53話 過ぎ去る日
今日が、昨日になっても。
徐々に日も短くなり、早々に太陽が傾き始める。遠くからはヒグラシの声が聞こえている。世では「暑さ寒さも彼岸まで」と言うが、いまだ残暑は厳しい。ヒデは額から顎に垂れてきた汗をぬぐい、一息ついた。
明日は遂に頭主が堅洲村に来る日だ。数日前から宿家親、誘総出で慌ただしくお迎えの準備が始まった。その間も任務に駆り出される誘は目の回る忙しさとなっていた。
ヒデも空が白み始めたころに帰って来たかと思うと、ゆっくりと寝る間もなく昼前にはもう会議場の掃除に呼ばれていた。畳を拭いた雑巾をバケツで洗っていると、聞き慣れた飄々とした声が聞こえてきた。
「お~やってんね~。お疲れ様~」
そこには堅洲村で初めて見るルキがいた。相変わらずのスーツ姿ではあるが、普段と違う場所で見るその姿には違和感があった。
「お前、そのきたねぇ足で上がんなよ!」
拭きたての畳に上がろうとするルキの顔面目掛けて、ヤンがまだ洗っていない雑巾を投げつける。
「え~ごめんごめん~」
攻撃を軽々とかわし、むなしく床に落ちた薄汚れた布切れを拾い上げる。
「遼平ってば、暑さでイラつくのはよくないよ~」
ヤンは下手で投げ返された雑巾を右手で受けると、「うるせぇ」と面倒くさそうに洗い始めた。そんな二人のやりとりを見て、頭にタオルを巻いたチャコが「なんやルキ、邪魔しに来たんかいな」と茶々を入れる。
「え~手伝いに来たんだよ~。失礼だな~」
「そういうのは、その動きにくそうな背広脱いでから言えや」
チャコにも雑巾を投げられるが、「雑巾って投げるためのものじゃないからね~」と笑いながら避ける。スーツの上着を脱いでネクタイを緩め、シャツを腕まくりをしたルキは気合を入れるように両手で前髪を掻き上げる。
「あとどこ終わってないの~?」
「乾拭きだけですかね」
ヒデは雑巾を固く絞りながら、広々とした畳敷きの会議場に目をやった。頭主を迎える場所として特に念入りに掃除するようにと言われてはいるが、この広さを掃除するのはいささか骨が折れる。
「目標時間どれぐらい~?」
「日が落ちるまでです」
「もうないじゃん!」
慌てたように新品の雑巾を手にする。
「ルキさんが来たからには百人力だからね~!」
「そのしょうもない口じゃなくて手を動かしてくれ」
ヤンの正論に渋い顔をしたルキは、とぼとぼと端から畳の目に沿って手を動かし始めた。隣で同じく拭き掃除を始めたヒデは興味本位で堅洲村でのルキの過ごし方を尋ねた。しかし、それはすぐに聞くんじゃなかったと後悔することとなった。
「ルキさん、今日はどこで寝るんですか?」
「ゴハのところだよ~」
「はぁ!? 聞いてねぇよ!」
素っ頓狂な声を上げてヤンがルキを振り返る。
「だってゴハに口止めしてたんだも~ん」
その言葉に何かを思い出したようにヤンが苦虫を噛み潰したような表情になる。
「ゴハが今日飯作るって言ってたの、そういうことか」
悔しそうに頭を抱えたかと思うと、鋭い視線でルキを睨む。
「部屋空いてる宿で寝ろよ! 何でわざわざ俺の宿なんだよ!」
今度は渇いた雑巾を投げつけられ、すぐさま投げ返す。
「ちゃんとミヤとケイの許可ももらってるし~」
「俺の許可は!」
「誘にはさ~、そんな権限ないんだよね~」
ルキはけらけらと笑いながら意地悪な顔を見せ、言い返すことのできないヤンはただ歯をギリギリと鳴らした。事の発端となったヒデは申し訳なさから、静かにその場から少し離れたところに退散する。
「遅かれ早かれわかることやし、ヒデのせいちゃうからな」
