72話 疎まれぬ
存在するのは、解釈だけだ。
「桜木くん、ここの解釈、君はどう思う?」
ちょうど必修科目である古典文学の授業が終わったところだった。今日も欽上の横に座っていたヤンは声をかけられた。欽上から話しかけてくるということは、それなりの信頼は得られているのだろうと、学友の方を向く。
「先生は『うとまれぬ』の「ぬ」は完了と否定で解釈が分かれているとおっしゃっていたけど、僕は完了だと思うんだ」
シャープペンシルを口元に当て、欽上は考え込んでいるようだった。文学部史学科である欽上は帝国史が主専攻だ。しかし、古典文学にも興味があるのか、教授の話を聞く姿勢は熱心だった。ヤンは質問に対して、そんなものどちらでもいいだろうと内心呆れる。文学など嗜んだところで人生に一体何の利益があるというのだろうか。とはいうものの、同じく文学部である「桜木」は欽上の問いを無下にするわけにもいかず、曖昧な返事を返す。
「どうだろうね。完了という解釈に俺も概ね賛成だけれども」
「桜木くんとは気が合うね」
ヤンの同意が気に入ったのか、欽上は笑顔になる。ヤンはその顔を一瞥すると、さっさと教科書やノートをまとめてかばんに押し込む。勉強は嫌いではないが、既死軍としての生活が長くなった今となっては学校という空間には馴染めないように思えた。
「俺はこれで今週の授業は終わりだけど、欽上くんは?」
「僕も終わりだよ。でも、この後部活に顔を出すつもりだから、帰るのはもう少し遅くなるけれど」
「部活?」
欽上は大学の剣道部に所属していた。あまり参加はしていないようだったが、試合の成績はいいようだ。これは本人の口からよりも先にケイから聞いていたことだった。ヤンはわざとらしくならないように反応する。
「運動ができて羨ましいよ。俺はからっきしだから。俺も何か始めてみようかな」
「じゃあ、今から見に来るかい?」
予想外の言葉にヤンは思わず「え?」と声に出して驚く。適当なお世辞なりなんなりで会話が終わると思っていたが、この男はどうやらヤンに新しい一面を見せてくれるらしかった。
「実は今、剣道部は部員が少なくてね。帝国男児が剣道もしないとは全く嘆かわしい。だから興味があるなら大歓迎だよ」
欽上の親切な誘いにヤンは内心頭を抱えた。「運動はからっきしだ」と言ってしまったが、そんなわけはなかった。既死軍に来て数年、ゴハとの毎日のケンカを含めれば身体を動かさない日はない。剣道と違いはあるものの、剣術もある程度の心得がある。だが、今演じているのは「勉強だけが取り柄の桜木隼也」だ。
「いや、だから俺は、運動は」
両手を振って拒否するヤンの腕を掴み、欽上は半ば無理やり立たせる。その表情は生気に満ち溢れたもので、きらきらと輝きを放っていた。
「ぜひ行こう、桜木くん。帝国第壱大学の名を背負うなら、何事にも挑戦する気概を見せなくては」
耳元ではケイが「行ってこい」と指示をしている。欽上のことを探っているなら当然の判断だ。道場に着くまでにどうにか切り抜ける方法を考えなくてはと、ヤンは引きずられるようにして教室を後にした。
数十分後、道場の隅に正座したヤンは床から伝わる寒さに震えていた。道場では数人の部員がそれぞれ鏡を前に個人練習をしている。汗を流している部員たちにとっては、この程度の寒さなど取るに足らないもののようだ。さっさと終わらせてここから解放されたいと思っていると、紺色の道着と袴に着替えた欽上がヤンの前に現れた。手には竹刀が二本握られている。
「さあ、僕が教えてあげよう。桜木くんは運動はできないと言っているけれど、見たところ、その体格は向いているように思う」
極めて自然な笑顔で欽上は竹刀を手渡す。もし欽上が本当にロイヤル・カーテスを束ねる男だったなら、手腕や癖を知る貴重な機会になる。一旦身に着けてしまった技術を偽るのは難しいだろう。しかし、それはヤンも同じだった。
受け取った竹刀はいつも使っている木刀よりも軽く、服も運動に適さないセーターだ。これなら勝手も違い、初心者ぶることもできるだろう。誘の中でも誰かになりすます潜入捜査はこなしてきた方だ。そう意を決して立ち上がったヤンはまっすぐ欽上を見つめると、「よろしく」と笑顔を返した。
「篤紀ー! 今帰り? それなら一緒に帰ろ」
ヒデが個人ロッカーに教科書を詰め込んでいると、監視対象の犬飼が話しかけてきた。積極的に交流したかいがあったものだと快諾する。
教室から下駄箱を通り、正門に出る。遠くから部活らしい声が聞こえてくる。
「今日のみっちゃん、めちゃくちゃ怖かったよなー。持ち物検査なんてするから怒る材料が増えるのにな」
肩を並べて歩く犬飼はけらけらと笑ったかと思うと、突如始まった持ち物検査で担任に取り上げられていた携帯ゲーム機を鞄から取り出し、得意げに見せる。
「取り返せたんだ」
「俺、去年もみっちゃん担任だったんだよ。だから攻略方法はバッチリっていうか。篤紀も、もし何か取り上げられたら聞いてくれよな。教えるから」
「わかった。そうするよ」
ヒデは横目で鞄にゲーム機をしまう犬飼を見る。言葉の端々に滲む一般人らしさは会った当初から変わることはない。ケイが「犬飼はただ容姿が璽睿と似ているだけだろう」とヒデを送り込んだだけのことはある。これが演じているものだとしたら、相当な擬態能力だ。
