99話 跋扈
踏まれても、踏まれても。
日が落ちかかったころ、薄汚い服を着た少女が一人、大通りを歩いていた。今にも折れそうなほど細い手で引きずられている少女の身体より大きい袋には、一日かけて集めたゴミが詰め込まれている。換金屋に持って行けば一体いくらになるのだろうかと、少女はいつもの皮算用をしている。その金で今晩の食事、廃棄肉や腐りかけた野菜くずで作られた粗末な料理が少しでも買えれば、今日を「いい一日」で終えられる。
暗闇が町を覆いつくす前に店に辿り着こうと少しだけ歩調を速める。黎裔の南側にある店まであと少しと言うところで、少女は一息ついてふと空を見上げた。黄金色の空に溶けていく白い息の先に白い布のようなものが風に吹かれているのが見えた。屋根の端から少しだけ見えるそれは黎裔では見たことがないほどに真っ白で、手を触れてはいけない高潔な物のように思えた。
惹きつけられるように建物に近づくも、扉の前に座り込んでいた中年男性に近づくなという手振りで動物のように追い払われた。少し口を尖らせた少女が再び屋根を見上げると、角度の問題だったのか、見間違いだったのか、きれいな白い幻影が見えることは二度となかった。
ぼんやりとそのまま空を見上げていると、少女と同じように大きな袋を持った少年が通り過ぎて行った。自分も早く換金屋へ行かなければと、急に現実に引き戻され、その場を後にした。
数十分後、二銭硬貨を三枚手にした少女がとぼとぼと道を引き返していた。いつもなら十五銭ほどになるはずの収入が、なぜか今日は半額以下になっていた。理由を聞いてもただ店員の大人に大声でまくし立てられるだけで、反論する術を持ち合わせていない少女は泣く泣く言われた金額を受け取るしかなかった。
これでは一食分が賄えるかどうかも怪しい。もちろん貯金などあるはずもない。今晩は食事を抜きにしようか、それとも生ゴミでも漁ろうかと考えていると、先ほど見たばかりの白い布のことを思い出した。そう言えば、この黎裔にはもう一つ収入源がある。少女は北東に向かって小走りになる。
廃材で作られた家や、ごみが山積みになっている行き止まり、うっかり踏んでしまいそうになる様々な死骸。そんな入り組んだ路地を通り抜け、辿り着いたのは黎裔の中でも比較的大きな二階建ての家の前だった。
扉もないその家に遠慮もなく入り、はしごを上る。四畳ほどの広さの二階では、薄っぺらな布団で人が寝ているのが暗闇に薄っすらと見えた。
「那由ちゃん!」
息を弾ませたまま、少女はその横たわっている背中に声をかける。その声に反応した人影は、もぞもぞと動いたかと思うと、ゆっくりと起き上がって胡坐をかき、枕元のランプに小さく火を灯した。
「何。どうしたの。その声はスギナ?」
「情報売りに来たよ!」
返事をする代わりにそう言うと、スギナと呼ばれた少女ははしごを上り切り、青年の近くに座った。
「そう。さて、いくらになるかな」
枕代わりにしていた赤い羽織を広げて肩にかけ、手で顎を撫でる。その羽織の背中には大きく六十の文字が書かれている。これは紛れもなく、蜉蒼の那由他のものだった。
「蜉蒼の家の上に、白いひらひらがあったよ」
「そんな中身のない情報を売ろうって言うのか? それでは一銭もあげられないね」
呆れた表情の那由他は置きっぱなしにしている硬貨に伸ばしていた手を引っ込めた。その動作にスギナは慌てて説明を付け加える。
「見たことがないぐらい真っ白で、何かはわかんないけど、多分、黎裔のじゃないと思う。絶対見に行ったほうがいいよ、那由ちゃん。だって、蜉蒼は私たちを怖い外の世界から守ってくれるんでしょ」
