91話 幽けし(かそけし)
この世界は、思い出だけが美しい。
まだ太陽も高く昇っている時間、廃墟と化した工場内を三つの人影が奥へ奥へと移動していた。前方を歩く黒い軍服姿の二人から少し遅れを取っていた影が小走りに声をかける。膝まである編み上げのロングブーツが荒れ果てた床で靴音を鳴らすたびに、それに合わせて長い黒髪と黒いスカートがふわふわと揺れる。
「ルワもヴァルエも待ってよー! 歩幅を女の子に合わせようとか思わないわけー!?」
振り返ったヴァルエは鼻で笑うことすらせず、一蹴する。
「俺たちに女もクソもあるかよ。さっさと来い」
「ひどーい!」
「じゃあレナ、俺がおぶってやろうか」
「やだ。絶対に触らないで」
「ちょっとー! 今の聞いたー!?」
大げさに声を上げるルワに、レナとヴァルエは「うるさい」と声を合わせて睨んだ。
「こいつが王とは、いまだに納得のいかない話だな」
「私もそう思う」
ルワは「レナにまで言われるとは思わなかった」とわざとらしく肩を落とし、とぼとぼと歩いて見せる。しかしそんな演技は相手にされるわけもなく、ヴァルエとレナは無視を決め込んで先を進む。横を歩いている、珍しく強い口調のレナを見下ろしたヴァルエは嘲笑気味に口角を上げた。
「例の王子様が死んでから女王様はご機嫌斜めだもんな」
「ご機嫌斜めっていうか、青春しようとした馬鹿な自分がイヤなだけ」
口をとがらせたレナは歩調を速め、肩を並べていたヴァルエより一歩先を歩く。ガラスもなくなった窓から差し込む日光に照らされるその顔は、不貞腐れた表情であっても美しかった。
「そうだな。レナが馬鹿だな」
ヴァルエの同意が癪に障ったのか、レナはたまたま通りかかった搬出口に方向を変えて歩き始めた。
「私、北棟行くから。ついて来ないで」
「レナだけじゃ危なくねえか?」
「女もクソもないんでしょ」
ヴァルエの取り繕うような申し出を間髪入れずに断ると、振り返ることもせず鎖で繋がれた南京錠を軍刀で叩き切り、外へと姿を消した。眉間にしわを寄せたヴァルエは「めんどくせ」と吐き出す。
「いやぁ~、さっきのは蒸し返したヴァルエが悪いんじゃない?」
取り残される形になった二人は再び長く伸びる廊下を歩き始めた。
「そんなこと言われてもな」
「ヴァルエは青春の何たるかがわかってない」
知ったような顔をするルワを再び睨みつけるように一瞥したヴァルエは舌打ちをする。
「そういう話はトロアとかノーフとかの担当だろ。俺に振るな」
「あ~、それもそうか」
「納得されるのは、それはそれでムカつく」
その返答にルワはけらけらと笑っていた。
任務中でなければ、だれでもするような、ありふれた雑談だ。しかし、急に笑顔を消したルワは視線を暗がりに向けた。するりと軍刀を鞘から抜くと、何も告げずに暗闇に走り始めた。ヴァルエもそれに倣う。
「人影、俺には一人に見えた」
後ろからヴァルエが現状を確認する。
「俺もだ。けど、事前情報では複数人だったから仲間がいるはずだ。俺はこのまま追う。レナに報告してくれ。合流するかどうかは任せる」
「了解した」
ヴァルエは立ち止まって無線を取り出し、レナに今の出来事を伝える。すぐに応答があったが、レナの方は何事もないらしかった。しかし、どうやらまだ機嫌は治っていないようで、ぶっきらぼうな返事があっただけで一方的に無線を切られた。ヴァルエは再び「めんどくせ」と渋い顔をする。
それとほとんど同時刻、レンジとヒデは同じ廃工場の入り口に立っていた。こんな時間から任務があるのは久しぶりだった。まだ明るい空を見上げ、レンジは「暗くなる前に帰ろうぜ」と拳を鳴らした。
「隣に北棟もあるけど、どうする? 別々に見る?」
「そうだな。俺は南棟から見て回る。どうせ取引するやつらなんか相手にもならないだろ。ロイヤル・カーテスとか蜉蒼とかがいないのを願うだけだな」
「了解。じゃあまた後でね」
軽く手を挙げて返事をすると、レンジはまっすぐ進んで行った。ヒデは方向を右に変え、北棟の従業員用の扉から入った。建付けの悪い扉は鍵すらとうの昔に壊れているようだ。窓から日光は差し込んでいるものの、どこか薄暗く陰気な雰囲気だ。ここが廃墟だらけの工場地帯であることを考えると、それも納得できる。
一月も中旬になり、寒さは厳しくなる一方だ。ヒデは白い息を吐きながら、大して暖かくもない太陽の明るさだけを頼りに工場内を歩き始めた。
今回の任務は、ここでもうすぐ行われる取引現場を押さえることだった。取引されるのは臓器らしいが、当然、国で認められた合法的なものであるわけがない。嫌な役目が回って来たものだと小さく笑った。その笑みには、こんな非現実的な取引をあっさりと受け入れている自分に対する嘲笑も含まれている。
北棟は廊下らしいものもなく、部屋から部屋へと移動していく建築様式だった。死角だらけで見通しが利かないところが多く、ヒデは影から影へと気配を消しながら進んでいく。拳一つで戦えるレンジと違って、身長を超える大弓を使うヒデは、今回ばかりは弓は背にしたまま拳銃を手にしていた。
室内は突然廃業したかのように機械や道具などがごちゃごちゃと置かれたままになっていて、一歩進むだけでも物音を立ててしまいそうになる。次の部屋へと足を踏み入れる度に緊張感が増していく。事前に頭に入れてきた構内図が正しければ、最深部はこの建物の中心に位置する、壁で囲まれた窓のない唯一の空間だ。
