90話 正しさ
目を離せ、心を離すな。
ミヤは自分の事務所まで二人を送り届けると、自分は車から降りることもなく、そのまま葉山の私邸へと引き返していった。ケイに嫌味を言った通り、事後処理が山ほどあるのだろう。取り残されたケイとシドは無言のまま地下へ下り、移動器でルキの事務所へと向かった。
数時間の間、二人が喋ることはなかった。ケイは日頃の疲労とシドを無事に取り戻せたという安堵も相まって、座るなりすぐに眠りに落ちていた。一方のシドは、ぼんやりと変わることのない車窓の外を見つめている。
これからの自分はどうあるべきなのか、そもそも正解があるのかすらわからない。今まではミヤの言う通り、元帥の跡を継ぎ、「既死軍を率いる人間になる」ために生きてきた。ミヤが望むなら、理想であるなら、それが正しいと思っていた。しかし、現実を突き付けられてみて初めて、本当は自分自身はそんなことは微塵も望んでいなかったと理解した。
ミヤの望みと自分の望み、どちらを優先するべきなのか、今までは考えたことはおろか、頭に浮かんだことすらない疑問だった。
地下の暗闇は自分の人生を振り返るにはいささか短すぎた。答えに繋がる糸口も見つからないうちにルキの事務所に着いてしまった。
シドは軽くケイの肩を揺すって起こす。
階段を上がり、ルキがいる部屋の扉を開けるが早いか、「お帰り~!」とルキがシドの首元に抱き着いた。ケイは横目に、シドに手で顔面を押しのけられながらも満面の笑みを湛えているルキを見遣る。
「言っただろ、約束するって」
「流石ケイだよ~! ありがと~! もう会えないかと思ったらさ~、やっぱり寂しかったよ~!」
「既死軍に必要なだけだ。ルキが寂しいかどうかは知らん」
その言葉に、シドが珍しく「ケイの言うとおりだ」と面倒くさそうに付け足す。やっとのことでルキを首元から引きはがしたシドは室内には入らず、ルキに軍刀を渡すとすぐさま二階へと向かった。軍服を着替え、堅洲村へと帰るのだろう。
ケイは階段を下りるシドを見送ると、来客用のソファに座った。背もたれに身体を預け、一息つく。
「久しぶりの頭主さまはどうだった~?」
二人とも無事に帰って来たことがよほど嬉しいのだろう。正面に座ったルキはにこにこと尋ねる。低めのテーブルには今シドから手渡された軍刀が置かれている。そこに並べてケイも自分の軍刀を置く。
「相変わらず、だな。直接話すのは未だに、何というか」
伏し目がちに口ごもるケイに、ルキはけらけらと笑う。
「苦手、って言いたいんでしょ~? 隠したってルキさんにはわかるよ~」
「いや、そういう訳じゃないんだが」
「色んな感情の入り混じった『苦手』なんでしょ~? 畏怖とか畏敬とか~、なんて言うか、う~ん。何か、そんなやつ~」
「ルキもわかってないじゃないか」
呆れを含んだ声に、ルキは再び笑いながらたばこに火をつけた。
「そんなところに行ってくれて、本当にありがとうね~」
「さっきも言ったが、今、任務に必要なだけだ。時期が来たらまた同じことになる」
「頭主さまからの命令だからさ~ルキさんも当然従うよ~。でもさ~やっぱり、ケイとかシドとかが、いや、誰でもさ~、いなくなるのは寂しいよ~。ケイもそうでしょ~?」
その言葉は吐き出した煙と共に空気中へと消えて行く。
「寂しいかどうかは知らんが、感情のない人間なんていうのはいない。まぁそれをどのくらい表に出すかはあるだろうがな。俺は隠せと言われれば隠せる」
「大人だね~。ルキさんは隠せないや~」
「そうやっていつもへらへら笑ってるほうが、俺にとっては本心が見えなくて不気味だけどな」
たばこを吸うたび、先端が赤く光る。その口元は相変わらず張り付いたような微笑みを湛えている。肯定も否定もせず、ただ手元だけを動かして白い煙で虚空を埋めていった。
何か思うところがあるのか、ルキはしばらく黙ったままだ。その様子に、ケイは帰ろうと少し腰を上げる。そこでルキが「だってさ~こうでもしてないとさ~」とぽつりとつぶやいた。ケイは動きを止め、うつむいていてよく見えない表情に目を向ける。
「寂しいって自覚しちゃうから」
見えないその顔は、いつも通りの笑顔なのだろうか。それとも、普段は見せることのない顔なのだろうか。二人しかいない空間が急に物寂しく感じられた。ケイは固く口を結ぶ。
「ルキさんには、別れは突然のほうが合ってるんだろうね。別れの言葉なんて聞きたくないよ。もう会えないなんて、事前に知りたくない」
「それを、俺に言われてもな」
自分でも冷淡な言葉だと気付いたときには、もう口からこぼれていた。顔を上げたルキを直視できず、顔をそむける。しかし、返事は実にあっけらかんとしたものだった。
「まぁ、それがケイのお仕事だもんね~」
「俺ももう帰るぞ。いつまでもイチに情報統括官を任せておくわけにもいかない」
