75話 一切皆苦
命を知るものは、天を怨みず。
ヒデやヤンの学校潜入も終わり、年の瀬も迫ったころ。まだ朝の早い時間にミヤは遠慮もなくケイのいる一室の引き戸を開けた。音もなく滑る戸にケイは振り返りもせず、「何の用だ」と足音の主を問いただす。
「用がないと来ちゃいけないのか」
「そういう訳じゃないが」
ケイは横に座ったミヤには目もくれず、パソコンに向かって次の任務の計画書を作り上げていく。任務へ向かわせる誘の名を数名打ち込んだところで、しばらくの間、無言のまま自分に向けられている視線に嫌気がさしたケイは一息ついた。ミヤの顔からその手元に目線を滑らせると、「どうやら用はあるらしいな」と再び視線を画面へと戻した。
「ご明察」
ケイが今しがた打ち込んだばかりの誘の名前の中から、ミヤはデリートキーを使ってシドの名前を消す。
「しばらくシドは別任務だ。しばらく、いいや、『ずっと』かもしれない。秋ごろ言ってただろ。年末に頭主さま直々の依頼があるってな」
そう言うとミヤは手にしていた封書をケイへと差し出す。訝しげに受け取り、中から三つ折りにされた数枚の書類を取り出したケイは、そこに書かれている文章を読むとミヤと紙の束を交互に見た。
「これ、一体どういう意味、だよ」
「どうって、書いてある通りだ。明朝、俺が頭主さまにシドを引き渡し、そこでシドは既死軍としての人生を終える。それだけだ。簡単なことだろ」
「そんな文の意味を聞いてるんじゃない。樹弥くんは、これで。いや、違う。樹弥くんじゃない」
ケイは前髪をぐしゃりと掴んで乱し、苦悶の表情を浮かべる。
「ミヤは、これでいいのか」
呆然とした声でケイはミヤを見据える。手にした上質な紙には達筆な字でケイへの命令が書かれている。ケイから視線を外したミヤは、高く積み上げられた物の隙間からわずかに見える窓の外を見た。凍てつくような風が吹く屋外はどんよりとした雲が厚く空を覆っている。
「いいも何も、頭主さまがお望みのことだ。俺の立場がミヤだろうが樹弥だろうが、考えは変わらない」
「でも、ミヤはこんな結末を迎えるためにシドを育ててきたわけじゃないだろ」
「俺はただの宿家親だ。血が繋がっているわけでもない。俺がシドを育てたのは頭主さまに命じられたから。ただ、それだけだ」
「けど」
「お前は逆説しか言えないのか、禊」
唇を噛むケイをミヤは鼻で笑った。ケイは視線を泳がせ、続ける言葉を必死に探す。しかし、いくら考えても何と言えばいいかわからない。結局、嘲笑されたばかりの言葉を憚りもせず再びこぼした。
「でも、だけど、俺たちには誘としてのシドが必要だ。いずれシドが頭主さまの元へ戻るにしても、それは今じゃない。わかるだろ」
「シドがいなくなっても、既死軍は揺るがない。そういう組織を作り上げてきたはずだ。それがお前の使命だろ、禊。お前は自分の責任を放棄するのか」
「そんなことを言いたいんじゃない、けど」
「じゃあどういうつもりだ」
ケイは正座をしてミヤに向き直る。膝で握った拳に力が入り、爪が手のひらに食い込んだ。何度か言葉を言いかけては飲み込み、しばらくの沈黙が続いた。腕組みをしたミヤも何も言わず、ただうつむいて己の拳を凝視するだけのケイを見ていた。
「愛別離苦は、どう足掻いても避けることのできないのが世の常なのかと」
やっとのことで口を開いたケイだったが、思いもよらなかった言葉にミヤは珍しく声を上げて笑った。ひとしきり笑ったかと思うと、いつもの表情を取り戻し、ケイを睨みつける。
