73話 反故
飼い慣らした、日常。
終業式を翌日に控えた放課後、ヒデは夕日が差し込む教室で一人外を眺めていた。犬飼の監視は未だ続いているが、ケイの予想では十中八九シロらしく、放課後までは尾行せずともいいとのことだった。同じく高校、大学で潜入捜査をしているジュダイとチャコは監視対象が真横にいる状態で件の男が現れたとの報告があり、早々に監視は終了していた。残るはヒデとヤンのみだった。
もし仮にヒデとヤンが監視しているどちらかの男が璽睿だった場合、どうやって家中に仕掛けられている監視カメラや盗聴器、携帯電話を介した位置情報の測位といった監視の目を掻い潜っているかは不明だった。ロイヤル・カーテスを束ねる男であれば、既死軍同様に偽の映像や音声を準備する周到さぐらいはあるに違いないと、ケイは鷹揚に構えていた。
ヒデが頬杖をつく机には教室に残るための言い訳でもするように教科書やノートが広げられている。隣の教室からは雑談に興じる女子生徒たちの笑い声が、遠くからは運動部の声や吹奏楽部の音が耳に届く。自分も普通の人生を歩んでいれば、今頃「佐久間篤紀」と同じ高校二年生だと、ヒデは高校生だった「阿清秀」に思いを馳せる。任務とはいえ、このように高校生活を送るのはどこか辛いものがあった。今は誰もいない家に帰るだけのはずなのに、「学校から帰宅する」という行為そのものがヒデの足を教室に留めていた。思い出したくもない記憶がよみがえりそうで不安になる。
阿清秀があのまま高校生活を送っていたところで、順風満帆なこの男とは違う毎日だっただろう。上辺だけの人間関係の中、作った表情で感情の起伏もなく日々を過ごしていた。喜怒哀楽を出したところで、自分の心中を吐露したところで、一体誰が助けてくれたというのか。良くて同情か憐みの目を向けられるだけだ。そんなことは望んでいなかった。
長い年月をかけて淀みに淀んだ心だったが、既死軍へ来てからは徐々に浄化されていくのをはっきりと感じていた。しかし、たった一年半ではまだ心の底には溜まった澱がある。
あとどれぐらいの時を過ごせば、自分の罪は赦されるのだろうか。
「罪、って」
ヒデは自分の脳内に突如として現れた言葉に頬杖を解き、声を漏らした。
「あれ、佐久間くんまだいたの?」
はっと廊下の方を振り返ると、今から帰宅するのだろう。肩に学校指定の鞄をかけ、紙袋を提げた陽奈美が立っていた。陽奈美は一瞬驚いたような表情をしていたが、机の天板を覆いつくすような勉強道具に状況を察すると「もしかして冬休みの補講対策?」と笑った。
「いや、僕は補講ないよ。冬休みの宿題してただけ」
真っ白なままの課題用冊子を気付かれる前にさっさと閉じ、鞄に詰める。そのままの勢いで机の片づけを済ませると立ち上がり、陽奈美の近くに歩み寄った。
「川崎さんこそ、こんな時間まで何してたの?」
「クッキー作ってたんだよ。ほら、私、料理部でしょ。料理部ってめったに活動しないんだけど、今年最後の授業日ってことで集まってたの」
陽奈美は紙袋から透明の袋とピンク色のリボンできれいに包装されたクッキーの詰め合わせを取り出し、ヒデに手渡す。
「これ、佐久間くんに作ったの。本当は明日渡そうと思ってたんだけど、今あげるね。甘いの大丈夫だったよね?」
うなずいたヒデは手のひらに載せられた小さな贈り物を見つめる。おいしそうな色に焼けた星やハートなどの形をしたクッキーがほんのりと温かさを伝えている。
「本当はね、もっと早くお礼したかったんだけど」
「お礼って、何の?」
「ほら、私が佐久間くんに初めて会ったとき、電車の」
ヒデはそこまで聞いて「あぁ」と思い出したように反応を示す。
それは既死軍へ来る以前の自分であれば見て見ぬふりをしていた他人同士の揉め事だった。しかし、ヒデは既死軍は逃げも隠れもしないと自分で自分に言い聞かせた。同じ高校生でも、自分はもう「阿清秀」ではないのだと改めて自覚した瞬間だった。
「僕が不愉快だっただけだから。別に、川崎さんがお礼を言うほどのことじゃないよ」
「あの、佐久間くんにとってはそうかもしれないんだけど、何というか」
陽奈美はヒデを見つめていた顔を再び下に向け、口ごもる。
「私はあれがきっかけで佐久間くんに出会えたから。ほら、この学校大きいでしょ? きっと、あの時に話してなかったら、私は佐久間くんと話すこともないまま過ごして、そのまま卒業してたと思う。だから、その、何というか」
同じような言葉をたどたどしく繰り返し、陽奈美は落ち着きなく視線を泳がせる。間もなくして意を決したように顔を上げると、「私と仲良くしてくれてありがとう」と笑顔を作った。