今回ばかりはルキの間延びした声に助けられたと、一瞬にして事務所を居心地の悪い空間にしてしまったケイは足早に部屋を後にした。階段を下りる一瞬、ルキが「またね~」と手を振っているのが横目に見えた。
再びこの事務所へ来ることはあるのだろうか。もし仮に、シドが再度頭主の元へ行く日が来ても今度ばかりは取り返すことはできない。そうであれば、次はいつ、どんな用事でここへ来るのだろうか。もしかしたら二度と来ることはないのかもしれない。
軍服を寒々しい服に着替えたケイは横に置かれていた厚手のコートに袖を通す。少し色褪せた紺色のコートだ。着の身着のままやって来た、季節感のないケイの服装を哀れに思ったのか、ルキが用意していたらしい。流石に靴までは用意できなかったかと、軍靴を脱いで草履をつっかけた。
普段、くたくたの着古した服しか着ていないケイにとって、かっちりとした軍服は息が詰まるようだった。ましてやそれがミヤと頭主が常にそばにいる状況であれば尚更だった。やっと解放されたと長く息を吐き出す。
昼夜もない自分が言うのもおかしな話だが、長い一日だったように思う。今日ぐらいは宿に帰ってゆっくり休んでも罰は当たらないだろう。そんなことを考えながら、ほとんど廃墟となった町を抜け、樹海に足を踏み入れた。
陽も落ちた樹海は今通った道さえすぐにわからなくなる。前進しているのか、後退しているのか、ただ自分の記憶と勘に頼るしかない。現役の誘だったときは目をつぶってでも通り抜けることができただろう。しかし、数年ぶりの今となっては、そんな危険なことをする気にもならない。無謀さを失った自分に、年を取ったもんだと小さく笑う。
一人暗闇に放り出されると、今まで考えないようにしていたことが次から次へと、早送りのように頭にあふれてきた。それを再び記憶の箱に押し込んで蓋をしているうちに、行きよりも少しだけ時間がかかったが、迷うことなく堅洲村へとたどり着いた。
村の入り口にぼんやりと人影が見え、一体誰かと身構える。だんだんと満月に近づいている明かりがその人物を照らす。少し開けた場所に佇んでいるそれは、目を凝らすまでもなく、イチだということがわかった。
イチもケイの姿を認めたようで、小走りにケイの方へと向かって来た。まさか出迎えがあるとは思っていなかったケイは、多少どもりながら「どうした」と尋ねる。
「ルキさんから連絡をもらって」
わずかにケイを見上げながら、イチは「ケイさん」と呼びかける。電子合成音に感情などないはずだが、ケイにはその声が嬉しさを含んでいるように錯覚した。
「僕は今まで誰が死んでもいいって思ってました。訃報はただの情報の一つで、何も感じませんでした。けど、初めて人の安否を心配しました。もう二度と帰って来ないかもって思うと、その気持ちは言葉にできません」
初めて聞くイチの弱音にも似た言葉にケイは唇を噛む。死に対しての感覚が麻痺しきったケイにとって、その言葉は新鮮でもあり、陳腐でもあった。イチと自分、どちらの感情が人間として正しいのだろうか。
「だから、一番に言うために待ってました」
目を細めるイチのその様子は、フェイスマスクで見えない口元まで笑っているように見えた。
「お帰りなさい、ケイさん」
一瞬、ケイは眉をひそめた。イチのその感情は「既死軍として」正しくない。正しいのは間違いなく自分のほうだ。しかし、自分の意思とは裏腹に、思わず表情を崩して口を開いた。
「ただいま、イチ」
シドは玄関から一直線に自室へと戻る。明かりも何もないが、シドにはそんな物は必要なかった。間取りも、物の配置も全て記憶している。
雨戸を開けると、月明かりが室内に差し込んだ。数週間無人にしていた割には、屋内の空気が淀んでいないように思えた。誰かが定期的に換気をしていたことが窺える。シドやミヤが再びこの宿に戻ってくるのを期待して待っていたのだろう。
既死軍の制服を着替え、いつもの着流しに半纏を羽織る。縁側に胡坐をかくと、愛用している銃の手入れを始めた。頭主の家では拳銃も軍刀も取り上げられ、こんな何気ない日常すら許されない日々が続いていた。シドは手を止め、月を見上げる。
冬とは、こんなにも肌を貫くような、肺まで凍るような寒さだっただろうか。澄み渡った空には、こんなにも星が瞬いていただろうか。
自分の生まれ育った堅洲村は、こんなにも美しかっただろうか。
シドは傍らに拳銃を置き、立ち上がった。
「ミヤ」
ミヤが何者だったとしても、全てが命令だったとしても、堅洲村で共に生きてきたことに変わりはない。シドにとってはここが世界で、ここが人生だった。
「俺は、葉山志渡には、ミヤの理想にはなれない」
そのつぶやきは白い息と共に夜空に溶けていく。
「俺は最期まで既死軍のシドを貫く」




