78話 掌珠(しょうしゅ)
時と、血。
ミヤはシドに何も言えないまま地上に降り、再び車に乗った。シドも無言のまま後に続く。すっかり辺りは明るくなり、街は通勤や通学の往来で騒々しい。その喧噪とは対照的に車内は未だかつてないほど重苦しい雰囲気が支配していた。二人にとって沈黙は日常だった。しかし、どこか空気感が違う。
何度も信号に引っかかりながら街を抜け、閑静な住宅街へと移動する。どの家も高い壁と監視カメラで敷地の広さと堅牢さを誇示しているように見えた。
その中の一つ、一際大きな門を構える洋館の前で車は止まった。ミヤはポケットから取り出したリモコンを操作し、車両専用の門を開けて中に入る。屋根付きの駐車場に車を止めると、ハンドルから手を離し膝で拳を握った。
「頭主さま、いや、元帥とお呼びする方が正しいか。これから元帥にお会いする。元帥が正式に宣言されたところでお前はシドから葉山志渡になり、俺はお前の宿家親ではなくなる。俺はもうシドとは呼ばない」
シドは目を伏せたまま動かない。耳には届いているはずだが、反応は返って来なかった。それはいつも通りのことではあったが、今のミヤには拒絶されているように思えた。
「これで名前を呼ぶのは最後だ」
わずかに唇を噛んだシドはミヤの言葉から逃げるように車を降りた。
何度か来たことのある元帥の私邸は案内されずとも駐車場から続く小道を辿れば玄関に着くことを知っていた。後ろからはミヤの足音が聞こえる。それは追いかけて来るわけでもなく、一定の距離を保っている。
その距離感がシドを更に苛立たせた。いつもミヤが自分の前を歩いていたのに、いつも自分がミヤの背中を見ていたのに、なぜ、今は自分が前で、ミヤが後ろなのか。地面を踏みしめる足に力が入った。ミヤが言うから自分はここまで来た。それなら、最後まで今まで通りの、日常の景色を見せてほしかった。
シドは玄関で立ち止まり、ミヤが開錠するのを待つ。建設から百年が間近に迫ったレンガ造りの洋館は葉山家が代々受け継いできた土地に建っていた。小道や庭は様々な植物が植えられ、季節になれば目を見張るほど美しくなる。しかし年の瀬も迫った寒空の下では咲かせる花もない。
私邸であるにもかかわらず、ミヤの指紋を鍵代わりに玄関が開くことからも、ミヤが元帥からどれほどの信頼を得ているのかが窺えた。最新の施錠設備には似合わない古びたドアノブにミヤは触れる。アーチ状になった観音開きの玄関扉は上半分にステンドグラスがはめられている。そこには菊を元にした葉山家の家紋が威厳を放つように美しく太陽光を反射している。
ミヤは浅く深呼吸をすると、手元を見つめたまま呟いた。
「なぁ、シド」
名前を呼ばれ、シドは顔を上げる。
今二人の目の前にある、たった一枚の扉で隔てられた境界線が何を意味するのかは分かっていた。ここを超えれば、もう二度とこの名前で呼ばれることはない。ミヤに二言はない。ミヤはそういう人間だった。
「俺は、ちゃんと宿家親をやれていたか。お前を預かってからを思い返すと、謝ることばかりだ。いつも独りにして申し訳なかった。本当に、申し訳なかった。シド」
一瞬の間を置いたミヤは勢いよく息を吸い、ドアノブを回した。全てをそこで断ち切り、置き去りにするようにドアを開け、大股で玄関を跨いだ。
タイル張りの屋内に軍靴の音が響く。軍人はいついかなる時も靴を脱ぐことはない。土足のまま一階の南側にある応接室へと向かう。シドはその背中を追った。
長年ともに暮らしてきたが、ミヤの軍服姿はあまり見たことはなかった。堅洲村ではいつも着物で、村に帰って来るときに着ているスーツでさえ窮屈だと嫌っていたように記憶している。しかし、何十年と見てきた着物姿ではなく、襟首まで閉じられた詰襟姿のミヤが本来の姿のように見えた。今はその背中を追っている。
重厚さを感じさせる木製のドアの前に立ち、ミヤは隣に立つシドに顔を向ける。シドが見上げた顔は、さっきまでの傷愴感を纏っていた男とは違う人間のものだった。それは既に宿家親であるミヤではなく、元帥の側近としての顔つきだった。
数回ノックをすると、しばらくして「入れ」と声が聞こえた。ゆっくりとドアが開かれる。
シドが数年ぶりに見た頭主は、応接室のソファに座って二人を待ち構えていた。自分たちと同じく灰色の軍服ではあるが、その胸には勲章が飾り立てられている。
葉山総壱朗、それが既死軍の頭主であり、帝国の陸海空軍を統べる元帥、そしてシドの父親の名だった。知命を過ぎてなお世界に与える影響は絶大で、帝国を世界有数の軍事国家たらしめるのにはこの男一人で十分だった。
その鋭い眼はどこかシドに似ている。
頭主と目が合うなり、シドは反射的に深々と頭を下げる。声自体は夏に頭主が堅洲村へ来たときに聞いていた。それがなくても、毎年正月の大御言謹聴の儀で聞く声だ。しかし顔を見たのは三年ほど前、同じく私邸に招かれ、つまらない数時間を過ごしたとき以来だった。帝国民として普通に生活している人間の方がテレビや新聞で見る機会が多いだろう。