那由他は再び手を伸ばし、硬貨を掴んだ。壁に囲まれた黎裔で生まれ育った裔民は外の世界など知る由もない。ただ、「黎裔の外は怖いところだから、蜉蒼が戦って守っている」と喧伝するだけで信頼と尊敬を得られる上に、裔民を使役することも容易い。
貧民街とはいえ、その中にも貧富の差は存在する。蜉蒼に属する那由他が普段生活しているたった四畳のこの部屋も、一家族が三畳ほどで生活するのが標準の裔民にしてみれば裕福なものだった。
「今回の駄賃はこれぐらいだな」
十銭硬貨を二枚手渡し、那由他は立ち上がる。「見たことがないほど白いもの」と言われて真っ先に思い浮かんだのは既死軍の制服だった。情報が本当ならば早急に対処しなければならない。
「俺は今から真偽を確かめに行く。南の家だな」
「うん。ヤハズおじさんの店とかの近く」
黎裔にはいくつか抜け道があるにも関わらず、普段蜉蒼が使っているところに異常があるとは、厄介なことになったと軽くため息をつく。定期的に出入りする場所を変えているとはいえ、一番使い勝手がいいところだったのに、こうなっては一時的にでも封鎖しなければならない。大方誰かが後をつけられでもしたのだろうと、原因が自分だとは露ほども思っていない那由他は誰かに向けて悪態をつく。
「わかった。暗くなったからスギナは早く家にお帰り」
帰宅を促す那由他に、スギナはおずおずと上目遣いをして問いかける。
「ねぇ、ここで那由ちゃん待っててもいい?」
「俺は蜉蒼だ。子どもは関わらないほうがいい」
「わたし、もう子どもじゃないもん」
わかりやすく頬を膨らませて反論する少女の腕を掴み、無理やり立たせる。
「確かに蜉蒼はスギナを保護した。だが、必要以上に自ら進んでは関わらないほうがいい。さっさと帰りな」
はしごの前に連れて行かれたスギナは、このまま突き落とされてはたまらないと渋々階下へと降りて行った。スギナが建物を出たことを確認した那由他は、部屋の隅に置いている箱を開けて中から武器である円月輪を取り出し、それが通されたひもを腰に結ぶ。そうしながら、気付かないうちに那由他は口角を上げていた。こんな入り組んだ路地と行き止まりだらけの黎裔で、土地勘もない既死軍が有利になるはずはない。奇襲するまでもなく返り討ちにできるだろうと脳内でいくつかの状況を想定してみた。
「黎裔まで来るとは、めでたいやつらだ」
黎裔の夜は堅洲村より少し明るい。それがヒデが黎裔で持った最初の感想だった。ぽつりぽつりと灯っている明かりが僅かに町の様子を浮かび上がらせている。
数時間前、ヤンが「屋根の上に二人以上は定員超過だ」と言った意味が地上に出てようやく理解できた。屋根がトタンや廃材であればまだいいほうで、ビニールシートのようなものを屋根に見立てている家さえある。いくつかの家には扉もあるものの、それは防犯のためではなく、吹き込む寒風を少しでも防ぐためのようだった。
他の誘たちが黎裔にどんな感情を抱いているかはわからなかった。しかし、立ち並ぶ建物は家というにはあまりにも粗末で、ヒデは「貧民街」という言葉が持つ以上の貧しさを感じていた。
狭苦しい路地裏に人通りはなく、静寂が支配している。少し覗いた家の中は暗闇で物音一つせず、横たわっている人の姿はぼんやりと見えはするが、それが死んでいるのか寝ているのかは判別がつかないほどだった。
屋根に残っていたキョウが顔をのぞかせ、いつでも行けると手を振って地上のシドたちに合図を出す。それを受けたシドは無線でケイに行動開始を告げる。