逃げた先にいたチャコに慰められるように肩を叩かれ、ヒデは苦笑いする。明日は大切な日ではあるが、それでも変わらない日常を過ごしている二人を遠目に眺める。何でもない日々の積み重ねが「いつもの毎日」になるんだなと当然のことが頭をよぎった。
全ての準備を整えた堅洲村は誰もが明日を万全の体制で迎えるべく、早々に寝静まっていた。今晩だけ住人が一人増えたゴハとヤンの宿も例外ではなく、夕食、風呂と一悶着はあったものの、近隣に迷惑をかけるほどの騒ぎにもならず収まった。
ヤンは寝る場所を賭けてゴハに勝負を挑んだものの、あっさりと投げ飛ばされ、渋々ルキと布団を並べて寝ることになっていた。枕元に置いたオイルランプのつまみを回し、徐々に火を小さくする。今まで一人で寝てきただけに、隣に誰かがいるのは落ち着かないように感じる。それがルキなら尚更だ。ふっと息を吹きかけ、完全に消火する。それでもうっすらと室内に入る月明かりで暗闇になることはない。
ルキに背を向けて目を閉じたものの、「おやすみ」と言うかどうか迷っている内にルキの方から話しかけてきた。隙を与えずに寝る宣言をしておくんだったとすぐさま後悔する。
「ねぇねぇ遼平~。修学旅行ごっこしようよ~」
「いい年こいて何言ってんだ」
「だってルキさん、いつも独りぼっちだしさ~。たまにはいいじゃん~」
「さっさと寝ろ」
ルキは少し上体を起こし、肘枕の状態でヤンの背中に笑いかける。
「遼平はさ~、修学旅行って行った~?」
このまま会話を続けてもいいものか悩み、少し間をおいてから、「行った」とぶっきらぼうに答える。
「え~うらやましい~。ルキさん学校なんてほとんど行ってないからさ~」
「お前の身の上話なんて微塵も興味ねぇよ」
「じゃあ枕投げしよっか」
脈絡があるのかないのか、ヤンは口を真一文字に結んでいたにもかかわらず、思わず声に出して笑い始めた。そんな背中にルキは満足そうな笑顔になる。
「遼平が笑ってくれるなら、それが一番ルキさんにとっての幸せだよ」
「残念ながら、俺はその遼平じゃないけどな」
「それなら、ヤンが笑っててよ」
「お前のためには笑ってやらねぇよ」
説得力のない表情でヤンは頭から布団をかぶる。弟の姿を自分に重ねているらしいルキに優しくしたいなどと思ったことはない。それどころか鬱陶しく感じることの方が多いぐらいだ。
「おいお前らうるせぇぞ! ルキも寝ねぇなら放り出すからな!」
騒がしさで目が覚めたのか、ぼさぼさの髪をしたゴハが勢いよく襖を開けた。壁にぶつかった襖が渇いた音を静寂に響かせる。ルキに関わると碌なことにならないとヤンは布団の中でため息をつく。
「ごめんごめん~。修学旅行ごっこしててさ~」
「してねぇよ!」
すっぽりとかぶっていた布団から顔を出し、反論する。ルキに任せていたのではあることないこと言いかねない。
「え~? 枕投げしようって話したじゃん~。あ、ゴハも参加する?」
ヤンは「うるせぇ」と手近にあった枕を勢いに任せてルキに投げつけた。
「ほら~やる気満々じゃん~!」
図らずも自ら開戦してしまったことに気づいた時にはもう遅かった。ルキは嬉々としてゴハに枕を投げつける。避けることもせず、顔面で受け止めたゴハは「いい度胸してるな」と青筋を立てている。どこか子供っぽさの残る宿家親は「やるなら勝つまでだ!」と足を高く上げ、さながら野球選手のごとく投げ返す。そば殻の入った硬めの枕は当たるとなかなかに痛みを伴う。遊び半分で投げるには不向きだ。それでも両手で受け止めたヤンは立ち上がり、宣戦布告する。
「負けねぇよ」
数十分後、布団の上に大の字になったヤンとルキは肩で息をしていた。圧倒的な強さを見せつけたゴハはとうの昔に自室へと引き返していた。
「何~? もしかしてゴハってめちゃくちゃ強いの~?」
「認めたくはねぇけどな」
