挿話 コドラリス先生の誤算
私がルーデンス殿下にお会いしたのは、王宮の家庭教師をしていた祖父が腰を痛め、当時教職に就くことを志望していた私が代理として赴いたのがきっかけだった。
通常なら教師見習いが王族の教育に携わるなど考えられないことだったが、相手が冷遇されている第二王子殿下だと聞いて納得した。
私が出かけるとき、祖父はなにやら意味ありげな様子で、どうか殿下のことを頼む、と繰り返した。その意味は、殿下にお会いしてすぐに理解することになる。
ルーデンス殿下は十歳の儀式を終えてまだ間もなかった。
色白で手足は枝のように細く、美しいと言える顔立ちには表情らしい表情が浮かんでいない。作り物の人形のような子供だった。
太陽のもとで輝く白金の髪を靡かせる兄王子殿下とは正反対で、くすんだ暗灰色の髪が今にも薄暗い部屋の影に溶け込んでしまいそうだ。
確かに、良心ある大人の感覚では心配しないほうがおかしい、痛ましい雰囲気だった。
まずは三日間、指導計画どおりに授業を進めた。
殿下はとても呑み込みが良く、教えたことはすぐに理解して覚えた。
しかし、自分の意見を言わせようとすると途端に押し黙ってしまう。なんとか手助けして言わせてみるが、出てくる言葉はつっかえ、話す順序もめちゃくちゃで、まともな意見の形にはならない。聞いている私の戸惑いが伝わってしまったのか、すぐに怯えたように俯いて口をつぐんでしまう。
これは、やり方を変えなければならないと思った。
四日目、私は殿下の部屋にあるものを持参した。学生時代に友人たちと覚えた花数え札だ。
子供相手に教えるなど褒められたものではないが、どうせ誰も文句は言わない。
興味深そうに札を検分する殿下に私は、簡単だが少しの推理と判断力を使う遊び方を一つ教えた。
「殿下、これを遊ぶときは、何かを賭けるんです」
「何を賭けるんですか?」
「そうですね……では、私が勝ったら、殿下の好きなものを一つ教えてください」
そうして初めて遊んだ一戦。殿下は持ち前の呑み込みの良さで健闘したが、さすがに初めてでは私に敵わなかった。
「私の勝ちです。さぁ、殿下の好きなものを教えてください。理由もおっしゃってくださいね」
すると、殿下は迷いのない手つきで、花数え札をすっと指さした。
「これ。いっぱい考えて、いっぱいドキドキしました。ぼく、これが、好きだと思います」
初めて流暢に紡がれた殿下の意思。その瞳が輝いていたのを、私は確かに見た。
それから約二か月間、私は殿下の家庭教師を務め上げた。
祖父の腰は一か月ほどで快復していたが、何のかんのと理由を付けて期間を引き延ばしてくれていたことを知っている。
復帰した祖父は、殿下の表情が以前より明らかに豊かになったことに驚き感動していた。
たった二か月間で殿下は私にすっかり懐き、本当の兄のように慕ってくれるようになった。
期間を終える日にはとうとう泣かれた。手紙を書きたいと懇願されたので了承したら、日々の気持ちを綴った手紙が大量に届くようになった。
大量にだ。多すぎて一時期王宮の検閲官が確認を放棄するほどに。
私もさすがに面食らったがそれよりも、王宮の大人たちによって十年抑え込まれていたものを一気に爆発させた少年の無垢な逆襲が、私は愉快でならなかった。
『学園に通ってもいいか、悩んでいます』
ある時届いた手紙。
王宮の外に出られることに興味があるが、今まで接触しないように配慮されてきた兄王子と同級生になってしまうので、諦めて身を引くか悩んでいるという。
丁度、殿下の入学の年から私の教員採用が決まっていた。学園に伝手がある祖父と父を通じて、私にできることを探す。
唯一慕われている大人として、ずっと我慢を強いられ、自分を殺してきた彼の味方になってやりたかった。
指導部や寮とのやり取りを整え、殿下を無事に王宮から出すことに成功した。
警備上の問題で、兄王子は学園外の屋敷から通学している。しかし放置されている弟王子が一人で寮に寝泊まりすることに、王宮は文句さえ言わなかった。
ルーデンス殿下に関することはもはや国王陛下の意向など関係なく、専属ですらない担当の役人が惰性と片手間で管理しているだけだった。
資料室登校のせいで私と食堂の職員以外誰とも交流が取れていないとはいえ、世話役の使用人たちから日常的に当然のように軽んじられていた環境から抜け出し、殿下は穏やかな日々を送っているようだ。
殿下は他の生徒と極力顔を合わせないように、時間をずらして生活している。
