77話 黎明
闇を、塗りつぶす。
暗く長い階段を上がり、扉を開けるとミヤの書斎に出た。天井まで届くような本棚で壁は埋め尽くされ、更に本棚にも隙間がないほど書籍が並べられている。地下にあるからか、圧迫感があるからか、さほど広くもない空間だ。その部屋の中心でミヤは一人がけのソファに座って本を読んでいた。シドと同じ色の軍服を着ているが、その胸には略式の勲章が所狭しと飾られている。それはミヤが職業軍人として生きてきた証だった。
「早かったな」
顔も上げず、ぱらりとページをめくる。しかし、内容は頭に入っていない。紙の上を目がただ滑って行くだけだ。
「堅洲村にいても、ルキの事務所にいてもしょうがない。どうせ来るなら早い方がいいだろ」
ミヤの前に立ったシドは手持ち無沙汰な様子で、気だるげに座っている宿家親を急かす。
「今回もさっさと終わらせて帰るつもりだ。今日の予定は」
「そう焦るな。早く行ったからと言って早く終わるものでもない」
そう言いながらもミヤは腕時計を見た。早朝五時。約束の時間が朝とはいえ、流石にまだ早すぎる。シドに命令さえすれば、何時間でも同じ体勢で待ち続けるだろう。しかし、遠くからこんなところまで呼び寄せておいてそれも酷なことだとミヤは本を閉じ、腰を上げた。
「頭主さまのところへ行く前に野暮用だ。ついて来い」
シドは浅くうなずいてミヤの後に続く。書斎から階段を上がると、地上の殺風景な一室に出た。扉代わりの本棚を閉めてしまえば、そこに入口があるようには見えなかった。二人は無言のまま部屋を通り抜け、ビルの入り口に停められていた軍が所有している車に乗り込む。
エンジンをかけ、アクセルを踏むとゆっくりと車窓が動き始めた。日の出まではまだ二時間近くあり、周囲は夜の帳を下ろしたままだ。助手席に座ったシドはつまらなさそうに外の世界を見ていた。廃れた街並みではあるが、幾分かルキの事務所がある廃墟街よりかは人間の存在が感じられる。
「都会は好きか?」
「嫌いだ」
想像していたよりも早い返答にミヤは表情に出さないように心中で笑った。堅洲村で生まれ育ったシドにとって、村の外は任務で赴く場所でしかない。そこでは必然的に負傷や死が付き纏う、ひどく不安定な環境と認識していた。
「まぁそう言ってくれるな。いいところへ連れて行ってやるから」
子供の機嫌でもとるようにミヤは車を走らせた。それからはお互いに無言だった。シドは窓の外に視線を投げたまま動かない。一緒にいても特段会話が生まれるわけでもない。二人にとってはいつも通りの空間だった。
徐々に周囲のビルが高層化し、空を狭めていく。一時間ほどで大都会の中心に到着した。ミヤが車を止めたのは、天を突くかというほど高い塔の真下だった。
「凌雲の塔、高さ約三町五十間。帝国で一番高い建築物だ」
もともとは帝国軍の火の見櫓の役割を果たすために建造され、戦時中はここからも空襲警報が鳴らされていた。現在はそれに加え、電波塔、観光用の展望施設としても利用されている。依然として所有しているのは帝国軍だ。日付が変わるまでは色とりどりの電飾が明るく煌めいているのだと、今は完全に闇に溶けている頂点をフロントガラス越しに見上げながらミヤは説明する。
車を降り、再びミヤは摩天楼のごとき塔の頂に目を向ける。シドは全く表情を変えないまま、ミヤの視線を追って同じく赤と白の塔を見上げる。
「こんなところに連れて来て、何が『野暮用』だ」
「見聞を広めるのも人生に於いては大切なことだ。堅洲村にいるだけがお前の人生ではない」
そう言うとミヤは観光客向けの入口とは別に設けられた職員用の扉に向かって歩き始める。扉の前では軍服を着た若い男が二人、警備にあたっていた。近づいてくるミヤとシドに気付き、警戒を強める。
「突然すまない。私は縊朶大佐だ。同行者及び来訪理由については詮索無用。入らせてもらうぞ」
ミヤは黒い本革の身分証入れを胸ポケットから取り出し、入り口で警備をしている一人の軍人に見せる。表紙には金色の字で帝国陸軍と箔が押されている。名乗りと顔で判別できたのだろう。若い男はわざわざ身分証を改めるまでもなく、すぐさま扉の前から移動し、ミヤとシドを塔の中に促す。
「縊朶大佐殿、お目にかかれて光栄至極に存じます!」
暗がりでも紅潮した表情が見て取れた。ミヤを見つめるその瞳には羨望と尊敬が光り輝いている。ミヤは短く返事をすると颯爽と扉を抜ける。男は後ろに続くシドに一礼すると、二人が中に入ったのを確認して再び扉の前に立って警備を始めた。
「『元帥の側近』というのも要は使い方だな。この顔と名前さえあれば大佐ごときの地位でも、大概は融通を利かせてくれる。便利なもんだよ」