「もうすぐ冬休みだけど、篤紀は何するんだ? 帝国の年末年始は初めてだろ」
「そうだね。家族と過ごすかな。あと宿題したり」
ヒデの言葉に犬飼は素っ頓狂な声を上げて、わざとらしく驚く。
「宿題やるとかめちゃくちゃ優等生じゃん! できたら写させてくれよ」
「別にいいけど」
するつもりもない宿題の話題を出してしまったことにヒデは多少罪悪感を覚えた。犬飼は恐らく「佐久間の宿題」を頼って自分ですることはないだろう。しかし、当の佐久間は冬休み中に事故死する予定だ。にこにこと笑顔を作る犬飼に、期待をさせてしまったことを申し訳なく思う。
「そうそう、和樹とか裕也とかといっしょに初詣行くんだけどさ、篤紀も来る?」
「初詣はいいかな。誘ってもらって悪いけど」
これ以上犬飼に守れもしない約束はするものではないとヒデはきっぱりと断った。残念そうな表情をした犬飼だったが、納得したように了承の返事をする。
「そりゃ初めての帝国での正月は家族と過ごしたいよな。来年は、いや、再来年? 行こうな!」
年末年始は何もなければ堅洲村で迎えるだろう。一方犬飼は友人たちと出かけるらしい。犬飼たちと自分は、生きる世界こそ違うものの、確かに同じ時間を生きているんだなとヒデは感じた。
辺りは暗くなったが、帝国第壱大学の剣道場には煌々と明かりがついていた。道場にはいつのまにか欽上とヤンの二人だけになっていた。他の部員たちは、おのおの練習に満足すると帰ってしまっていた。欽上から挨拶をしていたところを見ると、同級生ではなく先輩なのだろう。
「第壱大は特に強豪校というわけでもないからね。趣味や体力づくりの一環でしている部員がほとんどなんだよ。軍や治持隊に入るためにしているって先輩もいらっしゃるみたいだけれど」
人気がないことを言い訳したいのか、欽上は汗を拭きながら困ったように少し口角を上げる。
ヤンも竹刀を下ろし、手の甲で汗をぬぐう。剣道の基本的な動作を学んだことのなかったヤンは、今後何かに生かすことはできるだろうと真剣に欽上の指導を受けていた。ゴハとも、他の宿家親とも違う観点は参考になった。ただ、結局はルールの存在する「競技」だ。実戦向きではないなと、自分に剣術を教えてくれたゴハの顔を思い浮かべていた。
ゴハは勝負となると、いまだに狂気を孕んだ視線を自分に向ける。ただのケンカであったとしても、誘のときから変わっていないであろう炎を宿した目をしていた。自分がしたいのは、安全な場所で行われる安全な競技ではない。
ヤンが小さく息をつき道場の正面に掛けられた時計を見ると、長針は既に一周していた。欽上もヤンの視線につられて時計を見る。
「そろそろ僕らも終わろうか。僕は掃除をするけれど、桜木くんは帰って構わないよ。無理矢理誘ったのは僕だからね」
部活程度だとこんなものかとヤンは竹刀を預け、礼を言った。受け取った欽上は背を向け、数歩歩くと、何かを思い出したように「桜木くん」と立ち止まった。
何かとヤンが首をかしげると、欽上は振り向きざまにヤンの眉間に竹刀を振り下ろした。突然のことだった。
しかし、その動作は幾多の任務をこなしてきたヤンには遅すぎるほどの映像、もはや静止画にすら見えていた。これぐらいであれば防ぐことも、かわすことも容易い。しかし、今の自分は運動が苦手だと言っている一介の大学生だ。凡人にそんなことができるだろうか。相手は段位こそないものの、試合に出れば常勝の実力者だ。だが、このまま何もしなければ良くて脳震盪、最悪の場合は死んでしまう。自分のとる行動は一体何が正しいのか。
ヤンは咄嗟に少し身を引いて目をつぶった。これが一般人として正しい選択だ。欽上を信頼しているわけではないが、「品行方正な学生」が大学の構内で暴力騒ぎも起こさないだろうと、一般的な思考に賭けた。
その賭けには勝利したらしい。恐る恐る目を開けると、紙切れ一枚通るかどうかの距離で竹刀がヤンの顔にくっきりとその影を落としていた。ゆっくりと竹刀を眉間から離しながら欽上は笑う。
「桜木くんの呑み込みが早いから、嫉妬してしまってね。単なる戯れだよ。悪かったね」
目を細めると、「ただ」と言葉を続ける。ヤンの顎に手を添えて軽く引き、その視線を顔ごと自分に向かせた。
「驚いたときや恐怖を感じたとき、人間の瞳孔は開くものなんだよ、桜木くん。そうでない君はよほど度胸があると見える。それとも」
ヤンはただ欽上を見つめていた。欽上は一瞬口をつぐみ、そのまま手を離した。遠くからは道場に向かう複数人の足音が聞こえてくる。
「いや、やめておこう。掃除は彼らに任せるとするよ。僕は着替えるから、桜木くんはそのまま帰ってくれて構わないよ。それじゃあ、また来週」
そう言うと、欽上はそのままヤンの横を通り過ぎた。立ち去る欽上を振り返ることもせず、ヤンは呆然と正面を見ていた。今になって目が泳ぎ始め、状況を把握する。自分の正体がバレているとでもいうのだろうか。それとも、欽上が言った通り、ただの屈託ない褒め言葉なのだろうか。含みのある言葉を残して欽上の姿は見えなくなっていた。
この世界はケイの予想通りに動いていく。欽上太陽は、シド達が対峙したロイヤル・カーテスを束ねる男、璽睿だ。そう確信したとき、全身を寒気が襲った。
ヤンは顔を引きつらせながらも、別の理由で笑いが込み上げてきた。
「なんだよあいつ。そういう趣味か?」




