76話 そうであるならば
塗りつぶされない、闇。
陽が落ちてしばらくしてから目を覚ましたシドはすぐに起き上がり、さっさと布団を畳んで押し入れに片付ける。ケイに任務を言い渡されてからまたしばらく眠っていた。ルキの事務所へは真夜中までに着けばいい。まだ十分時間があるだろうといつも通り長い髪を紐で一つに縛り、凍るような冷水で顔を洗った。
宿の中は暗く、屋外のように寒い。それはこの宿に長時間シドしかいないことを示していた。ランプの灯りを最大にして火鉢と囲炉裏に火をつける。囲炉裏にはミヤが作ったらしい冷え切った鍋料理が残されていた。鍋の前に座布団を敷いて座る。しばらく煮込むと、何十年も食べ続けてきたいつもの香りが部屋中に広がった。特段美味くも不味くもない、名前すらついていない料理だ。ミヤが冬に作る料理と言えばこれぐらいだった。シドには未だにどんな作り方をしているのかよくわからなかったが、ミヤが作れば材料が何であれ、不思議といつも同じ味になっていた。
汁を入れた椀で両手を温めながらシドは一点を見つめる。ミヤがいない時間も慣れたものだ。普通、宿家親は堅洲村から出ることはない。しかし、ミヤはいない時の方が多い。他の宿家親と誘の関係と自分たちは違う。それは自覚していた。
「ミヤは、今日もいないのか」
思ったよりも長く呆けていたのか、手にしていた椀が冷めていることに気づき、静かに口をつけた。
片づけを終えたシドはふらふらと堅洲村を散歩してから、愛用している拳銃の手入れをして既死軍の真っ白な制服に袖を通した。いつも通りホルスターに銃をしまって身支度を済ませると、上り框に座ってブーツの紐をきつく結ぶ。玄関の引き戸を開け、顔を上げるとそこにはケイが立っていた。無線を介した物音でシドが出かけるのを察知したのだろう。寒空の元、ケイは裸足のまま肩で荒く息をしている。その白い息は空に消えていく。
「行くのか、シド」
元々覇気のないケイの顔がいつにも増して暗く見えた。それは半分にも満たない月明かりのせいではないだろう。呼吸を整えたケイはまっすぐシドを見る。
「俺もしばらく頭主さまにお会いしていない。よろしく伝えておいてくれ」
「了解した」
相変わらず短い返事をすると、ケイを一瞥することもなく横を通り過ぎてシドは宿を後にする。闇に飲み込まれそうになるその背中を思わず「シド!」と呼び止めると、珍しくシドが立ち止まって振り返った。刺すような風になびく長い黒髪も、真っ白な制服も、すべてがそのまま消えてしまいそうだった。
だが、命令に背くわけにも、真実を伝えるわけにも、ましてやその腕を掴むわけにもいかない。ケイは先ほど名前を呼んだ声とは打って変わって、ただ小さく「じゃあ」と手を挙げた。
シドはそのあいさつに答えるはずもなく、再び背を向けて歩き出し、やがて見えなくなった。
じゃあ。
さようなら。
その別れの言葉は、元を辿れば「左様ならば」だ。
「左様ならば、そういうことであるのならば、これで別れよう」
そう小さくつぶやいたケイはこの期に及んでまで己は外に理由を求めるのかと唇を噛んだ。頭主の命令は絶対で、背くことなどできないのはよく理解している。
いつかヤヨイが小馬鹿にしたような表情で言い放った言葉が脳内によみがえった。
「自分が死ぬより、誰かが自分のせいで死ぬ方が怖いのか?」
白い息を吐き出しながら、ケイは天を仰ぎ、一人ぽつりと呟く。
「あぁ、そうだよ。ヤヨイ。その通りだ。だから俺は」
その続きは暗い闇に溶けて消えていった。
シドはうっすらと明かりがついている階段を上がり、ルキの事務所をノックした。気の抜けた返事を待つことなく扉を開ける。
「いらっしゃ~い。待ってたよ~」
仕事机の椅子に座っているルキはひらひらと手を振り、シドを応接用のソファへと促す。そこには灰色をした帝国陸軍の制服一式が準備されていた。
「頭主さまからのお呼ばれなんでしょ~? 羨ましいな~」
崩されることのないいつも通りの笑顔に、シドはそうでもないと言いたげな表情で軍服を手にした。シドが何かを考え込むように、じっと手元を凝視していることに気づいたルキはたばこに火をつけながら微笑む。
「ルキさんはさ~シドはそんな暗い色の軍服なんかよりさ~、真っ白な既死軍の制服の方が似合ってると思うよ~」
「頭主さまとお会いするときは陸軍の制服と決まっている」
「それはそうなんだけどさ~」
煙を細く吐き出し、ルキは自分の机に革靴のまま足を乗せる。任務の内容は全て知っていた。これでシドともお別れだと、目にその姿を焼きつける。もしかするといつかはまた会えるのかもしれない。それでも、少なくとも既死軍の制服を着たシドはこれが見納めだ。
初めて会ったのは堅洲村だった。当時のシドは、大人びてはいたが間違いなく子供だった。ルキは目の前にいるシドと、まだ幼い顔をしていたシドを重ね合わせる。
ルキも元々は誘として既死軍に所属していたが、先代の探偵が亡くなったのを契機に跡継ぎとしてここで生活することとなった。振り返れば、誘としてシドと共に任務に出た年月と、探偵役としてシドを任務に送り出した年月はほとんど同じに思えた。
