30 やっと気が付いた
夜会のためにまだ稼働していた厨房の前で先生と別れ、三人で寮への帰り道を歩いてゆく。
けれども程なくして、わたくしは妙な寒さと肩の違和感を覚えた。原因にすぐに気が付く。
「あら、わたくしったら、医務室にケープを忘れてきてしまいましたわ」
「まあ、戻りますか?」
「いえ、すぐそこですから一人で取ってきますわ」
おやすみなさい、良い冬休みと新年を、と挨拶を交わして、わたくしは医務室に引き返した。
二間続きの医務室で、前室にあたる処置室の机の上に置きっぱなしになっていたケープを回収する。カーテンだけで仕切られている奥の寝台室からルーデンス殿下とロージーが話す声が聞こえた。
さっき挨拶は済ませたけれど、もう一度声を掛けようかしら?
ほんの一瞬逡巡している間に、耳が意味のある会話を拾ってしまった。
「分かった、白状するよ。あの時僕は……本気で『消えてしまいたい』って思ったんだ」
聞き流すには、心臓に悪い台詞だった。
「そ、そんな顔しないでよ。こっちはいっぱいいっぱいだったんだよ……考え始めたらもう止まらなくて……いろんな、こう、妄想とか……ね?」
殿下がベッドの上で身振りを付けているのか、体を動かすような物音がする。ロージーの憐れむような、納得するような、よくわからない響きの長い呻き声が聞こえた。被せるように殿下はもごもごと何か付け足していたけれどそちらはよく聞き取れなかった。
しかしそんな、思いつめて妄想にとらわれるほど苦しい悩みを?
盗み聞きはよくないと分かっているのに、足がその場から動いてくれない。
「でも、結果的に良かったんだと思う。あの日、彼女に会ってみて気が付いたんだから。勇気を出して呼び出してみて良かった。彼女には感謝してるよ」
殿下が誰かを呼び出した?
そういえばさっき、似たような話をどこかで聞かなかっただろうか。
「まったく、いきなり大胆なことをしでかすからびっくりするぜ」
「あはは。まあとにかく彼女……テトラ嬢のことが気になるんだ。先生に言うのは違う気がするし、しばらくは君しか話せる相手が居ない。相談に乗ってくれる?」
「仕方ねぇなぁ」
頭の中で、パズルのピースがぴったり嵌った音がした。
わたくしが第二クラスへ移った日、テトラ嬢を呼び出したのはルーデンス殿下だったのだ。それがわたくしの仕業と誤解され、令嬢たちのうわさになっていたということだろう。
けれどもなぜ殿下はそんなことを、と考えて、今の情報を振り返る。
殿下はテトラ嬢を放課後に呼び出して、その直後から引きこもって『消えてしまいたい』と思いつめるほど悩んでしまい、今もロージーに相談したいほど気になっている。他の誰にも話せない。
そんなのどう考えたって……恋ですわ!
結論にたどり着いた瞬間、自分の事でもないのに、顔に火が点いたように熱くなった。
確かにこれは男同士の秘密の会話だ。人としてこれ以上盗み聞きするわけにはいかない。
わたくしは息をひそめたまま、慌ててその場から立ち去った。
恋。ルーデンス殿下が、恋かぁ……。
寮の部屋に帰りついても、帰省の荷造りと寝支度を整えても、ベッドの中に入っても、頭の中は殿下の言葉がぐるぐると回り続けていた。
小魚の大群のようにぐるぐると。朝になるまでずっと。
「カレッタ、お待たせ。お兄様が迎えに来たよ。今日は寒いから温かくして……カレッタ?」
思い返せば、殿下は随分とテトラ嬢のことを気にしていた気がする。資料室で話していた時も色々と聞きたがっていた。わたくしたちの話題も彼女のことで持ち切りだったし、あの頃にはもう興味があったのだろうか。
ルーデンス殿下がどこかのご令嬢に興味を持つ日が来るなんて、想像が付かなかった。
失礼だけれど、殿下はいつだってゲームのことにばかり夢中で女性に興味などまるで無かったのだ。
いつだったかロージーが恋人を欲しがりだして、そういう話ばかり殿下に振っていた頃も、殿下はまるで他人事な様子で呆れたように笑っていたほどだ。
「第二クラスに移って、どんな調子だい? 友達と一緒だから前より楽しいだろう」
友達。親友の恋だ。応援してやらないわけがない。
もしプリステラ嬢やアローナ嬢、それからロージーだって、みんなが恋をしたと知ったらわたくしは、それはもう全力で背中を押すだろう。本人よりもワクワクしてしまう自信がある。
いくらでも首を突っ込んで、どんな些細な一喜一憂も共有してやりたい。いつものわたくしならそうする。
なのにどうして、今わたくしの頭は同じところをいつまでもぐるぐる回っているのだろうか。
逆らえない強い潮流があるように、これ以上ルーデンス殿下の気持ちを想像できない。
他でもない殿下のことなのに何故か、ワクワクできない。
「ゆうべの夜会はどうだった? 楽しめたかい?」
夜会? それどころではなかった。
昨日はなおさらだけれど、そもそも夜会なんていつもそうだ。
美味しいご馳走が出たり、綺麗にドレスアップしたり、ロマンチックなホールで素敵な音楽を聴くのは楽しい。
でも、それはわたくしにとっては仕事なのだ。労働だ。
パレードのように奔放に純粋に楽しめたらいいのに、隣にはいつもあの方がいて、息が苦しい。
月明かりにぎらつく目を思い出す。
興味を持ってくれと言われた。
喉の奥の柔らかいところに、いきなり乱暴な手を突っ込まれた気がした。ずっと昔から差し出すつもりでいたのに、ずっと放っておかれていた器官だ。
締まりのない笑顔を思い出す。
溶けそうな瞳を思い出す。
声を、言葉を思い出す。
ありとあらゆる思い出が、日常が、徐々に大きくなる波のように次々と押し寄せる。力強いそれは不思議と温かく、心地の良いもので。
ああ。
「どう考えたって…………恋ですわ」
「恋?」
ようやく周りが目に入る。
公爵家の乗り心地の良い馬車の中、正面に座るお兄様は何故か興味深そうに微笑んでいた。
「それは、いつからかな?」
そこは普通、誰、ではありませんの?
「分かりませんわ。今気が付いたんですもの。いつの間にか……いいえ、たぶん、最初から」
「ふむ。成程」
お兄様はあごに手をやり、わざとらしい口調で言った。
「では、入学して最初の定期考査の少し前あたりの時期から、ということだな」
「え……あっ」
わたくしが婚約者様と初めて顔を合わせたのは、まだ婚約が決まる前、入学より半年ほど前だ。つまり今の発言は。
「い、いつから把握されてたんですの?」
お兄様はおどけたように首を傾げて、ちょっと意地悪く笑っていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
今回のお話で物語の二つ目の転換点、そして折り返し地点になりました。
ついに恋心を自覚したカレッタと、自分の本当の属性を知ったルディ。
今後の二人の行動は? そしていよいよあの人物が本格始動……?
さらに『ルー博士』も大活躍しますので、つづきもぜひお楽しみください。
次回は第一王子視点の挿話ですが、長いので前・後編の二分割でお送りします。




