85話 忘己利他(もうこりた)
伝道師が、喧伝する神。
「なぁ、変な音しねぇ?」
物音を気にする必要がなくなったヤンは堂々と木製のドアを鞭で破壊し、残りの一部屋を調べていた。しばらくして、廊下に現れたヤンは島の入り口の方を見ながらヒデに尋ねた。ヒデも耳を澄ませてみると、波音に紛れてはいるが、確かに甲高い犬笛のような音が聞こえていた。
ヒデはうなずくと、島へと繋がる唯一の道が見える窓から様子を窺った。月明かりに反射する海のうねりで幾らか視界は明るく見えた。しかし、肝心の音の正体はわからなかった。
「お前らは、終わりだ」
何かを察したのか、床に倒れている男がかすれた声でつぶやいた。ヤンとヒデは振り返り、乾き始めた赤黒い血に塗れている男を見下ろした。その言葉を鼻で笑ったヤンはもう一度鞭を振り下ろした。乾いていた血痕に再び濡れた赤色が上書きされる。
「うるせぇやつだな。命乞いの一つでもしたほうが可愛げがあるってもんだぞ」
ヤンが吐き捨てたかと思うと、それと同時に無線からレンジの声がした。
『今の音、聞こえたか? 松永が言うには蜉蒼の仲間が来る合図らしい。こっちに集まるか?』
一瞬「そうだなぁ」と首をひねったヤンだったが、目でヒデを階下へ促した。
「二階のやつら、口を割らせる価値もない。捨て駒らしく有益な情報は持ってなさそうだ」
ヒデの後ろを歩きながら、ヤンは廊下に倒れ込んでいる男に聞こえるようにわざとらしく連絡を入れた。今しがた出会った二人は、ただ松永の監視と、火薬の管理を任されているだけなのだろう。彼らは蜉蒼から与えられる「任務」を誇りに思っているようだったが、それはヤンからしてみれば消耗品に聞こえのいい役割を与えているようにしか見えなかった。
ヤンは男に背を向け、階段へと向かった。背後からは男の絶叫にも似た声が聞こえてくる。捨て駒じゃない。俺たちは信頼されて任務を任されている。そんな幻想のような「台詞」を、よくもまぁ大の大人が恥ずかしげもなく言えたものだと、相手にすることもなく角を曲がって階下へと降りた。
レンジたちのいる部屋に入ると、先ほどと同じ体勢ではあるが、より怯えきった様子の松永がいた。両手で頭を抱え、目に見えてガタガタと震えているのがわかる。
「爆弾は解除できたっていうのに、さっきの音が聞こえ始めてからこの調子でさぁ」
ヤンとヒデを見た途端、呆れたようにレンジは口をとがらせる。松永の隣に腰掛け、落ち着かせるように背中を撫でているイチもその言葉に同意するように何度かうなずく。
松永をなだめるのも飽きたのか、ベッドに置かれていた首輪を手にして立ち上がったイチは三人に指示を出した。その足はドアへと向かっている。
「爆弾は解除できた。僕は火薬庫へ行く。それで、これからみんながやることは二つ。松永を生きたまま助け出すこと、蜉蒼を迎え撃つこと。以上」
「あれだけ言ってたくせに、イチのことは守らなくていいのかよ」
驚いたように尋ねるレンジにイチは目だけで笑いかける。
「僕だって既死軍だから自分のことぐらい自分で守る」
一人兵舎を離れたイチは言葉通り火薬庫へと向かっていた。旧帝国軍の時から変わっていなければ、島にある小高い丘が洞窟型の火薬庫になっているはずだ。幸い、その道のりは島の入り口からは死角になっている。蜉蒼は恐らく一直線に兵舎へと向かうだろう。万が一にも見つかる心配はなさそうだ。
自分の役割は理解していた。戦闘が得意ではない以上、足手まといになるわけにはいかない。それなら、既死軍のために少しでも情報を集めていた方が得策だ。それがもし、散ることになったとしてもだ。
イチは走りながらケイに話しかける。
「ケイさん、僕に何かあってもいいように、先に島で得た情報をお伝えしておきます」
『早めに情報もらえるのは助かるんだが、イチが帰って来ないと誰が俺の飯作ってくれるんだ』
「食事に関してはちゃんとアレンさんに頼んでます。けど」
自分の声に感情や抑揚など存在していないことは重々承知していた。自分ですら本当の声は忘れてしまった。それでも、自分の言葉が含む意味はきっとケイに届くことだろう。
「僕はまだケイさんにお雑煮を食べさせていません」
再び二階に戻っていたヒデは双眼鏡で島の入り口を監視する。犬笛のような音が聞こえてからしばらく経ったが、誰かが向かって来る気配はない。気付けばその音も消えていた。
異変を感じてこの島へ来ることを諦めたのだろうか。しかし、蜉蒼がそんな理由ごときで尻込みするような人間たちではないことは既にわかりきっていた。それよりも万全を期すために一時的に身を隠したと考えた方がよさそうだった。
