95話 廃忘(はいもう)
この世でただ一つ、確実なもの。
様々な問題に頭を抱えているケイだったが、今一番の問題はキョウだった。どのように伝えればいいものかと重い足取りで歩く。任務に無理矢理行かせることは可能だが、できるだけそれはしたくなかった。既死軍に来てから数十年、何度無情になれたら、と思ったかわからない。
「甘ったれ、か」
ヤヨイにからの罵りを自分で繰り返す。
「確かに、そうなのかもしれない。安寧とは言えないが悪くもない今の生活を失いたくないんだろうな。俺も、みんなも」
立ち止まって空を仰ぐと、夜を一層暗くしている雲から雪がはらはらと降り続けている。いくつかが頬に落ちて溶ける。吐き出した白い息は宙に消え、また視界が雪だけになる。
少し遠回りをしてみるも、広くもない堅洲村ではあっという間にキョウの宿に着いてしまった。明かりが漏れる玄関を開けて下駄を脱ぎ、無遠慮に上がり込む。
「あれー? ケイさん、珍しいですね」
玄関を開けると、そこはすぐに居間になっている。寒さに鼻を赤くしながら、囲炉裏で手を温めているキョウがケイを見た。キョウの前には宿家親のヨミが座っている。ケイが来るまでは何か面白い話でもしていたのだろう。二人ともそれまでは空間に花が舞ってでもいるかのような笑顔だったが、ヨミの顔が瞬時に曇る。ケイが笑顔になるような話題を持ってくるわけがなかった。
「何のご用ですか?」
隣に座ったケイにキョウは変わらず笑顔で声をかける。手を温めるのをやめ、床に置かれていたうさぎのぬいぐるみ、黎兎を正座している膝に乗せた。ケイが今から何の話をするのか、キョウも無意識にではあるだろうが気付いているのだろう。
「黎裔に行く」
その言葉に対するヨミとキョウの反応は全く違ったものだった。遂に来たかとうつむくヨミと、「黎裔?」と首をかしげるキョウ、それぞれをケイは見る。
「任務、ですか?」
「そうだ。黎裔という場所へ行く。日は」
「行きたくないです」
ケイを遮ったキョウは駄々をこねるような口調で黎兎の後頭部に顔をうずめてしまった。
「待て待て、話は最後まで聞くもんだぞ」
「何ですか? いいお話ですか?」
ちらりと潤んだ目だけをケイに向け、キョウが尋ねる。何と伝えればいいものかと、ケイは眉間にしわを寄せて頭を掻く。ヨミはその様子をただ黙って見ているだけで、口は真一文字に結んだままだ。
キョウが任務を拒否するのはこれが初めてではない。何度かの暴走を繰り返した結果、大部分の記憶が飛んでいるとはいえ、「任務」に対していい心持ちはしないのだろう。
普通の任務であれば、たとえキョウが拒否したとしても、誘にカメラを持たせるなどで代替は利く。しかし、今回行くのは世界最強と謳われる帝国軍ですら踏み込めない「黎裔」。蜉蒼の生活圏でもある。義眼である右目がカメラになっているキョウから即時に送られてくる映像が喉から手が出るほど欲しかった。
「キョウの力が必要なんだ。お前の右目が。戦わなくていい。他の誘がお前を必ず守る。だから、どうか、どうか力を貸してくれ」
「だって、僕、もう」
キョウは途中まで言いかけて、顔を全て黎兎に隠してしまった。微かに鼻をすする声が聞こえてくる。かける言葉もなく、沈黙の時が流れた。
しばらくすると、黙ってやり取りを聞いていたヨミが口を開いた。
「協力してあげなよ、キョウ。ケイさんが困ってるじゃないか」
「でも」
「ケイさんやみんなのことが信じられないのかい?」
その声にキョウが少しだけ黎兎から顔を覗かせる。これが好機だと言わんばかりに、ケイはキョウの両肩に手をかけ、顔を近づける。
「キョウ、頼む。蜉蒼にやっと近づけたんだ。お前も死んでいった既死軍の、リヤたちの仇を取りたいと思わないのか」
「リヤ?」
一旦体を離し、ケイは言葉を続ける。一年以上前に死んでしまった誘の名前を出して、効果があるのかはわからない。しかし、年が近かった二人が仲が良かったのは確かだ。情に訴えるなど普段ケイがすることではない。しかし、どんな手を使ってでもキョウには黎裔に行ってもらわないと困るのは事実だった。
「そうだ。お前ら仲良かっただろ。今ならリヤの」
「そんな人、知らない」
いつもは輝かんばかりの大きな瞳がいやにくすんでいるように見えた。
「誰。それ」
真冬だと言うのに、ヨミの頬を冷や汗が伝う。ケイより先に身体が動いたのはヨミだった。
「忘れたって言うのか! キョウ!!」
ヨミは飛び掛からんばかりにキョウの両肩を掴み、激しく問いただす。豹変したようなヨミに、キョウは怯えからか、泣きそうな顔をしている。
「だって、ヨミさん。知らないものは、知りませんよ」
語尾を小さくしながらわずかに震えているキョウに気付き、ヨミは手を離す。いつのまにか呼吸が荒くなっていた。ケイはそっとヨミを押しのけ、キョウに話しかける。
「そうか。じゃあ俺の勘違い、いや、人違いだった。悪かったな、変な話して」
そう言いながらも、視線はヨミに向けられていた。全てを察せということだろう。ヨミはキョウからは見えない位置で唇を噛んでうつむいた。
ヤヨイとケイからキョウの記憶については聞かされていた。今後回復する見込みはなく、忘れていく一方だと、現代医学では助ける術はないと、わかっていたはずだった。キョウは義肢や義眼を使っている分、他の誘よりも薬に依存している部分が大きい。それの副作用が主な原因だ。凄惨な記憶を消すために、穏やかな日常生活を営むために、頼ってきた薬の代償が人間らしく生きた既死軍での思い出だ。
