92話 不人情
仁者は、敵なし。
振り返ったヒデの顔を見たレナは息を呑んだ。これは夢なのではないかときつく唇を噛んでみるも、予想通りの痛みがするだけだった。握っていた軍刀の構えを力なく解く。
「生きてたんだ、佐久間くん」
その声はか細く、形容のできない感情を含んでいた。視線を落とし、床を向いた切っ先を見つめる。その間も、ヒデはレナから視線をそらすことはない。
「佐久間くんは、私のこと知ってたの? 知ってて、あのとき電車で助けてくれたの?」
レナのどの言葉を拾い上げればいいのかはわからない。それでも黙っているわけにはいかなかった。誰に対する弁明なのかは自分でもはっきりしない。
「同一人物だとわかったのは今です。個人情報は調べさせてもらいましたけど、既死軍の情報網をもってしても、川崎さんとレナさんは結びつけられませんでした。ロイヤル・カーテスの情報統制はお見事です」
「そんなこと、聞いてない」
顔を伏せたままでも、どんな表情をしているのかは想像がついた。こんな顔をさせないために、「高校生の佐久間篤紀」は偽善的な日々を取り繕っていたはずなのに、その仮面が剥がれてしまえばこの有り様だ。返す言葉もわからず、ヒデは小さく息を吐き出し、結局そのまま押し黙った。
しばらく沈黙が流れる。その空気にレナは我慢できなくなったのだろう。心の中に渦巻いていた言い表せない感情が、堰を切ったように溢れ出した。
ヒデは思わず「僕が」と口を開く。
「僕が川崎さんのことを泣かせてるのなら謝ります。だから、泣かないでください」
それでもぼたぼたと零れ落ちる大粒の涙は止まることはない。
「すみません。僕はこれしか、今は、こんな言葉しか持ち合わせていません」
心を掻き乱されるような、この感情は何と言っただろうか。忘れてしまっていたのか、元々持っていなかったのか、それでも、間違いなく今までの自分の中にはないはずだった。こんな気持ちにはならないはずだった。
またしても沈黙が訪れる。
ヒデは思い出したように手にしていた拳銃を握り直した。こんなことをしている間にも、南棟ではレンジが任務にあたっている。レナがいたということは他にもロイヤル・カーテスがいるに違いない。今すぐにでもレンジと合流するべきだ。
それが既死軍として正しい判断だ。
ヒデが一歩下がり、扉に身体を向けようとしたその瞬間、レナが声をかける。
顔を上げたレナの長いまつげは涙に濡れていた。潤んだ瞳はまっすぐヒデを見つめている。普通の高校生である川崎陽奈美と、ロイヤル・カーテスの女王であるレナが同時に存在しているようなその双眸はヒデの後ろ姿を捉えて離さない。
そんな時だった。それぞれの無線に連絡が入った。お互いの視線がそれを物語っている。
「僕は行きます。ここにもう用はありません」
そうレナに背中を向けたヒデは「待って!」という声に立ち止まる。しかし、振り返ることはなかった。
「何ですか」
「また、会えるよね」
眉間にしわを寄せたヒデは固く目を閉じる。
約一か月間、佐久間篤紀として積み上げてきた日々など、今となっては何の意味もなさない。取り戻すことのできない過去は思い返す必要もない。
それでも、どうしても伝えておきたいことがあった。ヒデは振り返り、息を吸った。
「僕は一つだけ、謝りたいことがあります」
レナはヒデの目を見つめる。しかし、その視線が合うことはない。
「初詣、誘ってくれたのに、行けなくてすみませんでした」
そう言って深々と頭を下げたヒデにレナは慌てた様子で首を横に振る。
「そ、そんなこと、今さら」
「僕はわかってたんです。佐久間篤紀は冬休みに入ってすぐ死ぬから、初詣なんて行けるわけないってこと。でも、僕はあの時、がっかりする川崎さんの顔を見たくなかった。僕のわがままで、期待させてしまったこと、謝ります。すみませんでした」
ヒデの言葉に先ほどまで泣き腫らしていた顔がにわかに明るくなる。
「じゃ、じゃあ、もし、もしね。平和な世界になって、ロイヤル・カーテスも既死軍も、蜉蒼だってなくなったら、その時、一緒に」
「いいえ」
まだ続けようとするレナをヒデはそう遮った。レナが言わんとすることは聞くに堪えなかった。そんな夢物語はこの世に存在しないことはお互いわかりきっているはずだ。
「僕たちはもう、会わないほうがいいです」
突然楽園から奈落の底に叩き落とされたように陰りを見せた。ヒデはその目を見据える。やっと二人の視線が合った。
「お互い祈りましょう。二度と会わないように」
「それでも、私は」
「これでもですか?」
ヒデは大股でレナに近づくと、手にしたままだった安全装置が外れた拳銃を額に突き付ける。
「何回も言わせないでください。川崎さんの命はこの弾丸一発よりも安い。僕はいつでも引き金を引けます。僕は既死軍だから、命令は絶対です」
「なら、電車で私を助けてくれたのも、既死軍の命令だったの? 誰かに言われて、私を助けたの?」