ヒデは思いもよらなかった言葉に面食らったような顔になったが、すぐにいつもの表情に戻し、曖昧な返事をする。自分たちが血にまみれた死と隣り合わせの日常を送っているのが、このような笑顔を守るためなのだとしたら、それはいいものだとヒデは口元をマフラーで隠し、小さく笑った。
「それでね」
陽奈美はヒデを見上げたまま話し続ける。見慣れていたはずの陽奈美の笑顔がヒデには急に神聖なものに見えた。自分たちが守り続けてきた「帝国の変わらない日常」が凝縮されているように思えた。
「お礼って訳じゃないんだけど、あした終業式終わったら一緒にお昼ご飯とか、行かない?」
たったそれだけの誘いを一世一代の出来事ででもあるかのように陽奈美は顔を真っ赤にして何度も躓きながら伝えた。目を輝かせて返答を待っている陽奈美だったが、続けられたヒデの言葉に落胆の表情を見せる。
ヒデは犬飼を含むクラスメイトから遊びに誘われていた。ケイが犬飼をシロだと言うならその通りなのだろうが、まだ任務中であることを考えると、断る理由はなかった。しかし、陽奈美のあからさまにがっかりした表情にヒデの頭には一瞬、断っておけばよかったという考えがよぎった。
「ごめん。先に川崎さんが誘ってくれてたらよかったんだけど」
社交辞令なのか本心なのか、それともただ旦に悲しむ陽奈美の顔を見たくないと思ったからだけかもしれない。思わず口をついて出た言葉にヒデ自身が驚いた。しまったと思ったときにはもう遅かった。陽奈美の顔が花が咲いたように明るくなる。
「じゃ、じゃあ、初詣とか、どうかな。禁埜駅に大きい神社があるんだけど」
ヒデは答えに窮した。この発言は自分が招いた結果なのだが、初詣ということは来年だ。陽奈美が誘っている相手である「佐久間篤紀」は年内に死ぬことになっている。その詳しい日時はヒデも知らなかった。しかし、佐久間篤紀に来年が訪れることはない。それは明白な事実だった。だが、ここで再び断ってしまえば、陽奈美がどんな顔をするのかも明白だった。
自分の前だけでいい。自分の前ではいつも笑っていてほしい。単純な、唯一のわがままだった。
一瞬の間をおいて、ヒデは「いいよ」とうなずいた。
陽奈美の表情は更に明るさを増し、光り輝いているようにさえ見えた。
「元日の午後二時でいいかな? 禁埜駅の中央改札で待ってるね」
「わかった」
遠く、階段に繋がる角から陽奈美を呼ぶ数人の声が聞こえる。どうやら部活の友達と帰るらしい。陽奈美はその声に気付き、慌てて「今行くー!」と大きな声で返事をする。
「忘れ物取りに来ただけだったんだけど、佐久間くんに会えてよかった。クッキー、食べてね」
「ありがとう。じゃあ、また来年」
気が早いヒデの言葉に陽奈美は笑う。
「明日も会えたら嬉しいな」
そう言うと陽奈美はヒデに背を向け、小走りで階段に向かった。再び守れるはずもない約束をしてしまった自分に今更ながら罪悪感を覚える。
「川崎さん!」
良心の呵責からか、ヒデはその背中に声をかける。陽奈美がふわりと振り返ると、殺風景な廊下が華やかな空間に変わったようだった。
「もし、僕が約束の時間に来なかったら」
「待ってるよ」
陽奈美は間髪入れずに微笑む。
「わたし、佐久間くんが来るまで待ってる。だから、大丈夫だよ」
遠くから再び陽奈美を呼ぶ声が聞こえると、「じゃあね」と陽奈美は角を曲がって階段の方へと姿を消した。
「待たなくていいよ」
ヒデはぽつりと零す。今はただ、約束の時間までに陽奈美が佐久間の訃報を知ることを願うばかりだった。
帰宅したヒデは部屋の片づけを始めた。予定では明日の深夜に堅洲村へ帰る手はずになっている。もう使うこともない教科書や鞄などを一か所に集めておく。自分がこの部屋を去ったあと、既死軍の誰かが全て処分してくれる。またしても短い高校生活だったなと一人笑いながら制服を脱ぐ。ポケットに手を入れると、がさりと袋が音を立てた。取り出すと、陽奈美からもらったクッキーの包みだった。ヒデは手のひらに乗せ、まじまじと贈り物を見つめる。
そこに陽奈美からの連絡が入った。「明日はクラスの用事があるからいつもより早い電車に乗る」という内容だった。明日は偶然がなければ会うことはなさそうだ。ヒデは短く返事を済ませると、携帯電話を伏せて机に置いた。
自分の前では笑っていてほしかった。だから好意も受け取ったし、出かける約束もした。しかし、裏を返せば、自分が見ていなければどんな表情をしていても構わなかった。
ヒデは包装を解くこともなく、手にしていたクッキーをそのままゴミ箱に放り込んだ。




