70話 手放した日常
在りし日、のはずだった。
声の大きさを増す男に近づいたヒデは、振り上げられていた腕をすんでのところで掴んだ。
「女性に手を挙げるとは、それでもあなた、帝国男児ですか」
ヒデは静かに男を睨む。男の方がわずかに背が高く、見上げる形になったのはいささか気に食わない。それでもヒデの眼光に男は一瞬たじろいだ。
しかし、後にも引けなくなったのか、怒りの矛先は当然の如くヒデへと向かった。腕を振り払い、ヒデの胸倉を掴み「ガキが」と吐き捨てる。この男が既死軍から始末するように言われていたのであれば手っ取り早く攻撃できるのになと、お互いに一般人であることをもどかしく思った。
こうなってしまっては穏便に済ませることはできないだろう。殴られるぐらいは覚悟しておくべきなのかもしれないと意を決する。
そんな時、誰かが通報したらしく、やっとのことで若い男性車掌がやってきた。このような場面は何度も経験してきたのだろう。車掌は男の言葉に理解を示すように相づちを打っていたが、間もなくして駅に止まると、待ち構えていた駅員数人に無表情で引き渡した。男が連れて行かれたあと、駅に下ろされて車掌に事情を聞かれたヒデと女子生徒だったが、車両に設置されている防犯カメラの映像を手元の電子端末で確認するとあっという間に解放された。
その場に取り残された二人は顔を見合わせる。
「あの、助けてくれてありがとうございました」
深々と頭を下げる相手にヒデは慌てて首を振る。誰かに感謝されるのは久しぶりのことで、顔が赤くなるのを自ら感じた。
「そんな、別に大したことじゃないので、気にしないでください。それより、ケガとかしてませんか?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
にっこりと笑ったその笑顔を、どこかで見たことのある顔だとヒデは考えを巡らせる。中学の同級生だったか、それともテレビや雑誌に出ている有名人に似ているのか、一向にその答えは出なかった。
「よかったら、一緒に学校行きませんか?」
その誘いに、ヒデは改めて目の前にいる女子生徒の制服を見る。自分と同じ色合いをしたブレザーとスカートだった。にっこりと笑いかけた女子生徒は自己紹介をする。川崎陽奈美、ヒデと同じ高校の普通科二年生らしい。ヒデは知り合いを増やすのも何かの役に立つだろうと快諾すると、すぐにホームへと入って来た電車に乗り直す。学校の最寄り駅で降りると、歩幅を合わせて歩き始めた。
ヒデが外国からの転校生だと知った陽奈美は、弾けんばかりの笑顔で海外生活について矢継ぎ早に質問を重ねた。高校で転校生というだけでも珍しいのに、それが海外からとあれば興味を持つのも当然だろう。ヒデはケイが練り上げた佐久間篤紀の半生を、さも事実であるかのように語った。ヒデが学校について質問をしようとした頃にはもう正門に着いていた。
「あの、よかったら、連絡先交換しませんか? 帝国に来たばかりだとお友達もいないですよね? 困ったことがあったらいつでも連絡してください。今日のお礼です」
陽奈美は携帯電話を取り出し、恐る恐る提案をする。ヒデも手に入れたばかりの携帯電話を同じく手にすると、連絡先を教えた。
「ありがとうございます。佐久間くんは何組なんですか?」
「最初は職員室に来るように言われてて、まだ知らないんですよね」
「じゃあ、職員室まで案内しますね。私は八組です。もし一緒だったら仲良くしてくださいね」
ヒデが返事をすると、陽奈美は何かに気付いたように「もちろん、違う組でも仲良くしてください」と付け足した。
一方、ヒデが初登校して一時間目の授業を受け終わったころ、桜木隼也という名を与えられたヤンはケイからの無線に夢を破られていた。
「おいコラ、いつまで寝てるんだ」
「あと、ごふん」
頭まで被った布団の中で寝返りをうちながら、ヤンは耳元で聞こえるケイの声を鬱陶しく思った。枕元では、覚えている限りでは三回目となる目覚まし時計も鳴っている。
「今が任務中だってこと、覚えてるんだろうな」
ケイの悪態をあしらうように、ヤンは半分意識を夢の中に飛ばしながら口を動かす。
「中央棟南三号館三〇六教室、十時二十五分からの二時間目、自然科学概論。欽上太陽は最前列の真ん中によく座っている」
「その通りだ」
呆れたようにケイは会話を続けながらモニターを見る。画面の向こう側、教室の監視カメラには一時間目が終わった休憩時間、教室でクラスメイトと談笑するチャコの姿があった。方言を使う転校生もやはり珍しいらしく、チャコの性格もあってあっという間に数人に囲まれていた。
「今、九時半だ。そこから大学まで電車と徒歩で約三十分、そろそろ起きてくれんと任務の遂行にかかわるぞ」
「わかったよ」
やっと目覚ましを止め、上体を起こしたヤンは気だるげに大きく伸びをしながらあくびをする。
「なんで俺が大学生なんかしなきゃならねぇんだよ。中学もまともに行ってないの知ってるだろ。もっと適任いなかったのかよ」
「いないからお前なんだよ」
「聞いて損した」
そうボヤくと、ヤンは手近にあった服に着替え、ぼさぼさの髪のまま洗面所に向かう。大学生の一人暮らしに相応しい狭苦しいワンルームマンションでは、たった数歩で目的地までたどり着く。狭いというのも便利なものだなと顔を洗って眠気を覚ました。