「生、老、病、死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦。そんな凡人の思考回路と感情で俺は生きていない。お前だって軍にいたならわかるだろ。禊は凡人になり下がったのかもしれない。だが、俺とシドは『そんなところ』で生きてないんだよ」
「確かに俺は第一線を退いた身。足元にも及ばない、底が知れた人間だと言われたら、樹弥くんにもシドにも、何も言い返せない。だけど、何と言われてもいい。俺はシドを行かせたくはない」
「それでも既死軍か、禊。頭主さまが望むなら、それがいつも正しいに決まっている。俺は死ねと言われたら死ぬ覚悟がある。禊だって、そう『だった』だろ。今でもそうなら俺としては嬉しいんだがな」
口をつぐんで視線を落としたケイをミヤは一瞥すると「手筈通りに頼む」と立ち上がる。
「俺と禊は今でも同じ景色を見ているんだろうか。なぁ、禊。お前はどう思う」
そう言い残すとミヤは廊下の方へ足を向けた。しかし、一歩踏み出そうとしたところで足が止まった。振り返ると、うつむいたままのケイが着物の裾を子供のように引っ張っていることに気付いた。
「苦しいって言えよ。辛いって言えよ」
ケイは顔を上げ、真っ直ぐミヤに視線を合わせる。その表情は今にも泣き出しそうに見えた。
「何で、そんな平然とした顔して、受け入れてるんだよ。樹弥くん。頼むから、俺ぐらいは。俺ぐらいには本当の気持ちを、本音を言ってくれ」
「本当の気持ちか」
裾を握り締めるケイの手を軽く蹴って払いのけたミヤはしゃがんでその胸倉を掴む。
「俺が感じるのは、頭主さま、いや、葦原中ツ国帝国を統べる元帥のご令息を俺に預けてくださった恩義。それだけだ。生まれたばかりのシドを預けられた俺が元帥に命じられたのは、シドを既死軍を率いるに足る人間に育て上げること。それは俺や禊のような存在ではなく、頭主さまの跡を継ぐ人間。つまり、この帝国の元帥になることだ。今がその時。シドはこれから『葉山志渡』に戻る。俺が長年待ち望んでいた瞬間と言っても過言ではない」
語気を荒くしてそう言い切るミヤに、ケイは静かに口を開く。
「じゃあ、何でそんな、震えてるんだよ」
驚いて自分の手元を見ると、ケイのよれたシャツを握る拳が僅かに震えていた。かすかな感情の揺らぎを見透かされたミヤは手を離して立ち上がると、冷たい視線でケイを見下ろした。
「お前が望むと望まざるとにかかわらず、これは頭主さまからの命令だ。依頼ではない。約束の時間までにシドを俺の事務所に寄越せ。話は以上だ」
「樹弥くん、でも、シドは堅洲村でしか生きられない。それは樹弥くんが、一番」
そこまで言いかけたところで、ケイは壁側に積み上げられていた書籍の山に激しい音を立てて体を打ち付けていた。咄嗟に防御はしたものの、今なお既死軍最強を誇るミヤの攻撃は少しでも当たれば相当な衝撃だった。雪崩れた本の山からケイが咳き込みながら這い出てくる。防ぎきれずに殴られた頬は既に赤みを帯び、口元にはうっすらと血がにじんでいた。口の中に鉄臭い味が広がる。
「誰に口を利いてるんだ、禊。俺に口答えするとは、お前も偉くなったもんだな」
静かにそう言葉を放つミヤはいつもの冷静さを纏いながらも、明らかに憤っていた。手の甲で血をぬぐったケイは小さく息をつくと立ち上がる。
「樹弥くんが、『ミヤ』が一番よくわかってる。だから、どうしようもない、行き場のない感情を俺に向けるんだろ。いいよ。いくらでも受け止める。樹弥くんには、俺しかいない」
ケイの言葉にミヤは何も言い返さず、深く呼吸をした。自分の浅慮な行為を悔いるように眉間にしわを寄せたかと思うと、「殴って悪かった」と静かに部屋を後にした。
