86話 毀つ(こぼつ)
持たないもの、失ったもの。
「ここの火薬も二階のやつらの命もお前らにくれてやる。だが、俺たちはそこの男を手放すわけにはいかない。返してもらう」
那由他の言葉にヤンは「やっぱり使い棄てじゃねぇか」と二階で痛みに耐えている男たちに向けて小さく吐き捨てた。
「人質がいるのは想定外だったが、いる以上は守らなきゃならねぇ。俺たちやお前らと違って、あの男にはまだ『人権』ってもんがある」
那由他は鼻で笑い飛ばしながら、弄んでいた円月輪の円状に空いた穴に人差し指を入れ、くるくると回し始めた。
「人権が無い者同士、と言えば聞こえはいいが、決定的に違うものがある。失った人間と、元から持っていない人間だ。俺たちを、お前らごときと一緒にしてくれるな」
「そこまで言うなら、裔民らしく地べたに這いつくばっててもらおうか」
ヤンは手にしていた鞭の先端を威嚇するように床に叩きつけた。乾いた音が静寂を切り裂き周囲に響き渡る。
裔民、それは帝国唯一の貧民窟「黎裔」に生まれ育った人間たちのことを指す。帝国民の日常からは隠匿され、隔絶されたその場所は世界有数の武力を誇る帝国軍でも介入が許されない、一つの国にも似た統治体制を持っている。
帝国で一握りの人間しか知らない「黎裔」。既死軍に仇なす蜉蒼はそんな所から生まれた。どういう経緯で既死軍の存在を知ったのかはわからない。それでも、既死軍に牙を剥き、一般人を巻き込むことすら厭わないのであれば、頭主も目をつぶるわけにはいかなかった。
それが、既死軍が蜉蒼と戦い続ける理由だった。
しかし、ほとんどすべてが謎に包まれている蜉蒼は、ケイがどれほど調べても、明らかになったのは、「風真」と呼ばれる人間が率いているということだけだった。黎裔に潜入さえできれば何か掴めることはあるのだろうが、現状のままでは犬死にさせに行くようなものだ。
ケイは無線越しにイチに指示を出す。何としても蜉蒼の情報が得られそうなこの機会を逃すわけにはいかない。キョウの義眼カメラが使えなかったのは痛手ではあるが、イチがいればどうにかなるはずだ。
『イチ、火薬庫のことは大体わかった。あとは俺に任せてくれ』
「わかりました。那由他の情報収集に向かいます」
『話が早くて助かる』
ケイは今しがた聞いた火薬庫の情報をまとめながら、自分の過去を思い出していた。自分は幼いながらも、まだ元帥になる前の葉山たちに許され、軍に所属していた。幼すぎるという理由でたびたび蚊帳の外に捨て置かれはしたが、軍の内部事情はあらかた風の噂で仕入れることができていた。今回の火薬庫の件も、当時の記憶を引っ張り出した結果見つけたものだった。こんなことになるなら、もっと様々なことに首を突っ込んでおくんだったと変わることのない過去にため息をついた。
数十分前までいた兵舎に再び戻ったイチは器用に窓枠や縦樋をよじ登って二階に侵入した。そこはちょうどベッドに倒れたままの男がいる部屋だった。手間が省けたと言わんばかりにイチは懐に隠していた注射器を取り出し、抵抗する男に液体を注入していく。
「蜉蒼のこと、何か知ってる?」
先ほどまでは暴れるように手足をばたつかせていた男だったが、今は眠りに落ちる直前のように虚ろな目になっている。
「蜉蒼は神様だ。俺たちを助けてくれる。家族を楽にしてやるからここで人質の監視をしろと言われた。きっと家族は今幸せに暮らしている。蜉蒼は神様だ」
「うわ言は当てにならない」
ヤヨイの言うとおり、自白剤ごときでは期待した答えが帰って来るわけではなさそうだ。自白するというよりも嘘が付けなくなると言ったほうが正しい代物らしい。廊下にいたもう一人の男にも試してみるも、同じような返答だった。
期待外れの結果に不満そうな顔をしたイチだったが、この人間たちには何の利用価値もないことがわかっただけでも収穫だと、資料が置かれていた部屋へと向かった。残すは那由他から直接情報を引き出すだけだ。簡単に口を割るような相手ではない。だからこそ、口からではなく行動から情報を得ることになっている。
イチは歩きながら現在進行形で戦っているであろう階下の三人に無線を入れる。
「ヤン、二階で抜けそうって言ってた廊下の場所、覚えてるね。資料室の前あたり。あそこの下まで那由他を誘導して。合図をくれたら僕が二階から攻撃する。返事は不要。以上」
イチは資料室に入ると、先ほど見つけていた、まだ新しい鎖を手に巻き付けた。今の建築基準法が施行されるよりも遥か昔に建てられたこの兵舎、ましてや年月が経って腐っている床板だ。強度など取るに足りないものに違いないというのがイチの算段だった。
イチは薫陶にもあまり参加しない非戦闘員で、誘かどうかも怪しい立ち位置だ。それでも、既死軍である以上、闘いの術は身に着けているつもりだった。
ヤンならケイのお墨付きをもらっている通りの働きをするだろう。それでも、自分はただ黙って見ている気にはならなかった。手柄が欲しいのかと言われたらそうではないが、守られているだけの自分には嫌気がさしていた。口では「自分を守れ」と言っておきながら、矛盾した感情だと深く息を吐き出す。