レナの瞳に映った自身の表情は一体何なのか。この表情はこれ以上レナに見せるべきではないとヒデは身を引いた。
「ご想像にお任せします」
安全装置を戻してホルスターにしまい、再びレナに背を向けた。
「僕のことは、忘れてください」
そう言い残したヒデは、その場に力なく座り込んだレナのことを顧みることはなかった。
レンジからは数人が外に逃げ出したという連絡があった。ヒデは南棟へは入らず、言われた方面へ向かう。しばらく走り、本当にこの方向で合っているのかと思い始めたころ、前を行く黒い軍服の背中が見えた。日は陰り始めたが、まだ十分視認できる。
横に並んだヒデはその男の名前を呼んだ。ヒデに気付いたルワは、まるで友達に会ったかのように歯を見せて笑う。
「おぉ、ヒデじゃん。久しぶり」
あっけらかんとしたルワの言葉に「いや、久しぶりじゃなくて」と苦笑する。
「じゃあ何? ここで会ったが百年目?」
「そういうことです。けど」
ルワは頷く。お互いが敵であることは間違いないが、今はそれよりも優先すべきことがある。
「今は後回しだな。ヒデ、近距離攻撃は」
「多分ルワのほうが得意です」
そうちらりと横目で見ると、ルワもヒデに視線を合わせ「了解!」と加速する。その手には、いつ抜いたのか軍刀が握られていた。ヒデは立ち止まり、今度は弓を手にした。やはりこちらの方が使いやすい。照準を合わせて弓を引く。
ルワの先を行くのは、レンジが言っていた逃げだした男二人だ。
男たちを追いかけるルワのすぐ横の風を切った矢は一人の脇腹に命中した。礼でも言うかのように左手を上げたルワは、倒れた男に気を取られた仲間に切りかかる。
頭主、もとい元帥が率いる既死軍も、皇の名のもとに集められたロイヤル・カーテスも、志は同じだ。利害さえ一致すれば、共闘するに越したことはない。しかし、お互いが煙たい存在であることに変わりはなかった。
置いてけぼりになっていた最初の被害者を引きずりながらヒデはルワに追いつく。
「何か情報引き出せました?」
「いや、聞いたは聞いたけど、敵に教えるわけないじゃん」
ルワと、ルワに襟首をつかまれている男を交互に見ると、ヒデは不満げに「そうですか」と呟いた。諦めたかのようなその表情に、ルワは敵ではあるものの、悪いことをしたかもしれないと多少の罪悪感を覚えた。この男たちを足止めできたのはヒデが初めに攻撃を仕掛けてくれたからだ。少しぐらいなら、と口を開こうとしたところで、ヒデは自分が連れて来た男を地面に放り出す。
「それなら、自分で聞くまでです」
そう言うが早いか、ルワの手から軍刀を奪ったヒデは横たわった男の太ももに勢いよく刀を突き刺した。間近で見ていたルワは躊躇のなさに「ひっ」と小さく悲鳴を上げる。既死軍が第三者を攻撃しているのを初めて見た。
ロイヤル・カーテスはどちらかと言えば既死軍や蜉蒼を「敵」と認識し、犯罪者とはいえ一般市民にそこまで手荒なことはしない。だが、既死軍はそうではないらしい。命の重さが決定的に違う。このままではロイヤル・カーテスは永遠に既死軍に勝てないように思えた。
「葦原中ツ帝国既死軍です。違法臓器売買につき、厳重に処罰します」
その名乗りを聞いて、生きて帰った人間はいないに等しい。
刃をねじると、それで音量調整でもしているかのように男の断末魔に似た叫び声が大きくなる。
「僕の質問に答えるだけでこの痛みから解放されるんですよ。いい取引ですよね」
そう笑顔を作るヒデだが、その表情は少しも笑っていなかった。
男からあらかたの情報を聞き出したヒデはルワに向き直り、粘着質にぬらりと赤黒く光る軍刀を差し出す。
「情報を共有したのはこれのお礼です。助かりました。それで」
ヒデは地面に置かれている気を失った二人の男を見下ろす。その視線につられてルワもヒデを同じ場所に目を落とした。
「ロイヤル・カーテスって、こういう人たちの処分どうしてるんですか? 意識のない人間って重いですよね」
当然のように同意を求められ、ルワは答えに窮する。曖昧な返事ではぐらかしたまま軍刀を受け取った。
「工場ってあと何人残ってました?」
「俺たちが認識してるのは三人だな。まぁ決着はついてるだろうけど」
「今日ってそっちは誰がいるんですか? ちなみにレナさんには北棟で会いました」
その一言にルワは驚いた声を上げる。
「な、何もしてないよな!?」
「人聞きの悪いこと言わないでください」
工場に走って戻りながら、ヒデは肩を並べるルワに渋い顔をする。泣かせてしまったことは間違いないが、敢えて言うほどのことでもないだろう。ルワもルワで、「それならいいけど」と話題を戻す。
「うちからはあとヴァルエがいる。そっちはレンジだよな」
「そうです。確かにその二人がいるなら終わってそうですね」
ロイヤル・カーテスの中でも「王」の名を冠するルワは当然として、「召使い」もそれに次ぐ実力の持ち主であることは知っていた。過去に自分の目の前でシドを骨折させたことがあるほどだ。
「さっさと終わらせて帰ろうぜ」
「同感です」