「他の奴らは首尾よくやってんのか?」
「高校生のチャコとヒデは今日から登校だ。高校は書類関係がなかなか厄介でな。その点、大学は学生数が多い分偽造が簡単だ。お前の第壱大の在籍者数は約二万七千人。それに対してチャコの第三高校は七百二十人。俺がどれだけ頑張ってるか、お前ら誘にはもっと評価してほしいもんだな」
「何言ってんだよ。それがケイの仕事だろ」
十二月の冷水は目を覚ますのには十分だった。ヤンは鼻で笑ってケイのぼやきを一蹴する。いつもの表情を取り戻したヤンは、何度か会話を重ねた監視対象と今日も懇意になるために登校する準備を始めた。
「欽上くん、おはよう」
「やあ、桜木くん。今日も僕のノートを借りるつもりかい?」
欽上と呼ばれた青年はヤンにっこりと笑いかける。その隣に座り、ヤンは筆記用具や教科書などを机の上に取り出す。
「いやいや、先週借りたので十分だよ。欽上くんのノートはわかりやすくて参考になる。流石、すでに主席と名高い欽上くんだね」
必死に練習したよそ行きの話し方と笑顔でヤンも答える。
ケイが集めた情報によると、この欽上という男はいつも穏やかな笑顔を絶やさず、物腰も柔らかい。それでいて成績も優秀で、幼少期からエリート街道を邁進していた。ただ、不気味なほどに「できすぎた」人間だった。家族も生い立ちも、あまりにも情報が整いすぎている。ケイが作り上げてきた架空の人間たちと似ているように思えてならなかった。絞り込んだ四人の中でケイがこの欽上太陽という男を最も警戒しているのはそういう理由だった。
「そうだ、欽上くんがよければ一緒に昼食でもどうかな」
教授が教室に入って来ると、欽上は返事をすることなく再び笑顔を作ってうなずいた。こんな朗らかな表情をする人間が本当にロイヤル・カーテスを率いるような男なのだろうか。ましてやここは帝国第壱大学。帝国の最高学府にして、最高峰の学び舎だ。そんな、行く末が約束されたような男が、わざわざ自分の生死すら左右するような世界に身を置くだろうか。
ヤンはちらりと横目で欽上を見遣る。教授の言葉をメモするその姿はどう見てもただの大学生だった。
チャイムが鳴り、授業終了と昼休憩開始を同時に告げる。机に広げられた本や筆記用具を鞄にしまいながらヤンは話しかける。
「北部棟の食堂はどうかな。人が少なくて落ち着けると思うんだけど」
「三時間目は北部棟なんだ。そうしてくれると助かるよ」
既に見慣れた笑顔で欽上も同意を示す。常に最適な会話ができるよう、欽上の時間割は当然、趣味や特技なども記憶済みだった。
肩を並べ、階段を下りる。第壱大学は学力だけではなく、敷地の広さにおいても帝国一だ。普段はさほど広くもない堅洲村で、数えられるほどの人数と共に生活しているヤンにしてみれば、こんなところに何万もの人間がいるというのは不思議に思えた。
券売機で食券を買い、料理を受け取ると座席に着く。薄暗く陰気なこの食堂は割高なこともあり、昼時だと言うのに空席が目立っていた。
たった一か月にも満たない時間ではできることは限られている。少しでも情報を引き出すため、ヤンは欽上が興味を持ちそうな話題を出し、心理的距離を縮めようと画策する。怪しまれないためには欽上以外にも友人を作る必要がある。友人作りに関係の維持、それに加えて勉学が本分とは、学生はこんなにも大変なものだったかと自分の学校生活を思い出してみる。まだ月曜日だと言うのに気が滅入りそうになった。
夕方、転校初日という重大任務を終えたヒデは疲れ果てて自宅へと戻って来ていた。制服を脱ぎ捨て部屋着に着替えると、すぐさまケイに電話をかけた。待ち構えていたかのように、一回目の着信音でケイの声が聞こえてきた。
「ケイさん、川崎陽奈美について調べてください。同じ高校の普通科二年八組です」
「何だ、任務の報告より先にそんな話か。私用で俺を使うのは許さんぞ」
「違いますよ。どこかで会ったことがあるはずなんです。何だか気になって」
「いいだろう。もし阿清秀の知り合いなら素性がバレる危険性もある。一応全校生徒や生活圏内で鉢合わせしそうな人間に知り合いはいないはずだが、早急に調べよう。一時間後にはわかるはずだ」
そういうケイの声にはキーボードを叩く音が混じり始めた。
「ありがとうございます。それと、監視対象の犬飼武司ですが、璽睿と確かに顔や雰囲気は似てはいますが、別人のように思います。直観なので何の当てにもなりませんが」
「直観は当たるも八卦、当たらぬも八卦だ。それより勉強は大丈夫そうか?」
「勉強よりも六時間座り続けるほうが苦痛かもしれません」
ヒデのため息交じりの声にケイは笑う。任務であれば何時間でも同じ体勢を取り続けられるのだろうが、学生として椅子にきちんと座るというのはどうやら難しいらしい。
「まぁ、とにかく監視は三週間続けてくれ。もし俺の方でも確信が持てたら早めに切り上げるかもしれん。三週間も四人を潜入捜査に駆り出してたんじゃ他の誘たちへの比重が大きすぎるからな」
「わかりました」
「じゃあ、早ければ一時間後に川崎陽奈美の調査結果を連絡する。ヒデは予習なり宿題なり、自由に過ごしておいてくれ」
「はい。よろしくお願いします」
ぶつりと通話が切れたかと思うと、それと入れ替わるように陽奈美からのメッセージが届いた。「明日も一緒に学校行きませんか」という誘いにヒデは少し悩んでから返事を送った。