「そうだそうだ。軍刀、今渡すね~」
火をつけたばかりの長いたばこを無理やり灰皿に押しつぶし、机の引き出しからじゃらじゃらと音を立てて鍵束を取り出す。壁一面に備え付けられている書類棚の頑丈な扉を開け、シドの軍刀を手にした。これを渡してしまえば、シドは階下で着替え、そのまま目的地へと向かってしまう。軍刀を握る手に力が入った。
「ちゃんと手入れはしてあるからさ~、もし、万が一使うことがあっても大丈夫だよ~」
ルキは必死に平然を装うが、自分自身の声が震えているように感じた。きっとシドなら気付いているだろう。心中を悟られないように、すべてを見透かされないように、ルキはうつむいたままだった。しかし、そんな努力も虚しく、シドの声が頭上から降ってくる。
「わかりやすいやつだな。ルキは」
軍刀を握ったシドはルキの表情を見るため、わずかに視線を落とす。
「ただ頭主さまのところへ行くだけだ。何を言われるかわかったものではないがな」
シドが一人で頭主のところへ行くのはこれが初めてではない。数年に一度、ただ食事をしながら一言二言交わし、帰って来るだけのことだ。居心地の悪い数時間をやり過ごしてしまえばそれで終わる。任務内容はいつも決まって「頭主さまの護衛」と伝えられていた。
「何も死にに行くわけではない」
「そう、だよね~」
ルキは声を詰まらせながら小さく笑い、軍刀から手を離してわずかに顎を上げてシドと視線を合わせる。
「それじゃあね、シド」
軍刀と軍服を持ったシドはそのあいさつに応えることはなかった。ルキに見送られながら事務所のドアを開け、階段の方へ姿を消す。閉じた扉に遮られた軍靴の音はだんだんと小さくなり、すぐに聞こえなくなった。
シドの身長がいつの間にか自分より高くなっていたことに今さらながら気付き、ルキはその場から動けずにいた。
既死軍の制服を着たまま、事務所へ帰って来なかった誘は今まで何人もいた。運が悪かった、敵の方が一枚上手だった、生きようとする意思が弱かった。考え得る様々な理由を勝手に与え、勝手に納得して、勝手に諦めていた。しかし、シドだけは違う。シドはここで既死軍の制服を脱ぎ、帝国陸軍の軍服を纏ってゆく。
スーツの胸ポケットからたばこを出し、火をつける。自分はすべてを理解した大人を演じて納得したふりをするだけだ。いつも通り、自分で自分に諦めるように言い聞かせて、釈然としない時間をどうにかやり過ごすのだろう。たばこはそれを煙に巻いてうやむやにしてくれる小道具に過ぎない。
ルキは自分の椅子に座ると、鍵束を引き出しに戻した。机の上には何冊ものファイルが山積みになっている。自分を無理やり日常に引き戻すため、その中から予約時間が迫った依頼人の書類を探し始めた。
シドは一人移動器に乗っていた。
見ても見ても、見飽きることのない闇が眼前から後方へ流れていく。堅洲村で見上げる静謐な夜空、移動器から見る日の当たらない盤石な地下。シドは何にも塗りつぶされることのない暗闇が好きだった。
こうして窓枠に頬杖をつき、代り映えのしない車窓を人生で一体どのくらいの時間見たことだろうか。
座るのはいつも同じ座席だった。そこから見る真っ暗な景色が一番きれいに思えた。ただゲン担ぎのつもりかもしれないとシドはかすかに笑う。必ず生きて堅洲村へ帰るという、たったそれだけの些細な願いだった。
目的地であるミヤの事務所まではかなりかかる。手にしていた軍帽と軍刀を横に置き、シドは目を閉じた。普段は考えないようにしていることが脳内をじわじわと蝕んでいく。頭主の元へ向かうときはいつもこうだった。
真っ先に頭を支配したのは、「頭主は一体どういうつもりで自分を呼び出しているのだろうか」ということだった。頭主のために誘として戦い、頭主のために誘として死ぬ。生まれたときから植え付けられた既死軍としての頭主への忠誠は揺るがない。
しかし、頭主の背後にたまに見える「血の繋がった父親」としての顔は気に食わなかった。最後に会って顔を見たのはもう三年ほど前になるはずだ。思い出したように自分を呼びつけるが、かと言って何か話題があるわけでもない。ただ彼自身が「自分が父親である」という自覚と自己満足を得るためだけに遠路はるばる向かわされているのかと思うと不愉快だった。
他の宿家親や誘の人生を知っているわけではない。それぞれが既死軍へ辿り着くまでの艱難辛苦を思えば、自分は恵まれているとさえ感じていた。それでも、頭主の息子という立場は自分一人しかいない。「シド」であり、「葉山志渡」でもある自分の胸中は誰にも理解されることはないし、理解してほしいとも思わない。だからこそ一線を引き、孤高であろうと子供時分に覚悟した。
シドはゆっくりと目を開けた。もし、自分が生まれて来なければ世界は違っていたのだろうか。それとも「別の自分」が同じように生と死の狭間にある人生を送ったのだろうか。
いくつもの「もし」を、仮想の世界を、叶わぬ望みを、シドは口にすることもなく噛み殺した。