礼をすると同時に、幼少期から何度も練習させられた挨拶が定型文のように流れる。
「頭主さまにお会いできましたこと、恐悦至極存じます」
「そんな堅苦しい挨拶は不要だ。そこに座れ」
「はい」
そう返事をしたものの、顔を上げただけでシドはその場に立ち尽くした。呼吸をするだけで精一杯で、冷や汗さえ滲むように思えた。それが頭主や元帥という地位に気圧されているからか、それとも別の感情が足を引き留めているのかはわからなかった。
シドが動こうとしない様子を見た頭主は立ち上がり、たった数歩の距離に近づく。
「樹弥、手続きは」
「抜かりなく」
それを聞くと頭主はシドの後ろに立つミヤに視線だけを向けてうなずき、再びシドに目を合わせた。
「呼ばれた理由はわかるな。お前は私の後継者、この帝国の元帥になるために来た。唯一、私の血を分けた葉山家の人間だ。既死軍での生活は現時刻を以て終了とする」
深く息を吸ったシドはうつむいて静かに口を開く。
「それは、頭主さまとしてのご下命でしょうか」
「私に意見をすることは許さん」
「お答えください、頭主さま。頭主さまからのご下命ならば、私は従います」
「お前がもう既死軍ではない以上、この命令も頭主のものではない。また、軍の命令でもない。父親としての命令だ。お前はもう私の息子、葉山家の人間だ。立場をわきまえろ」
「それならば」
シドは拳を握った。自分の中を駆け巡るこの感情には名前がついているのだろうか。悲しみでも苦しみでも、ましてや怒りでもない。顔を上げ、父親である葉山を睨みつける。
「それならば、従うことはできません」
背後でミヤがどんな表情をしているかが透けて見えるように思えた。自分をここに連れて来るまでに、想像も及ばないほどの葛藤を繰り返し、そして乗り越えたはずだ。顔を見なくても、声を聞かなくても、全て伝わった。
それがミヤの答えなら、自分自身も答えを出さなければならない。
生きる道を選ぶことはできなかった。堅洲村に生まれ、帝国のために、頭主のために人を殺す術だけを教えられた。だが、それがシドにとっての「日常」なら、どうしてその日々を厭えるだろうか。
「私は既死軍の誘です。帝国を守り、頭主さまの理想を守るのが使命です。私は頭主さまのために生きて、頭主さまのために死ねと教えられました。頭主さまの、いいえ、元帥の跡取りになるために生きてきたわけではありません」
「子は親の命令に従うものだ」
「頭主さま、恐れながら申し上げます。では、親とは、子とは、一体、何ですか」
今まで寡黙だと思っていたシドが静かに牙を剥く様を頭主はただ見つめていた。その表情は何を言われたところで、すべてが自分の思い通りになるのだと信じて疑わないものだった。
「確かに私は頭主さまの血を引いています。しかし、それだけです。あなたは私に何を教えてくれましたか。何を話してくれましたか。何から、一体、何から私を守ってくれましたか」
都合のいいときだけ血の繋がりを持ちだす「父親」にはうんざりだった。既死軍の頭主としては、帝国の元帥としては尊敬していた。しかし、今となってはそれすらも自 ずから抱いた畏敬の念であるかはわからなかった。
今、目の前にいる男は、自分にとって一体何なのか。
その答えを出す時が来た。
「俺の父親はミヤだけだ。あなたじゃない」
頭主は眉間に刻まれた深いしわを少しも動かさず、ミヤを一瞥する。
「あとは任せた、樹弥。お前がどういう立場なのか、こいつに教えてやれ」
そう言うと、ゆっくりと扉に向かって歩き始めた。シドは去ろうとする頭主には目もくれず、後ろから聞こえるミヤの声をただ黙って聞いていた。振り返ることはできなかった。
「若様」
そう言えば、頭主がいるところではそう呼ばれていた。久しぶりに呼ばれたその呼び名に、ミヤにとって今の自分は「葉山総壱朗の息子」でしかないのだと改めて現実を突きつけられた。追い打ちをかけるように、ミヤの軍人らしい冷たい声がシドの耳に刺さる。
「私は若様のお父上である元帥閣下に命じられ、若様を今まで育てて参りました。これは元帥閣下の命令であり、私の任務です。私は若様の父親ではありません」
ミヤのその明言を聞き届けるかのように扉が音を立てて閉まり、再び二人きりの空間になった。静寂が二人の間を支配する。お互いに何と言えばこの場を切り抜けられるのか模索しているようだった。
しばらくして、先にシドが重々しく口を開いた。何を口にしても状況が好転しないことはわかりきっていた。それでも伝えたい言葉があった。
「ミヤ」
震えるような呼吸音がかすかに聞こえた。
「申し訳ない。俺に、いや、私に、これ以上言わせないでくれ。頼む」
シドは開きかけた口を閉じ、静かに視線を落とした。握り締めていた拳が力なく緩む。
「頼みます、若様」




