09 資料室の住人
ありきたりな例えだけれど、心臓が口から飛び出るかと思った。実際飛び出てこなかったけれどまだバクバク言っている。
背中には一気に冷や汗をかいてしまった。ちょっとハンマーを揉んで落ち着こう。もみもみ。
落ち着くためにもまずは状況観察。
そっと近付いてよく見れば、年もそう変わらなそうな男子生徒だった。
勉強の最中に居眠りをしていたようで、ペンを手元で転がしたままノートを枕にして、机の上には教科書が広がっている。わたくしと同じ一年生のものだ。
しかし、見覚えのない生徒だった。
第一クラスにはいないし、第二クラスを覗いた時にも見かけた記憶がない。
武術専攻の第三クラスだろうか……それにしては体つきがひょろりとしているし、顔も日に焼けていない。覇気のない顔ですやすやと寝息を立てている。まあ寝顔に覇気があっても困りますわね。
とにかく、男子生徒はすでに長時間この部屋に居座っている様子だけれど、ここはコドラリス先生の資料室だ。守衛の目を盗んで無断で侵入している不良生徒かもしれない。要確認。
わたくしは勇気を出して、男子生徒を起こすことにした。
「もしもし、もしもーし」
「うー……ん……」
何度か耳元で声をかけると、男子生徒の目蓋がゆっくりと持ち上がった。
焦点が定まらない目でわたくしの顔を見ると、寝ぼけているのか、なんだかとても嬉しそうに口元を緩めた。
「わー……カレッタ様だ……」
「そうですわ。カレッタ・ラミレージですわ。ごきげんよう。そろそろお目覚めになって」
「ごきげんよう……目覚め……」
ぽやぽやと受け答えしていた男子生徒は、そこで突然両目をカッ!と見開いた。
ガバリと身を起こして、そのままの勢いで跳ねるように立ち上がった。思ったより背が高い。
椅子か机に脚をぶつけたような鈍い音が聞こえたけれど、痛みどころではなさそうな慌てぶりだった。
「だっ、カ、かかかかかカレッタ様!!!!」
尋常ではない驚き方にわたくしも固まってしまう。
男子生徒は色白だった顔を真っ赤に染めて、ほっそりした肩を震わせ、冷や汗をだらだら流しながらもようやく言語らしい言葉を発した。
「ど、どうして、カレッタ様がこんなところに! ええ、あああ、うう、ぼ、僕は……!」
「お、驚かせてごめんなさい、どうか落ち着いて……」
とにかくもう一度椅子に座るように促し腰を下ろさせると、少し冷静になったのか、男子生徒は真っ赤になった顔を両手で覆って深い深い溜め息を吐いていた。
「あああ、恥ずかしい……すみません、取り乱しました……」
「お休み中にいきなり声をかけてしまって、申し訳ありませんでしたわ」
「いえ、あの、それは別に……寝こけてた僕が悪いので……」
手を少しずらして、ちらりとこちらを見てくれる男子生徒。視線が合うとすぐに逸らされてしまう。
これは寝顔を見られたのが相当恥ずかしかったようだ。男子でもそういうことが気になるお年頃なのだろう。本当に悪いことをした。
「ご存じのようですけれど、改めて自己紹介を。わたくしはカレッタ・ラミレージですわ。コドラリス先生のお使いで、この資料を置きにまいりましたの。誰も居ないと思っていたのでわたくしも驚きましたわ」
「僕も、驚かせてすみません。僕はいつも、先生にここを借りて『登校』しているんです。鍵も僕が預かってます。個人的な事情なんですが、教室に行きづらくて……」
男子生徒は気まずげに笑って言葉を濁した。
「それにしてもコドラリス先生は、カレッタ様に僕の事を何も伝えてなかったんですか?」
「ええ。特に何も。お急ぎだったようですから、失念なさったのでしょうか」
「あん、の、先生……」
渋い顔で窓の外を睨む男子生徒。何か思い当たることがあるのだろうか。
「……いえ、こちらの話です。先生にはあとで僕からしっかり言っておきます」
そこで話をいったん区切ると、男子生徒は咳払いをして、姿勢を正してわたくしに向き直った。
「改めまして、僕も自己紹介を。僕の名前はルーデンス。その、あなたに覚えていただけたら、光栄です」
後半はなぜだかやけに可愛らしくはにかむように告げられたけれど、それよりも前半の衝撃が大きくてそれどころではなかった。
ルーデンス。ルーデンスって。教室に通いづらいルーデンスって!
「お顔を存じ上げず、大変失礼いたしました。ルーデンス第二王子殿下」
「や、やめて! 顔を上げてください、カレッタ様!」
ルーデンス第二王子殿下。わたくしの婚約者である第一王子殿下の……『半年違いの弟』だ。
もうこの響きだけで王家の面倒なごたごたが目に浮かぶようである。
ちなみにわが王国では尊い身分の重婚は犯罪ではない。
犯罪ではないけれど、やむにやまれぬ事情がある場合に、関係各所への徹底的な根回しを経て、当事者同士も完全に納得したうえでようやく許される家系存続救済措置のようなもので、決して気軽に選択していいものではない。
すべて無視してすっ飛ばした現国王陛下のように。
恐ろしいので詳細には触れないけれど、ルーデンス殿下を取り巻く面倒さはこれだけで十分説明できる。
だいたい陛下のせいだ。
「いけません。わたくしのことも呼び捨てになさってください」
「でも、僕なんて本当に大したことないんです! いつ身分をはく奪されて、放逐されてもおかしくないし……」
殿下は乾いた笑顔を浮かべながら、煤けた空気を漂わせてご自分の靴の先を見つめる。
どの貴族もあえて触れないようにしている第二王子殿下の存在だけれど、そこまでひどい現状なのかとわたくしはぎょっとする。
「僕、昔から何をやっても駄目なんです。勉強も魔法も運動神経も王子殿下とは比較にもならなくて、失望されてばかり。国王陛下にはもう何年もお会いしていないし、王子殿下にもきちんとお会いしたことないし、異国に追ほ……移住した母はそのまま行方知れずで音信不通。要するに、見限られてるんです。いずれ王子殿下が即位なさったら、誰にも期待されてない、何の役にも立たない穀潰しで、無駄に厄介な血だけは継いでいる僕は、いったいどうなるか……」
これは、わたくしごときが聞いてよいお話なのでしょうか。血のつながっているはずの家族の呼び方が他人行儀すぎてもうすでに怖い。
お父様にお手紙を書いたほうがいいかしら……いえ、たぶん即刻忘れろと言われて終わりですわね。
「でも」
そこで、ルーデンス殿下の声の明るさが急に変わった。表情を確かめると、遠慮がちにこちらを窺う目と視線が合う。
先ほどまでとは打って変わり、ルーデンス殿下は穏やかに微笑んでいた。
「あなたを見て、少しだけ、気持ちが軽くなったんです」