本来寮で提供される朝食は抜きにして、他の生徒が登校した後を見計らって資料室に移動する。昼休み前のまだ授業中の時間に学園の食堂へ行き、早めに用意してもらった昼食を食べる。それからずっと資料室で過ごし、夜に寮へ戻るのは門限ぎりぎりの時間だ。夜食は厨房で残り物を取っておいてもらっているという。
成長期の男子にしては心配になる生活習慣だが、彼が心の安寧のために自分で見出した行動様式なので強く注意もできない。私はせめて足しになればと、こまめに間食の差し入れをするくらいだ。
そんな殿下が、やけにぼんやりしていることが多くなった。
神経を使う生活に疲れてきたのかとも思ったが、どうも違うようだ。
じっと見つめていた視線の先を追うと、窓の向こうの屋外訓練場でベンチに座る令嬢の姿があった。
「先生、あのご令嬢、知ってる?」
「ああ、彼女はカレッタ・ラミレージ公爵令嬢ですね。あなたのお兄様の婚約者ですよ」
「どうしていつも見学してるんだろう。体でも悪いの?」
「いえ、確か、魔力量が少なくて魔法が使えないと聞いています。実習に参加できないのでしょう」
「ふぅん……」
最初はその程度の興味だった。
……いや、その程度、としか私が見抜けていなかっただけだった。なにしろ彼は長い間自分を抑圧して育ってきたので、自分の意志や欲求を正しく捉えるのが不得手だったのだ。
それが初めて抱く感情となれば、なおさらである。
それまで彼を他の生徒がいる校舎で見かけることなどほとんどなかったのに、目に見えてその頻度が増えた。兄王子に引けを取らぬ端正な顔立ちなのに誰からも関心を持たれていないのは、その存在感の薄さ故だろうか。ここまでくると立派な才能に思える。
給湯室に茶をもらいに行くとか、手洗いに行くとか、あれこれ理由を付けて出歩いているようだが、真の目的はすぐに分かった。
カレッタ・ラミレージ公爵令嬢だ。
彼女の行くところに、殿下の姿あり。直接声を掛ける気はないのか、遠くからさりげなくひっそりと彼女の様子をうかがっている。
彼女はまだ気が付いていないが、これでは立派な付きまとい行為だ。
このままでは思いつめた殿下が何をしでかすかわからない。家に届いて今も倉庫の一角を占拠している手紙の山が脳裏を過った。彼はやるときはやる。
取り返しのつかない事態になる前に、私はまた一肌脱いでやることにした。
カレッタ嬢。意識して接触を持つようにしてみると、彼女は彼女でまた一味違う個性的な少女だった。
小さく整った顔に、利発そうな吊りがちの大きな目。真っ直ぐ伸ばしたつややかな髪は海の底を思わせるような深い群青色をしている。
制服の装飾はだいぶ前衛的といえるが、幼くして隙がない美しさを持つ彼女の雰囲気を和らげるようで、よく似合っていた。ひそかに真似をしたがっている女子生徒の会話を耳に挟んだことがある。
淑やかな外見で物怖じもせず所作は完璧。そして、成績も優秀だった。
魔法ができない分の減点で総合成績は第一クラス最下位になってしまっているが、座学は文句なしの上位だ。あの年で立憲民主政治の概念を理解しているのにも舌を巻いた。
一度、個人的な質問として、『社会保険』という架空の制度を王国で実現させる場合、何が障害となるかを問われたことがある。突飛だがやけに現実味のある議論に、彼女こそ王族の婚約者としてふさわしい、と思ってしまったほどだ。
しかし、そんな完璧すぎるところがあだとなっているのか、一部のクラスメイト、特に高位貴族の女子たちは彼女のことをたいそう妬んで嫌っている。
カレッタ嬢もさすがにそれは煩わしいと見え、相手にしないようにクラスメイトとは距離を置いているようだ。そしてさほど気に病んでいる様子もない。十二歳とは思えない大人の対応である。
第二クラスにいる親しい友人たちと笑いあう姿をクラスメイト達が見たら、きっと驚くことだろう。
婚約者である第一王子殿下も、彼女とはまだそこまで親しくないようで、会話らしい会話をしているのを見たことがない。
時折彼女を気にしているそぶりも見られるが、それだけだ。あれくらいの年の男子の気持ちとして、そっけなく振る舞いたくなるのはよくわかる。
それでも彼女は適度な距離感を保ち、毎日の挨拶を欠かしていないので、第一王子殿下のことは憎からず思っているのだろう。
私は何度かカレッタ嬢と接触を持って、賢く、振る舞いをわきまえている彼女なら、ルーデンス殿下と引き会わせても問題はないだろうと判断した。
殿下も直接会って話してみれば多少は冷静になるだろうし、想いが届かないこともあると学ぶいい機会かもしれない。
そう考えて私は、カレッタ嬢を資料室に行かせることにしたのだった。
そう。当時の浅はかな私は、彼女の本当の性格を、完全に見誤っていたのだ……。