「せっかくお風呂入ったのに意味ないじゃん~」
そう言うルキは額から流れる汗を手の甲で拭った。
「でも、楽しかったね~」
相変わらずの笑顔でヤンを見遣る。それはゴハに叩きのめされても、それすら楽しんでいるような表情だった。
「頭主さまのおかげで、ルキさんは毎日笑ってられる。嫌なことも、悲しいこともあるけど、それでも、ルキさんは既死軍に来てよかったと思ってる。ねぇ、ヤンは、どう思う?」
ちらりとルキを横目で見たヤンは「教えてやんねぇ」と再び頭から布団をかぶり、一切を遮断した。普段見ることのないヤンの様子にルキは少し笑って「おやすみ」と声をかけた。
数分後、隣の布団からはかすかに寝息が聞こえ始めた。体を起こしたヤンは、そう言えばケイに次ぐ睡眠不足の役職だったなとルキの寝顔を見る。
「こいつの寝てるところ初めて見たな」
寝るというのは最も無防備な状態だ。それを他人である自分の真横でよくもできたもんだと呆れたように笑う。それほど信頼されているのか、それとも何も考えていないのか、答えがどちらなのかは考えるまでもない。
ヤンは静かに布団を抜け出し、開け放たれたままの縁側からサンダルをつっかけて外に出た。
雲一つない星空では、たとえ満月でなくても明るく、ランプを持たずとも出歩けるほどだ。行く当てもなく、生ぬるい風の導く方へと歩みを進める。深夜に散歩をするのはだいぶと久しぶりだ。明日を考えれば早く寝るべきなのはわかっているが、気持ちが昂っているのか、緊張しているのか、寝付けるようには思えなかった。
深夜に起きている人間と言えばと、自然に足はシドの宿の方へと向かっていたらしい。予想通り、通りに面した宿の縁側では浴衣姿のシドが団扇を片手に月を見上げていた。ヤンに気づき、視線を落とす。
「隣、いいか?」
返事がないことを都合よく解釈し、ヤンはシドの隣に座った。シドが夜寝ないのは堅洲村に住んでいるほとんどの人間が知っていることだ。彼はこの長い夜をたった一人で、一体何を思って空を仰ぐのかとその横顔を眺める。
「俺に何か用でもあるのか」
「いや、何となく、寝られなくてさ。この時間に起きてるのってシドぐらいじゃん」
シドは言葉なくただ手を動かすだけで、しばらく二人の間に静かな時間が流れた。さっきまでの怒号飛び交う騒がしさが嘘のようだ。夜だというのにどこか遠くからセミの鳴く声が小さく聞こえてくる。
「ミヤは?」
「頭主さまをお迎えに上がった」
ゆっくりと団扇で扇ぎながらシドは静かに答える。ヤンは思い出したように「そうだよな」と呟く。
宿家親はこの村から出ることはない。宿に帰ればいつもゴハがいる。それは他の誘も同じだろう。しかし、シドだけは違う。頭主の秘書を務めるミヤはこの村にいないことの方が多いぐらいだ。
「シドはさ、こんな広い宿に一人で」
ヤンも空を見上げる。「寂しくないか?」と口をついて出そうになる言葉をぐっと飲みこんだ。シドになんと愚かな質問だろうと内心自分を嘲る。何とか「時間、持て余さないか?」と取り繕い、会話の体裁を整える。この宿は一人で誰かの帰りを待つには広すぎる。それを「孤独」と呼ぶ人もいるだろう。だが、そんな言葉を口にするような人間などここにはいない。
「この生活に不満を持ったことはない」
ヤンの言わんとすることを汲み取ったかのようにシドは答えた。その声は澄んだもので、噓偽りのない本心のように聞こえた。
「俺はこのまま日の出まで起きている。お前は、どうする。ヤン」
「流石に寝るかな」
いつもと変わらない表情をするシドに対して、少しあくびをしたヤンは立ち上がる。今ならルキの横でも気にせず寝られるような気がした。
「おやすみ」
ヤンはシドに視線を合わせて笑った。