自分の顎から滴るのが冷や汗ではなく、涙だと気付いたヨミは、静かにその場から離れ、自室へと入っていった。
ケイはそれを見届けると、話を続けた。
「俺たちを助けられるのは、既死軍の中でキョウだけなんだ。だから、協力してくれないか」
「でも」
「戦わなくていい。何があっても、シドたちがお前を守る。もう、この任務が終われば、二度と任務には行かなくていい。ずっと堅洲村にいていい。だから、お願いだ、キョウ」
キョウはうさぎのぬいぐるみを顔から離した。その瞳には再び光が戻り、ケイをまっすぐ見据えている。
「お前が生きてきた意味を、誘として生きてきた意味を、最後に確かめて来い」
何かを言おうと、キョウは何度か口をもぞもぞと動かす。しかし、言葉にはできなかったのか、しばらくしたのち、ケイの目を見てうなずいた。ケイはそれだけで満足だった。引き換えにした条件はほとんど口から出まかせではあったが、これぐらい後からどうにでもなるだろうと今は頭の隅に追いやっておくことにした。
キョウの宿を後にしたその足でチャコとヤンの宿も回る。二つ返事だった二人に、もうちょっと緊張感を持ってほしいと思った反面、あっけらかんとした対応をしてくれることの有難さも感じた。残るはヒデのみだった。しかし、既に玄関から漏れる明かりもなく、屋内に入ってみてもしんと静まり返っているだけだった。室内でランプがついている様子もない。わざわざ起こすほどでもないかと自分の宿へと引き返した。
先ほどまで降っていた雪はやんでいた。しかし、どんよりと空を覆いつくす厚ぼったい雲は世界を更に暗くしていた。
手にしているオイルランプの火がちらちらと頼りなく揺れるたびに、ケイは足を速めた。宿が見えるほどの距離に近づくと、玄関に誰かがいるのが見えた。背丈からするにイチではないだろう。相手もケイの姿を認めたのか、こちらへと歩いて来た。
それはヨミだった。
オイルランプに照らされるその目元はわずかだが赤みを帯びているようだった。
「ケイさん」
「中で話そう。どうせ長い話なんだろ」
全てを見透かされていたかのような返事にヨミは多少目を丸くしたものの、すぐに「はい」とケイの後ろについて入った。
ミヤとヤヨイ以外がこの宿に上がるのも久しぶりだなと、居間に通して座らせる。茶を出してくれたイチを自室へ追い返し、黙りこくっているヨミを見る。これは長期戦になりそうだと湯気を立てる濃い緑茶を一口すすった。
言葉を交わすこともなく、ただ無言の時間が流れていく。ケイはじっとヨミが口を開くのを待っていた。このような場合には時間をかけるのが最善らしいと、どこかで聞きかじったことがある。
何度か湯呑に口をつけたところで、やっとのことでヨミが話を始めた。
「キョウは、あとどれぐらいもちますか」
単刀直入な言葉にケイは思わず呆れたような笑みをこぼした。
「ヤヨイのほうがよく知ってる」
「それはそうなんですけど」
一瞬間を置き、ケイを向いていた視線を落としたかと思うと、小さな声で「ヤヨイは容赦ないから、怖くて」とこぼした。
「ヨミの言うとおりだな」
思わず笑いだしそうになるのをこらえ、ケイはなんとか口角を上げるだけにとどめた。ヨミが顔を上げる前に再び真剣そうな表情に戻し、ヨミの目を見る。
「覚悟したから来たんだよな」
「はい。先ほどは取り乱しましたが、何があっても受け入れる覚悟はあります。私も既死軍です」
ふわりとしたパーマがかった短い髪とは対照的な鋭い目つき、出会ったときから変わることがない意志の強さと優しさを兼ね備えたような顔だ。
「俺がヤヨイから聞かされてる情報だけにはなるが、現状を伝えておこう。それがお前の、宿家親の仕事だ」
そう断って始めたケイの話をヨミは遮ることもうなずくこともなく、黙って聞いていた。ただ、時折目を閉じ、奥歯を噛み締めるような様子だったのがケイには印象的だった。
全てを聞き終わった後、ヨミが口にしたのは意外な言葉だった。
「ミコトを、覚えていますか」
「お前が宿家親になって初めての誘、キョウが来る前の同居人、既死軍に来て二年足らずで死んだ。武器は三節棍、既死軍に来た日は」
「流石ですね」
もう十分だと言わんばかりのヨミに遮られたケイは、一息ついて残っていた茶を飲み干す。ヨミの手元にはまだなみなみとぬるくなった緑茶が残っている。
「忘れるわけがない。既死軍の死は全て俺の責任だ。俺が忘れたら、死んだやつらに申し訳が立たないからな」
「そうです。忘れるわけがないんです。ミコトとは色んな事がありました。死んだって、いつまでもそばにいるような気がして、覚えているんです。思い出は楽しかったことも、辛かったことも、私を強くしてくれる。励ましてくれる。でも、キョウは、それももうできない。リヤとは、あんなに仲が良かったのに」
「思い出ごときが人を強くするなんて、それはヨミがそう信じてるからにすぎない。キョウはそもそも既死軍以前の記憶を消されている」
「じゃあ、思い出も何もないキョウは、どうすれば救われますか」
「救われないさ、既死軍は」
愕然としたヨミに追い打ちをかけるようにケイは淡々と言葉を発する。
「俺たちは償いきれない罪と罰を、一生背負って生きるんだ」
どこからか入って来た冷たい風が二人の間を通り抜けていった。




