないが、脳裏にその姿を思い浮かべると何故か直感的に思ってしまう。やりかねない、と。
「まー選択肢間違わなきゃ、サフィがカッコよくさっさと倒すんだけど」
「……殿下が殺すのか」
「ううん、トドメは刺さない。でも自分で勝手に死ぬ。死ななきゃ救われねーヤツなんだわ」
無感動に吐き捨てる言葉とは裏腹に、彼女の目には感傷が浮かんでいるように見えた。
ここまで『原作』の詳細を聞けたのは初めてだったため、俺は思案していた。
彼女の言う筋書き通りに事が進めば、物語はもっと平和的に完結すると考えていたのだが、そうもいかないらしい。
あくまで物語。登場人物の性格も考え方も現実とは違う。だが『悪役』たちの扱いには慎重になるべきと考えたほうが良さそうだ。
俺からは彼らの関係性の全貌はまだ把握できていなかったが、これまでの情報から確かな絆があることが窺い知れる。
少なくともカレッタは第二王子を親しい友人と認めているし、第二王子に宿る魂がカレッタの運命を変えようと長年働きかけているというのなら、その感情はまさに『原作』に劣らぬ執着と捉えていいだろう。
彼女は主に第二王子を警戒していたが、俺からすればカレッタも予測不能の存在だ。
もしも双方の内どちらかが不用意に欠ければ、残されたもう片方が『原作』のように悲劇を撒き散らす存在にならないとは言い切れない。
だが、この情報は彼らを警戒する材料であると同時に、有効な弱点にもなりうる。
彼女の目指す『結末』のため、やがて彼らの排除が必要になった時、利用できるかもしれない。
「これは、今後の話だが。やはりその筋書き通りにはいかない可能性が高い」
「ハァ? なんで」
「陛下が第二王子殿下を排除なさろうとしている。計画通りに進めば、先に消えるのはカレッタ嬢ではなく第二王子殿下だ。君が以前言っていた物語の最終幕、学年末夜会を待たずしてな」
俺は彼女の秘密を吹聴しないが、彼女もまた同じだ。『主人公』が知りえない情報は、普段の彼女も決して他人に語ることはない。例え知っていることでも知らないように振る舞う。彼女の演技は完璧だ。
彼女は片手で乱雑に髪を乱す。
「くそ、今度は王様までかき回してくんのかよ……マジめんどくせー」
「安心しろ。それが無事に済めば、もう『結末』は覆らない。確実に進めるために俺自身も動けるようにしておこう」
あまり国王の計画に積極的に関わるつもりはなかったが、『悪役』の危険性を聞いて方針を変えることにする。
彼女がもの言いたげな瞳で俺を見上げてくるので、俺も黙って見返した。
しばらく黙って見つめあっていたが、やがて彼女は忌々しそうに表情を歪めて俺に尋ねた。
「マジでテメェ……何がしてぇの?」
「何、とは」
「なんでアタシみたいな頭おかしー女の言うこと信じて、手伝ってんのかって訊いてんの。冬至祭でサフィの行き先教えたのもテメェだろうが。アイツの親衛騎士のくせに」
「最初に言ったはずだ。俺は自分のために君に協力している」
「テメェに何の得もねーだろ」
「実利ではない。……信念のようなものだ」
「ワケわかんねぇ。気持ち悪ぃヤツ……」
彼女は心の底から不快そうな顔をして、ぼろ屑になった教科書を蹴飛ばした。
どう思われようと構わない。この先彼女がどんな選択をしようとも。
ただ俺は知っている。彼女が欠片もサフィエンスを愛していないことを。
本当の自分を殺し、完璧な偽りを演じ続ける彼女を。
物語の『結末』だけが唯一の幸福だと信じ渇望する彼女を。
その辛労が耐えがたく、時折こうして俺と話しにやってくる彼女を。
俺だけが彼女の真実と苦悩を知っている。
その事実にいつしか暗い優越感が生まれていることに、俺はもう気が付いていた。
俺だけは彼女をありのままに受け入れ、受け止める存在になりたかった。
きっとそれが、キリーの息子としての俺の使命だからだ。