この古びて腐った木製の床を打ち抜いて那由他に傷の一つでも負わせることができれば、その瞬間にヤンが情報発信機をうまく取り付けるだろう。今回の目的は蜉蒼や那由他を倒すことではない。イチは静かにその時を待った。
イチから無線を受けたヤンは記憶を頼りに那由他を後方へと追い込む。手のひらほどの円月輪は一体何枚あるのか、「那由他」の名前の如く、ほとんど無尽蔵のような勢いで投げられる。それを鞭で払い落とすだけで精一杯で、攻撃を加えることは難しく思われた。しかし、ケイに託された位置情報発信機を取り付けないことには今回の「勝利」はあり得ない。
ヤンはちらりと那由他の後ろにいるヒデに目を向けた。銃と弓という遠距離攻撃用の武器しか持たないヒデは自分よりも那由他との相性は悪そうだった。飛び交う円月輪に多少傷を負っているように見えたが、銃を構えているところを見ると心配するほどでもなさそうだ。
その銃口がどこを狙っているのかは一目瞭然だった。那由他の腰当たり、「六十」と書かれた羽織が翻る瞬間に見える円月輪が取り付けられた縄のような帯締めだ。指よりも細いその個所を打ち抜かれるとは露にも思わないだろう。
「二人もいて、防ぐだけで精一杯か。既死軍も大した事ないんだな」
那由他は鼻で笑い飛ばすように一瞬動きを止めた。方向を変え、より防御力の低そうなヒデの方に狙いを定めた瞬間、銃口が煙を上げた。
「かすりも当たりもしないな!」
そう口角を上げたところで、金属音が散り散りに響いた。驚いた那由他が音の方を振り返ると、帯締めがだらりと垂れ下がり、廊下中に円月輪が散らばっていた。
「イチ、今だ!」
合図を受けたイチは持ちうる限りの力を込めて、鎖を巻き付けた拳を床に叩きつけた。一拍遅れて、木が割れる轟音とともに床が抜け落ちる。
頭上の異変に気付いた那由他は直撃は免れたものの、落ちてきた天井に右足を挟まれ、その場に倒れていた。その表情は痛みではなく、怒りに染まっているように見えた。那由他は握りしめた手で床を叩き、悔しそうに吠える。
「恵まれてるくせに、何で俺たちの邪魔をするんだ!」
「恵まれてるかどうかは自分で決める。お前らが決めることじゃない」
しゃがんで視線を合わせたヤンは人差し指で那由他の顎を持ち上げる。
「弱い犬ほどよく吠える、ってな」
「イヌはお前らだ」
唾を吐きかけられたヤンは奥歯を噛んで暴走しそうになる感情を制止した。鞭で首でも締め上げてやろうかと考えていると、階段を下りてきたイチがヤンの肩を掴んで場所を交代させた。
「人質の首についてた爆弾、あれのこと教えて」
初めて聞く、人間の物ではない声色にぎょっと目を見開いた那由他だったが、それはすぐに睨みつける表情に変わった。
「解除したのはお前か。つくづく、嫌な集団だ」
「位置情報を使った爆弾って、その知識と技術はどこで手に入れた」
「お前、口も動かさないし、その声も気味悪いな」
質問には答えることなく、那由他は黒いマスクで隠されたイチの口元を見る。イチはそんな不躾な言葉にも慣れているのか、目だけで微笑む。
「僕の声は『そっち』に置いてきた。見つけたときは返してくれたら嬉しい」
その微笑みを嘲笑で返した那由他はゆっくりと上半身を起こし、辛うじて感覚の残っている右足を瓦礫から引っ張り出した。
「世界の果てで失ったものは戻らない。助かった分際で、まだ求めるか」
「助かったからこそ、求める」
イチは手を差し出し、那由他が立ち上がるのを手助けしようとする。那由他はその手を払いのけることもせず、見えていないかのように自分の力だけで立ち上がった。
「俺を見逃すって言うのか」
「逃がさない。まだ聞いてないことがたくさんある」
イチは顔を近づけたかと思うと、那由他の腕を掴み、注射器を衣服の上から突き刺した。短いうめき声を出した那由他だったが、鋭い痛みに自分が何をされたかには気づいたらしい。隠し持っていた最後の円月輪を懐から取り出したかと思うと、自身の右腕を肘の上から切り落とした。
自分を奮い立たせるように、那由他は食いしばった歯の隙間から荒く呼吸をする。
「自白剤の類いか。俺は、そんなものには屈しない」
「これは驚いた。その気概、見上げたものだ」
目を丸くしながらも、イチは床に落ちた腕の切り口を勢いよく踏みつけた。鋭利に切断された四肢であれば治療方法によっては再接着が可能だ。そのわずかな可能性がどのように悪影響を及ぼすかわからない。悪い芽は早めに摘んでおくに越したことはない。
「自白剤はそれが最後の一本だった。これで僕らの手は尽きた。この場を去るならご自由に」
那由他は先ほどヒデに撃ち抜かれた帯締めを使って、口と残された左手で器用に傷口を縛った。圧迫止血したものの、そこからはまだぼたぼたと赤黒い血が床に落ちている。
「恩情でもかけたつもりか」
「違う。殺すなら、もっと凄絶で、凄惨にしたいだけ」
口内に溜まっていた血を吐き捨てた那由他は「次はお前らがこうなる番だ」と残し、右足を引きずりながら兵舎を後にした。