ケイからの報告ではこの島へと繋がる道が海に沈むまで残り一時間半を切っているらしい。それまでには決着をつけて帰路につかなければならない。
そんなことを考えていると、暗闇にきらりと光るものが瞬きの刹那に見えた。見間違いではない。確かに、何かが月明かりに反射していた。無線で連絡を入れようとすると、それよりも早く声が聞こえた。
『ヤン、ヒデ、来たぞ! 蜉蒼だ』
島の入り口にはレンジの糸が張り巡らされていた。それをだれかがプツリと切ったようだ。無線は張り詰めた糸が弛緩したのを察知したレンジからだった。姿が見えないことを考えると相手も飛び道具を使っているらしい。先ほど見た鈍い光が恐らくそれだろう。
既に弓は引き絞られ、臨戦態勢だ。見えはしないが、確実に近くには相手がいる。窓枠に身体を添わせたヒデは全神経を集中させ、一点を見つめる。
その時だった。光を受けて煌めく閃光がヒデを目掛けて一直線に飛び込んできた。驚きはしたものの、ヒデはそれを難なく射落とす。地面に落ちて行ったのは手のひらより少し大きい円の外側に刃物が付けられた武器だった。それを受け止めようとするのか、人影がいつの間にか兵舎に近づいていた。はっきりとは見えなかったが、赤黒い羽織が翻っているようだった。
今の状況を無線で伝えながら、ヒデは二階の窓から飛び降りた。ちょうど人影の後ろを追う格好だ。屋内にはレンジとヤンが待ち構えている。挟み撃ちにできれば言うことはない。ヒデが着地したのは玄関から少し左手、松永たちがいる部屋の近くだった。窓をよじ登り廊下に出ると、男がヤンたちの前に姿を現したところだった。その背中には、いつか聞いた「六十」の数字が書かれている。肩よりも少し短い、切り揃えられた髪が揺れる。
これが蜉蒼の那由他だ。
今まではっきりとした姿を捉えたことは一度としてなかった。やっと蜉蒼に繋がるはっきりとした手掛かりにたどり着いた。この機会を逃すわけにはいかない。ヒデはごくりと喉を鳴らし、小さく深呼吸をした。
「起爆装置が作動しないからおかしいと思ったら、俺たちのシマを荒らしてんのは既死軍か? それともロイヤル・カーテスか? あぁ、どっちでもいいや。帝国のイヌに変わりはない」
それは嫌に落ち着いていて、妙な安心感を与える声色だった。するりと心の隙間に入り込み、気付いたころには精神を掌握していそうな存在に思えた。それが二階の彼らが蜉蒼に心酔していた理由かもしれない。神を神たらしめるのは、伝道師の巧みな話術があってこそなのだとヒデは感じた。
「せっかくだ、自己紹介でもしておこう。俺は那由他。蜉蒼を統御する者、風真の右腕」
真正面で対峙するヤンは鞭を構え、睨みつける。那由他は冷めきった感情のない目でヤンを見据える。
「風真は行方不明になったはずだ。新しい風真か? それとも」
「風真は何度でも蘇る。何度でも立ち上がる。帝国が俺たちから目を背け続ける限り、俺たちは戦う」
「『俺たち』とは、蜉蒼のことか?」
「さあな」
片側だけ口角を上げ、にやりと笑った那由他は手にした円形の武器、円月輪を人差し指でくるくると回して弄ぶ。
ヤンと那由他が口にした「風真」の名は何度か既死軍同士の会話で聞いたことがあった。今までの情報から察するに、恐らく蜉蒼を率いる人間の名前なのだろう。この那由他ですら、あのケイが辿り着くのに数年を要した。風真と相まみえる日は一体いつになるのだろうか。
手持ち無沙汰な様子で、那由他は思い出したように口を開く。
「それより、二階のやつらはどうした。殺したのか?」
「自分の目で確かめることだな」
「殺してくれてた方が俺としては手間が省けて有難いんだがな。まぁ、お前たちを始末した後にでも見に行くとしよう」
那由他のその言葉に、ヤンは「結局、使い棄てだったじゃねぇか」と小さくこぼした。嫌な予想が的中した。言葉巧みに駒たちを言いくるめた那由他の話術は称賛に値するのだろう。それでもやはり、捨て駒は捨て駒にすぎないのだと直感で理解した自分に嫌気がさした。最早自分はだれも信じていないのかもしれないと思うと、盲目的で妄信的な彼らの思考回路を多少羨ましく思った。
しかし、今はそんな感傷に浸っている場合でも、同情を寄せている場合でもない。ヤンはルキから託された発信機を密かに手にした。
「ところで那由他。どうだ、娑婆の空気は上手いか? 黎裔とそんな変わんねぇだろ」
「いいや」
一呼吸置くと、那由他は暗がりの中で笑顔を見せた。その表情は確かに笑っているのに、目だけは真逆の感情を湛えている。
那由他の髪がまたふわりと揺れた。
「こっちの方が、嫌な空気だ」




