32 契約
「…………えっと、今なんて?」
素で戸惑った声色で訊き返してくるルーデンス殿下。分かるまで何度でも言って差し上げよう。
「わたくしと『契約結婚』ですわ、ルディ様」
「えっと、君と、誰が?」
「わたくしと、あなたが」
「『契約結婚』?」
「はい。『契約結婚』」
話を理解した殿下は、まな板でたった今絞められた魚のように呆けていた。目の焦点も合っていない。
そのやり取りに、お兄様は必死で笑いをかみ殺していた。
「カレッタ。だからそこは普通に『結婚』と言って差し上げればいいだけだろう。どうしてそう、ややこしい言い方をするんだ」
「いいえ! これは大事なことなんですのよお兄様!」
睨みつけて反論するけれど、お兄様は何が面白いのか笑うばかりだ。
わたくしは呆けたままでいるルーデンス殿下にずいと身を乗り出した。
「利点をご説明しますわ。まず一つ。公爵家は『ルー博士』の事業に興味津々ですの。ルディ様のゲーム制作活動を本格的に事業化し、全面的に支援いたしますわ。先生の家で肩身狭く細々と商売をするより、ずっと大きなことができますわ」
説明は耳に入っているようで、殿下の見開いた目に光が灯る。
「二つ目。『ルーデンス殿下』の地位回復。公爵家には、分家用に保持している侯爵位がありますわ。わたくしの伴侶として、侯爵として、堂々と社交界に顔を出すことができます。もちろんラミレージ公爵家の分家ですから、王家だって簡単に手は出せませんわ」
不安そうにお兄様を見やる殿下に、お兄様は頼もしく頷いて見せた。
「そして三つ目。もちろん、け、『結婚』ですから、血を繋ぎ残すことも可能です」
さすがにちょっと照れてつっかえながら言うと、殿下の喉の奥からゼヒュッ、となかなか聞かないような息を飲む音が響いた。
「将来的には公爵家が吸収することになりますが、王族との婚姻は過去に何度もある家です。慣れていますのでどうかご安心を。そしてこれは『契約結婚』なので……ルディ様には『そうしない自由』も補償いたします」
「……そうしない自由?」
「わたくしとの婚姻は書類上だけのこと。例えば、他にお心を寄せる方がおいでなら……わたくしは耳目を閉ざし黙しておりますわ」
一気に畳みかけてしまったせいか、殿下の顔色がよくわからないことになってしまった。
多分、あまりの混乱に途方に暮れているのだと思う。親友にいきなり結婚しようなどと言われたら、誰だってそうなるだろう。
わたくしだってもうやけっぱちで、恥ずかしいのか嬉しいのか悲しいのか自分でも分からない。
けれど、冬休み中ずっと考えて、ルーデンス殿下の未来を繋ぐために、わたくしにできることとして出した結論がこれだった。
素直にテトラ嬢と縁付けて差し上げることができればよかったのだけれど、彼を王家の圧力から名実ともに保護する後ろ盾がどうしても必要で、ネオン子爵家にその役割は難しい。
これは、恋する彼に恋をしたわたくしにできうる限りの、いちばん卑怯で最低な作戦だった。
お兄様を見ると、やれやれと小さく呟きながらこめかみを押さえていた。
やがて、殿下の口から絞り出すような問いかけが漏れ出した。
「えっと、あの……どうして?」
「親友だからですわ」
用意していた答えを淀みなく答える。
「ルディ様の状況には、以前から腹を据えかねておりましたの。それにわたくしとしても、第一王子殿下の伴侶というのは荷が重すぎると常々思っておりました。親友のためにできることと、わたくしの将来の安寧を考えた結果ですわ」
何一つ嘘ではない。隠している気持ちはあるけれど。
わたくしの言葉で思い出した様子で、殿下は慌てて訊いてきた。
「そ、そうだよ、カレッタは第一王子殿下と婚約してたじゃないか。それはどうするの?」
「そんなもの破棄ですわ破棄」
