58話 救済
生きるために、忘れろ。
障子越しの柔らかな光が薄暗い部屋を少しずつ明るくしていく。キョウは顔に射す陽光でゆっくりと目を覚ました。何度か瞬きをすると、目だけで辺りを見回す。変わらない、いつもの天井、いつもの布団、いつものぬいぐるみ。いつもと違うのは少し頭痛がするぐらいだ。布団の中で黎兎を抱きしめ、顔をうずめる。
「おはよう、黎兎。今日も楽しい一日にしようね」
目覚めたときに必ず口にするその言葉はまじないにも似ている。いつから始めた習慣だったのだろうか。はっきりとした言霊信仰があるわけではないが、口に出したらその通りになるような気がしていた。
きれいに布団を畳み、背伸びをして押入れに片付ける。この村に来たばかりのときはつま先立ちをしても届かず、宿家親のヨミに片付けてもらっていたが、いつからか自分でしまえるようになっていた。背が伸びるにつれ、村の見え方も変わってきた。いつか背伸びをせずとも布団が片付けられるようになるんだろうなと、押し入れから文机に移動する。机の壁には予定表が貼ってある。布団を片付けた後、予定表を確認するのがキョウの日課だった。しばらく眺めると、不思議そうに首をかしげた。
「あれ? 今日って畑当番だっけ?」
自分の記憶では、今日は様々な訓練を行う薫陶だったはずだ。しかし、表によると三日前とっくに終わっているらしかった。記憶を手繰ってみても、それらしい事は覚えていない。あとでヨミに聞けばわかるはずだと、障子を半分開ける。縁側に出て空を見上げると、秋とはいかないまでも、夏はもう過ぎ去ったような風が吹き抜けていった。部屋に戻って再び押し入れに向かい、今度は下段から葛籠を引っ張り出す。漆塗りの蓋を開け、きれいに畳まれた何着か手に取ってみる。着替える服を少し悩み、薄手の長袖に決めた。
黎兎を両手で抱えながら居間への襖を開けると、いつも通りヨミが正座をして本を読んでいた。囲炉裏にはたっぷりのお湯が沸かされ、ほのかに部屋を暖める。台所には洗いたての野菜が光を反射し、もうすぐ炊き上がりそうな釜が熱そうな湯気を立てている。
朝の挨拶を交わすと、裏庭の花への水やりを頼まれた。キョウは笑顔で返事をすると、おんぶ紐で黎兎を背中に括り付け、玄関の隅に置かれていたバケツを手に「行ってきます」と川に向かった。
『やっと起きたか』
それはケイからヨミに充てた無線だった。ヨミは本を膝に置き、ぐらぐらと沸き立つ熱湯を見つめる。
「起きてきた様子では特に変わったところはありませんでした。黎兎を元通り直してくださったこと、感謝します」
『それはイチとジンの功績だ。それで、この前ヤヨイから聞いた通りだが』
ケイは一度言葉を止める。傷口に塩を塗るのは酷なことだが、それでも追い打ちをかけ、現実を見せ続けるのが自分の役割だ。ここは天国でもなければ地獄でもない。
『記憶障害がこれから顕著化するかもしれないとのことだ。キョウが覚えていないと言うなら無理に思い出させる必要もない。忘れてくれていた方が既死軍にとって都合がいいことも多いだろう』
一度聞かされていたはずの話にヨミは視線を落とす。一点を見つめ、浅く呼吸をした。
「私には、何ができますか」
『何も』
その短い言葉がすべてを物語っていた。ヨミの握っている拳に更に力が入り、震え出す。これは怒りか恐れか、それとも、行き場も名前もない感情なのだろうか。平和で平凡だった毎日が音を立てて崩れていく感覚だった。自分はそれを知っていたはずなのに、「堅洲村」がどういう場所か理解していたはずなのに、それでも現実はどうしてこうも受け入れ難いのだろうか。
「わかりました。今まで通り接します」
『頼んだぞ』