今まで相当な数の無理難題を吹っ掛け、押し通してきたのだろう。エレベーターで二人きりになったのを見計らって、ミヤは悪びれもせず薄っすらと笑う。シドは視界に映る地上のすべてが縮小され、遠ざかっていく様を黙って見ていた。
「大佐では不十分か」
「俺は死ぬまで上を目指す。堅実に実績を重ねているつもりではあるが、まぁ任命するのは元帥ではなく皇だからな。一体いつになるやら。俺の軍人としての目標だ」
「目標があるというのは、いいものなのか」
「そうだな。最終目的地が見えないまま走り続けるのは疲れるだろ。行程が五里霧中ではいつか走るのをやめてしまう。一里塚のごとく、指標があるに越したことはない」
「辿り着けなかったとしてもか」
「結果は過程の副産物でしかない。『辿り着けなかった』という結果であれ、その過程ではきっと何かを得ている。でなければ、ただ無為に生きているのと同じことだ。目標は持つことに意味がある」
何かを言いかけたシドだったが、目的階を告げる到着音に口をつぐんだ。
非常灯のみがぼんやりと光っている展望台は観光客でごった返している日中と違い、静まり返っていた。誰もいないだだっ広い空間をミヤはガラス窓の方へと歩いていく。空調も止まった三百六十度ガラス張りの上階は地上と比べ物にならないほど冷気に包まれていた。
「これぐらいの時間帯は薄明と言ってな、日の出の一時間半前を天文薄明、一時間前を航海薄明、三十分前を市民薄明、もしくは常用薄明と言う。ちなみに日の出と定義されているのは地平線もしくは水平線に太陽の上辺が接した時だ」
何かを教えてやりたかったのか、静寂を恐れたのか、ミヤは聞きかじった程度の話を口にする。しかし、伝えなければならないのは、こんなことではない。あとに続ける言葉を探すも見つからず、口を閉じた。
シドはミヤの横に立ち、同じように遠くを眺める。日の出まであと一時間はある。空はまだ暗いが、誰かの生活が電気を灯し、建物や遠くの山まで薄ぼんやりと形を浮かび上がらせている。
何を考えているのか、一点を見つめたままじっと動かないシドの横顔をミヤはちらりと盗み見た。頭主の元に着くまでに伝えなければならないことがある。シドはこれからここで生きるのだと言わなければならない。しかし、口は重く、動こうともしない。
何もかもを手放してきたはずだった。家族も故郷も、自らの意思で望んで棄てた。また同じように棄てるだけだ。シドが「葉山志渡」に戻り、元帥の跡を継ぐことを長年望んでいたはずだ。シドはただ一時期預かっていただけで、軍人である自分が手中に残すものなどあってはならない。
先の戦争では万夫不当と謳われ、奇襲に遭い退却する隊の殿も務めた。自力歩行が困難になった兵に「戦死」の名誉を与えるため、銃剣や軍刀で刺し殺したこともある。投降することも捕虜になることも皇の顔に泥を塗る行為だと決して許さず、その場で不敬罪として斬首したこともある。
その手は、既死軍どころか帝国の誰よりも血に塗れていた。
自分の人生には何かを奪い、失い、棄てることしかない。恐れることは自分には何もない。そう思っていた。しかし、言葉が胸につかえて出て来ない。ケイに対して大見得を切ったくせに、このままでは笑われてしまうなとミヤは浅く息を吸う。
永遠に続くような沈黙のうちに、空はいつの間にか白み始めていた。もうすぐ夜が明ける。
「なぁ、シド」
握った拳に力が入る。たった一言言えばいい。どうせシドは「了解した」といつも通りの返事をして、何事もなかったようにいつも通りの無表情を貫くはずだ。だが、その一言が、たった一言が、鎖で繋ぎとめられたように心の中に淀んでいた。
「シド」
再び名前を呼び、再び唇が止まった。何千回、何万回と呼んできた名前が何故こうも耳に悲しく響くのか。
地平線を超えた太陽は徐々に空を赤く燃やし、街を闇から取り戻していく。頭主にシドを返す期限は今日の朝だ。その朝がやってくる。
夜が終わる。
シドが好んだ暗闇が、白く塗りつぶされていく。
そうであるならば。
「シド、見ろ。これこそ、帝国が世界に誇る大都市、帝都『畏苑』。俺たち既死軍が、お前が守ってきた景色。畏苑千四百万人の人生だ」
これで終わりだ。長きに亘る任務もこれで終わる。
ケイには「凡人の思考回路と感情で生きていない」と言い放ったくせに、本当は凡人どころか、どうしようもなく臆病で、虚勢を張って生きてきた凡人以下の人間なのだと自嘲する。
ミヤは「そして」と続けた。
これで、終わりだ。
「シド。これから、お前が生きるところだ。今日を限りに既死軍としての人生は終わりだ。お前は、シドは、『葉山志渡』に戻る」
朝焼けの中に見えるシドの表情はどこか穏やかだった。ミヤにはそれが微笑んでいるようにさえ見えた。
シドは静かに口を開く。
「それが、ミヤの答えか」