「えぇ……」
「カレッタ、さすがに雑すぎるだろう」
戸惑いを隠せない殿下を見かねて、お兄様が加わって言った。
「これは我が家だからできる選択です。現状、私は第一王子殿下の補佐官となっていますので、妹の立場が変わっても政治的な均衡を保つことは可能です」
そもそもルーデンス殿下にはその血以外ひとかけらの権力もないので、こちらがルーデンス殿下を囲い込んで第一王子殿下への恭順を示し続けていれば、王家は安全に不安因子を飼い慣らすことができる。
王家が恐れているのは冷遇に不満を持った第二王子の謀反という筋書きくらいだろうから、公爵家がそれをさせないと示せばいいわけだ。
「元より、父も我ら兄妹をお互いの保険として考えていました。どちらかが他の利を得る可能性があるとなれば、方向転換も予定のうちです。むしろ、あなた様の身柄を高位貴族として引き受けるとなれば、王家も体面を保つことができ、新たな恩を売ることもできましょう。それに」
お兄様はそこで苦々しい表情を浮かべこぶしを握り締めた。
「個人的、いえ父も同意見ですが、感情としてはサフィエンス殿下に妹をやるのは不服でなりませんでした。ルーデンス殿下はこんなにも簡単にカレッタの笑顔を引き出してしまうというのに、あのお方はカレッタをほったらかしておくばかりで、この子の可愛さを何一つ分かっていない! せっかく兄であるこの俺がカレッタの可愛さを日夜全力でお教えしようと張り切っていたのに!」
「……わたくしが放置されていた原因の一端はお兄様では……?」
「ああ、知識なしのところで熱烈な愛好家からおすすめされると逆に引いちゃうってやつ……」
ルーデンス殿下が同情のまなざしを向けてきた。同情するならあなたのお兄様と足して二で割ってくださいませ。
「まあ、可能とはいえ、非常に難しい舵取りが必要な案件であることは確かです。これは父と私の仕事になりますが、一歩誤れば謀反を疑われかねず、慎重な根回しを要します」
さっと切り替えたお兄様は説明を続けた。
余計な波風を立てないよう、いきなり王家と交渉する前に、派閥やそれ以外の影響力を持つ家にも話を通し、公爵家の意思を周知する手間と時間が必要だった。
「我々の目的はあなた様と我が妹の縁を繋ぐことのみです。しかし万一、下手な勘繰りを許せば面倒なことになりますからな。ですから時が満ちるまでは絶対に外部へは漏らさず、水面下で準備を進めることになります」
重大なリスクの説明も終えたところで、お兄様は重ねて尋ねた。
「他に、疑問点や懸念はございますか?」
「えっと、その、まだ飲み込み切れてなくて……」
ゆるゆると頭を振りながら、殿下は考えを整理するように言った。
「政治的な部分は、分かりました。ただ、もし僕がそれに頷いたら……第一王子殿下はどう思うか……それに、何より」
殿下が、じっとわたくしのほうを見つめてきた。先ほどまで悪かった顔色が戻って、またじわじわと頬が赤くなってきている。
「君は、カレッタは、本当に僕なんかが相手でいいの? 君の利点はあるの?」
わたくしを想ってくれる言葉に思わずきゅんと跳ねる心臓。それを押さえつけて顔を逸らし、できるだけそっけなく答える。彼の重荷になることだけは避けたかった。
最初から結婚に夢など見ていない、政治の道具になることを受け入れた貴族の娘のイメージで返事をする。
「どうせ結婚するのなら、気の合うルディ様のほうがいい。それが全てですわ」
それを聞いた殿下は、何故かとても切なそうな声を出した。
「……やっぱり、君は、まだ……」
……ん?
ちょっとよく分からない反応をされたので殿下の様子を窺おうとするも、俯いてしまっていて表情がはっきりと読めない。
次に顔を上げた時、ルーデンス殿下の様子は決意に満ちていた。