ヨミは眉間にしわを寄せ、唇を噛んだ。自分は何もしてやれないのだと、キョウと一緒に暮らしてきた日々を思い出す。いつか、自分のことすら忘れてしまうかもしれないという恐怖がヨミの身体を貫いていった。わずかに呼吸が震えているように思えた。
「ヒデー! 珍しいね、こんなところで会うなんて」
水で満たされたバケツを置き、正面からやって来たヒデに大きく手を振る。同じくブリキ製のバケツを持ったヒデも小さく手を振り返す。平静を装うが、元気そうなキョウの様子に心中で安堵していた。背中にいる黎兎も元通りのようだ。
数日前、任務からルキの事務所へ戻ったとき、ルキの口から伝えられたのはキョウに関する出来事の緘口令だった。それは黎兎が無残な姿になったことはもちろん、ロイヤル・カーテスに出会ったことや、キョウが口走った言葉にまで及んだ。最早それは「任務がなかったこと」にされたも同然だった。ただキョウに余計な心配をさせないためかと思われたが、ルキの口ぶりではどうやら別の思惑もあるようだった。それが何かは知る由もない。
水を汲んだヒデは、これから裏庭の花に水撒きするのだと嬉しそうに話すキョウと並んで、来た道を戻る。任務での出来事を覚えていれば、一言ぐらいそれについて言及しそうなものだが、そんな素振りすらないところを見ると、本当にあの日の出来事は記憶から跡形もなく消え去っているようだった。
「ねぇ、キョウ。あのさ」
ヒデは足を止める。一つ聞きたいことがあった。ロイヤル・カーテスに会う前、キョウが遠くのビルの灯りを眺めているときに言いかけた言葉の続きは一体何だったのか。表情こそ見えはしなかったが、声色から楽しい話ではないことは窺えた。しかし、緘口令が敷かれてしまった今、それについて聞くことは命令に反する行為だ。ヒデは口に出かけた言葉を飲み込んだ。振り返っていたキョウは不思議そうな顔をする。
「あのさ、確か、キョウの宿って早咲きの秋桜あったよね? もし咲いてたら、もらってもいいかな」
「うん、いいよ! 薄紅色と白色、両方咲いてるよ!」
満面の笑みでの返事は、あの夜の欠片も感じさせなかった。
適当な本数の花をヒデに手渡したキョウは空になったバケツを元の場所に戻す。居間には朝食の準備が整っていた。
「水撒きありがとう。朝ごはんにしよう」
「やったー! 茗荷の混ぜご飯だー!」
匂いで献立を当てたキョウは嬉しそうに靴を脱いでヨミの手伝いを始める。
「今日は畑当番だからいっぱい食べますよ」
蒸らしてあった釜のご飯をしゃもじでかき混ぜながら、にこやかにそう宣言する。ヨミは笑ってみそ汁を器に注ぐ。
「そう言えば、僕、ヨミさんに聞きたいことあったんですけど」
茶碗にいつもより少し多めにご飯をよそうキョウを横目にヨミは平静を装う。続く言葉によってはこの日常が壊れてしまうかもしれない。緊張感に襲われるヨミの心情などは全く意に介さないキョウは宿家親を見て笑った。
「忘れちゃいました。思い出したらまた聞きますね」
「忘れる事ぐらい、だれにでもあるよ」
まだ手を高く上げなくても撫でられる頭の位置にヨミは再び笑顔を作る。今、横で笑っている少年が、記憶も思い出も失い始めるのだという確信にも似た恐怖を笑顔で塗りつぶした。忘れることで幸せになることもあるだろう。それは間違いない。記憶をほとんど失った状態で堅洲村へやって来たキョウが毎日笑顔で過ごしているのがいい例だ。
失うことで救われる人間もいる。それなら、自分もキョウも救われる側でありたい。ヨミはそう願った。
風も冷たくなってきた夕暮れ。ミヤが足早にケイの宿を訪ねてきた。鍵が掛かることはない玄関の引き戸を開け、何度か呼んでみるが、一向に返事はない。いつもは取り次いでくれるイチも今日はどうやらいないらしい。