黎裔についても、蜉蒼についても、わかっていることはほとんどない。今はただ那由他の居場所へ向かうことが目的だった。那由他がそこにいさえすれば、任務を終わらせることは容易だ。しかし、脳内には地図もなく、ただ「黎裔の東北」という情報しかない。
この任務が一体どうなるのかは誰にもわからなかった。
『基本的には直進と右折をすれば着く。ただ、その様子では簡単に辿り着けなさそうだな。進路が大きく外れた場合は俺から連絡する。それ以外は任せる。以上だ』
ケイの声が消えると、シドは歩き始めた。足場の悪い屋根にいる案内役のキョウが数歩先をそろそろと歩いている。背中におんぶ紐で括り付けられた黎兎の耳や手足がキョウの動きに合わせてふわふわと揺れているのが、たまに隙間から見えた。
しばらくまっすぐ進むと、道が二股にわかれていた。右側の道は崩壊したらしい家の瓦礫がそのまま残されていて、行き止まりになっている。シドは何度か左右を見ると、臆することなく右へ曲がった。瓦礫の頂上ではキョウが手を振っている。
「俺は今、帝国が建築基準法ってやつを定めてくれたことにめちゃくちゃ感謝しとる」
「僕は都市計画の大切さを感じてるよ」
横に並んだチャコとヒデは早速行き当たった悪路に不満をこぼした。平坦ではない道に慣れているとはいえ、ゴミとも建築資材ともつかないような山を登るのは初めてだった。息が上がるほどでもないが、こんな場所に何度も遭遇すればそれだけで体力が奪われるのは明白だ。
「地図ないっちゅうんが気がかりやってんけど、あったところで役には立たんかったやろなぁ」
キョウと合流したところで、ヒデは初めて少し遠くまで黎裔を見渡すことができた。視界に入るのは密集した家とゴミ、それだけだ。きっと太陽が昇っても、暗い町並みなのだろう。
再び地上と屋根に別れ、北東を目指す。キョウの進みは遅く、想定していたよりも時間がかかっていた。直線距離であれば目的地は黎裔の入り口から十五分ほどしか離れていない。しかし、とうにその時間は過ぎているはずなのに、まだ辿り着くどころか、入り口からそう離れてはいなかった。
たっぷりと時間をかけて歩き続けると、広場のような開けた場所に出た。昼間は子供たちの遊び場になっているのだろう。ボールや壊れかけの自転車、その他にも遊び道具のような物がいくつか片隅に転がっている。
シドたちが着いたときには、既に広場の中心でキョウが立ち尽くしていた。その様子は、到着を待っているようではなかった。ただ呆然と魂が抜け落ちたように、打ち捨てられたおもちゃを見つめている。
ヒデは息を呑んだ。この様子は紛れもなくキョウが暴走する合図だった。同じく、経験者のシドとチャコはキョウの異変に気付いていた。異常行動を起こす前に気絶させたほうがいいと判断したシドはチャコに視線を送る。一度うなずいたチャコは手にしていたハリセンをキョウの背後から頭部目掛けて振りかぶる。
だが、キョウに背負われている黎兎が攻撃を防いだ。黎兎の一挙手一投足はキョウの脳波に反応するはずなのに、それはまるで自我を持って主を守ったかのようだった。
「僕、ここ、知ってる」
しんと静まり返った空間に、小さなキョウの声が響く。
「君は、裔民か? それなら、『おかえり』」
その声に全員が一斉に振り返る。いつの間にか那由他が屋根の上にしゃがんでこちらを見ていた。
「久しぶりの顔もいるな。わざわざ黎裔まで来てくれたこと、嬉しく思う」
華麗に着地した那由他は赤色の羽織をなびかせ、近づいてくる。キョウ以外の全員が武器を構え、戦闘態勢をとる。あと数十歩という距離で立ち止まった那由他は手を広げて空を仰ぐ。
「俺たちの故郷はどうだ? 美しくて」
既死軍を見据えた那由他は口元だけで笑顔を作る。
「反吐が出るだろ」