もし相手が戦闘知識のないただの悪人だったとしても、逃げ道のないそんな所に入り込むはずがないと高を括っていた。早く確認し終えてレンジと合流しようと、ヒデは一歩踏み出したときにふと足元を見た。そう言えば、今まで通ってきたどの部屋にも足の踏み場があった。歩きにくくはあるが、それは確かに扉へと続く人為的に形成された道のように思えた。
北棟の入り口も搬出入口も、確認した限りは鍵が掛かっていなかった。所有者すら管理していない建物ではよくあることだ。しかし、床の埃の積もり方を見る限り、この辺りの物が移動させられたのはどうやら比較的最近のようだった。
しゃがんでいたヒデは立ち上がり、自分がこれから向かう先に目を向けた。
既死軍と同じ情報を掴んでいればロイヤル・カーテスが、取引に噛んでいれば蜉蒼がいる可能性は極めて高い。建物の構造が異なる北棟と南棟を比べると、南棟のほうが万が一の場合も逃げ道が多い。恐らく取引は南棟だろう。もし蜉蒼が関係者であればまっすぐ南棟に向かうに違いない。
消去法から導き出されたのは、北棟にいるのはロイヤル・カーテスかもしれないということだった。
ロイヤル・カーテスであれば拳銃に加え、数人は軍刀も持っている。ヒデは鉄筋を拾い上げて接近戦に備えながら、より一層の注意を払って前へと進んだ。残るは四部屋だ。
ヒデが到達するよりも先に、レナは北棟の窓のない、壁に囲まれた部屋に着いていた。ぐるりと見回してみても、まだ何があるのかははっきり見えない。明かりの入らない部屋では目が慣れるまでに時間がかかる。一般的には三十分ほどらしいが、今まで薄暗い部屋を通ってきたレナであれば、もっと短時間で順応できる。
ルワとヴァルエからの人影を見たという連絡から考えると、北棟は人がいないことさえわかればもう用はないだろう。レナは静かに部屋の中を歩き、入り口からは見えなかった場所を確認していく。室内の物全てが埃っぽく、久方ぶりに入室したのが自分であることを感じた。
指で機械の縁をなぞると、白い手袋が黒ずんだ。かつては確かに動いていたはずのこの機械は、もう動かしてくれる人間もいなければ、必要とする人間もいない。このままだんだんと汚れがたまり、いつかは形も保てなくなって崩れるだろう。こんな末路を表すのに「運命」や「宿命」といったそれらしい言葉はあるが、どれも納得するには説明が足りないように思えた。
軽く汚れを払ったレナは顔を上げて軍刀を鞘から抜く。かすかだが、どこかで金属がぶつかったような音が聞こえた。万が一に備え、明かりを取り入れるために開け放したままにしていた扉の近くに潜んだ。
ヒデは最後の部屋の前に立っていた。ぽっかりと口を開けたままにされている扉の向こうは、見る限り何も手掛かりがなさそうで、真っ暗な室内には入る価値もないように思えた。しかし、まだ肝心の北棟にいるであろう人間には出会えていない。ここに辿り着くまでには、いくつか部屋の通り方がある。どこかですれ違ってしまったのかもしれないが、最後のこの部屋を調べないわけにはいかない。
一歩室内に踏み込んだところで、右側から軍刀が降り下ろされた。鉄筋を持っていたことが奏功し、攻撃を防ぐことができた。辺りに鋭い金属音が響き渡る。
相手の顔には影が落ちたままで判別はつかないが、太刀筋から察するに身長はヒデより低く、身軽そうだった。既死軍が得ている情報では、ロイヤル・カーテスで軍刀を持っているのは四人。その中でヒデより明らかに背が低いのは女王しかいない。
暗闇に慣れた目が捉えた、いつか見た黒い軍服とスカートに、いつか見た高校の制服姿が重なる。
レナも目は順応しているようで、正確にヒデを狙って攻撃を仕掛けてくる。だがヒデは無言のままそれを受け流していく。反撃はしなかった。一旦後退したレナは、体勢を立て直すように軍刀を握った。肩で息をしているのが呼吸音から伝わってくる。
「その白い制服、既死軍だよね。誰か知らないけど、わたしたちの邪魔はさせないから」
レナに背を向けている状態のヒデは鉄筋を手から滑らせ、床に落とす。
だんだんと落ち始めた日が影を長く伸ばしていく。それに伴って室内に入り込む明かりも、今や爪先から頭までをはっきりと照らしていた。
「やっぱり、あなたはロイヤル・カーテスのレナでしたか」
「私のこと知ってるの? やっぱりって、あなた、だれ?」
誰何しながらも、レナはその光の中に見える後ろ姿に一人の人間を重ねていた。既死軍の制服に大弓、それは紛れもなく「ヒデ」という人間であることは理解していた。だがしかし、その身長も、その短い黒髪も、その声も、この世から消えたと思っていた。二度と会えないと思っていた。
悲しくも美しい思い出のまま、淡く儚い別れのまま、終わっていたほうがよかったのかもしれない。「もう一度会えたら」と何度思ったことだろうか。しかし、こんな形での再会など望んではいなかった。
軍刀を両手で握っているというのに、切っ先はカタカタと震え、狙いが定まらない。
冷気を纏った風がヒデの短い髪とレナの長い髪を同じ方向へと吹き抜けていく。
「レナさん。いいえ、川崎さん」
既死軍の白い制服を翻し、ヒデは振り返る。その目はまっすぐレナの瞳を射抜いていた。
「僕は、謝ることがあります」