「こういう時は大体、寝てるんだよな」
そう独り言を言うと、勝手に靴を脱いであがった。その予想通り、モニターや無線機などの電子機器で埋もれている部屋の真ん中でケイは倒れるようにして眠っていた。穏やかな寝息を立てているが、その顔は死人のようだ。ゆっくりと布団で寝る暇すらないケイを不憫に思いながらも、声をかけてゆすり起こす。覚醒は早く、それもまた職業病のようでまた不憫に思う。仰向けのまま目をこすりながらも、愚痴の一つもない。
「なんだ。頭主さまから何か依頼か?」
「いや、シドから気になる話を聞いたもんでな」
「情報源がシドとは、珍しいな」
起き上がったケイは慣れた手つきでモニターを切り替えていく。
「蜉蒼、もしくはロイヤル・カーテスについてだ」
ミヤの言葉にケイは手を止める。つい最近蜉蒼の那由他と思われる男の姿を初めて認識したばかりだ。いやに情報量が多いなと訝しむ。
「シドは何て?」
「まぁ待て。そんなに焦る必要もないだろう」
ミヤはケイの隣にスペースを作り、胡坐をかく。物にあふれたこの部屋では大人が二人も座るのは至難の業と言える。今情報を伝えてもいいが、そうするとこの横に座っている男はまた昼夜の感覚を失い、倒れるまで働き続けるだろう。もしくはイチに睡眠薬を盛られて強制的に眠らされるかの二択だ。どちらにしてもケイの寿命を削る行為に違いない。複雑な組織である既死軍をまとめられるのは、今のところケイしかいない。一日でも長く健康に生きていてもらわないと困る。たまにはのんびりと世間話でもしてやりたいところだと、ミヤはのらりくらりと山積みの本をわずかに空いている場所へ押しやる。
「しかし、ロイヤル・カーテスも蜉蒼を追っているなら情報は早いほうがいい」
「それはそうだが、あいつらに既死軍ほど蓄積されたデータがあるとも思えん。俺たちの方が有利だ。善は急げだが、急がば回れという言葉もある」
「屁理屈は相変わらずだな」
「政治屋のジジイどもとばかり話していると、どうしてもな」
机に頬杖を突いたケイはミヤを見てふっと笑った。
「俗世に生きるのは大変そうだな」
「案外、そうでもないさ。生きてる人間にしてみればな」
「俺にはもうわからん感覚だ」
「ケイならいつでも蘇れるだろうよ」
「蘇るなんて、既死軍の一体だれがそんなこと望んでるって言うんだ」
「厭世的な人間の集まりだってか」
「そこまで言うつもりはないけど」
「まぁ、お前が望むなら、元老院にでも大審院にでも席は用意してやるよ」
「俺はここ以外で生きるつもりはない」
ケイは頬を支えていた腕を机から離し、手を組んで天井に伸ばす。
「ところで、頭主さまはお元気か?」
「お変わりない。年末ごろに依頼があるかもしれん。俺にも詳しくは話してくださらないが、何かお考えがあるようだ」
「頭主さまの依頼なら何でも。仰せのままに」
下ろした手で今度は好き放題に伸びた前髪を掻き上げる。陰気な部屋にお似合いの見慣れた髪型だ。
「上に立つ人間なら身だしなみぐらい気にしたらどうだ?」
今しがたおろしたばかりのようなワイシャツ姿のミヤは嘲笑気味に伸び切ったケイの髪に触れる。
「戦時中はもっと短かっただろ」
「戦争は終わった」
ミヤの言葉を鼻で笑い返し、手を振り払う。ゆっくりと昔話に花を咲かせている場合ではないことはわかっているが、それでもたまには現実から逃れたいときもある。ケイは再び髪を掻き上げ「逆にミヤは長かったよな」と笑った。
忘れていればいいことを、よくも思い出したものだとミヤはわずかに眉をひそめる。そんな表情にはお構いなしにケイはぽつりと呟いた。
「思えば、長生きしたもんだな、俺たちも」
狭苦しい部屋の中で、その視線はどこか遠くを見つめていた。