玄関の戸が閉まった音を聞いた途端、ケイはその場に大きなため息とともに座り込んだ。崩れた本の山も、自分のケガも、いつかはすっかり元通りになる。しかし、このままではミヤもシドも本心を押し殺したまま生き続けることになる。頭主の命令は絶対だ。だがしかし、それを成し遂げるには二人が犠牲になる。自分が守るべきものは一体どちらなのか。
とんだ板挟み状態にしてくれたものだと、恨めしそうにケイは天井を仰いだ。
中途半端だった任務の計画書を書き上げたケイはその足でシドの元へ向かう。数時間前にやり合ったばかりのミヤがもし宿にいたらと思うと足取りは重かった。まだ昼だと言うのに、今にも雪が降りだしそうな空は重く陰鬱としている。そんな中を上着も着ず、足元も裸足のまま草履で出て来てしまったことにすら気付かないほど、ケイは心ここにあらずの状態で歩いていた。
ミヤとシドの宿に着くも、きっちりと閉じられている玄関は声をかける気にも、開ける気にもならず、シドの部屋がある縁側の方にまわる。そこも雨戸は開いていたものの、障子は隙間なく閉じられ、室内にシドがいるのかさえ分からなかった。
庭には丁寧に刈られた椿が花を咲かせている。今年も見事に咲いたものだと眺める間もなく、足音に気付いたシドが障子を開けた。
ケイにはシドが寝起きかどうかはすぐに判別がついた。いつも通りこの時間は寝ていたのだろう。シドははだけた寝間着代わりの浴衣を直しながら、何の用だと言わんばかりにケイを睨みつける。
「シドに任務だ」
「了解した」
そう短く交わし、簡潔に内容を書いた紙を手渡す。表向きの任務内容は頭主の護衛になっている。シドがこの「任務」の真相を知る時はまだ先だった。ケイはシドが任務内容を確かめるよりも先に言葉を続ける。
「頭主さまの護衛だ。お前、一人で」
シドは一瞬動きを止めるも、再び短く「了解した」と返事をした。
「何も言わないのか」
「任務は任務だ。俺は誘である以上、任務を遂行するのみ。それが頭主さま相手であってもだ」
「お前も、ミヤも、似た者同士だな」
二人とも感情というものがぽっかりと抜け落ちたような人間だ。ミヤに育てられたシドがそうなるのは当然のことかと、ケイは呆れたように眉を下げて小さく笑った。
「ミヤは?」
「今日は会っていない。大方頭主さまのところだろうが、俺の知ったことではない」
表情を変えないままそう言い残すとシドはぴしゃりと障子を固く閉じた。何も声をかけられないまま、ケイはその場に立ち尽くす。視界にちらちらと雪が舞い始めた。
たった数時間後、シドは任務に赴くため堅洲村を後にする。そして、二度と堅洲村には戻らない。生まれ育った村での日々を振り返り、感傷に浸ることも、名残を惜しむことも許されない。もしかすると、シドのことだからそんな感情はそもそも持ち合わせていないのかもしれない。それでも、いつかは深い郷愁に駆られる日は来るに違いない。
ケイは視線を宿から再び椿に動かす。見事に咲き誇っていると思っていた白や赤の椿だったが、足元を見ればいくつかが花ごと落ちていた。散るにはまだ早いだろうと拾い上げ、手のひらに転がす。
「いないと思ったらこんなところにいたんですね」
声に驚いて顔を上げると、息を切らしたイチが垣根の向こうに立っていた。今日はヤヨイのところで一日中手伝いをするはずだが、何か急用だろうかとその顔を見た。
「無線も返事してくれないし、心配しました。ヤヨイさんが聞きたいことがあるそうですよ」
「あ、あぁ、わかった。すぐ行く」
ケイは我に返ったように、手にしていた椿を垣根の上に置くとイチの後ろを追いかけた。




