52話 千思万考
交錯する、感情。
少年はゆっくりと目を覚まし、初めて見る室内に目をぱちくりとさせた。更生施設とは違う大きな窓からは少し湿気を含んだ夏の風が吹き込んでいた。かすかにそよぐ白い窓掛けと外から聞こえるセミの鳴き声が静寂を運んでくる。
しばらくは呆っと窓を眺めていたが、そう言えば、と頭を働かせ始める。自分は長らく生活していた施設から解放されたばかりだ。前日までのことはよく覚えていないが、今日は人生の新しい一日目になるはずだ。
そんな希望と日光に満ち溢れた室内で、目を向けていた窓とは逆方向からたばこ臭い言葉が投げかけられる。
「少年甲」
それは世間が自分に与えた、今はもう決別したはずの名前だった。ぎょっとして声の方を見ると、白衣姿の男が気だるげに壁にもたれ、たばこの煙を吐き出していた。
「お前には新しい名前が必要だ」
会議場に集まった誘たちはケイからの定期報告を聞く。そこには新しい少年が既死軍に加わったという話も含まれていた。特徴から察するに、少年甲のことだろうとヒデは推測する。無事に目を覚ましたということにほっと胸をなでおろした。半月に亘って監視していた対象が眠り続けたままでは自分が任務に行った意味がない。
「名前はセン、宿家親はヤヨイだ」
ケイの言葉に声が上がる。それはヤヨイと共に暮らせるような人間が遂に現れたのかという驚きと、ヤヨイに宿家親が務まるのかという驚きが混じった声だった。そんな誘たちの反応に苦笑いしながらケイは続ける。
「センは誘というよりかは、役職的にはイチに近い。ヤヨイの助手を主にしてもらう。ゆくゆくは堅洲村外での治療を請け負ってもらおうかと思っている。まぁどうなるかはわからんが、今のところはそういう予定だ」
一呼吸置いたケイは「そんなことより」と手にした紙束から視線を上げた。
「宿家親も聞け。頭主さまが堅洲村にいらっしゃる」
どよめきが起こるかと思いきや、会議場も無線も静寂に支配される。ヒデも突然のことに言葉を失った。堅洲村に来てすぐに聞かされた既死軍の創設者、それが頭主だ。この人がいなければ既死軍にいる自分たちはとうの昔に死んでいたかもしれない。しかし、「頭主さま」と呼ばれるその人については顔や本名など一切を知らされていない。そんな頭主に会える日が来るとは夢にも思っていなかった。
横で胡坐をかいていたヤンもぽかんとケイを見つめている。恐らく既死軍の生活が長いであろうヤンでもヒデと同じく言葉を失うほどの出来事なのだ。
「頭主さまが最後にここを訪れてから今日で三年と百五十二日。頭主さまにお会いしたことがない誘もいるだろう。宿家親は失礼のないように礼儀を徹底的に叩きこんでくれ。日時はおって連絡する。多分夏の終わりごろになる。以上だ」
足早に「解散」と会議場を後にするケイを見送り、ヒデは正座していた足を崩す。
「ヤンは頭主さまにお会いしたことある?」
「一回な。前回お見えになったときだ」
「ヤンでもそんなに少ないんだね」
「数年に一回だからな。お目にかかれないまま死ぬやつもいる」
あっけらかんと笑い、ヤンは立ち上がる。
「頭主さまがいらっしゃる時は決まりがいくつかある。俺もあんまり覚えてないからゴハに教えてもらう。アレンさんは言わずもがな教えてくれるだろう。まぁそんなに難しいことじゃない。守らなきゃいけないことはたった一つだ」
「何?」
「決して顔を見てはいけない、だ」
「皇みたいだね」
「頭主さまは俺たちにとっては皇以上の存在だ」
ヒデは小さく「うん、そうだね」とうつむき加減で返した。まだヤンのようにはっきりと言い切れるほど、帝国民として受け続けてきた、皇を崇め称える皇国教育を捨て去ることはできなかった。頭主に会うことで自分の中の「何か」は変わるのだろうか。そんなことを考えながらヤンと会議場を後にした。
宿へ帰ると、無線で話を聞いていたアレンがヒデを座らせた。ヤンの言う通り、頭主を迎えるにあたっての決まりを教えてくれるらしかった。いつになく真剣な表情をするアレンにヒデは息を吞む。
「さっき聞いた通り、頭主さまがいらっしゃいます。毎回既死軍全員が会議場に集まってお言葉を賜るんですが、雰囲気としてはお正月の大御言謹聴の儀に似ています。私たちはただお言葉を拝聴するだけなので、あまり緊張しなくてもいいですよ」
あまりに強張った表情をしていたのか、アレンはかすかに笑い、気遣いを見せる。
「流れとしてはミヤさんかケイ君がご挨拶をする。頭主さまがお言葉をくださる。以上です。お正月と違うことと言えば、それぞれの武器を持って行くこと、ルキ君も来ることぐらいですかね」
「ルキさんも来るんですね」
「流石に頭主さまにお会いできないのは可哀想ですからね」
既死軍が一堂に会する正月も事務所で一人留守番をしていたルキだったが、どうやら今回ばかりは輪に加われるようだ。
「頭主さまが堅洲村にいらっしゃるより前に私たちは会議場へ行きます。ご案内は秘書のミヤさんがします。頭主さまが会議場にいらっしゃったら、最敬礼をして、会議場を出られるまでそのままです。堅洲村を後にされてから宿に戻ります。お顔を見てはいけないという決まりなので、このようになっています。服は誘は制服、宿家親は黒の羽織袴です。お正月と同じですね」
「徹底してお顔は見られないようになってるんですね」
「太陽が直視できないように、私たちは頭主さまも直視できないんですよ」
わかりやすいたとえにヒデはうなずく。
「他にもいくつか細かい決まりはあるんですが、日時がわかってからお伝えしましょうかね。私ももう一度ケイ君に確認しておきます」
「よろしくお願いします。あの、頭主さまがいらっしゃるのって、嬉しい、楽しみにしてる、でいいんですか?」
「正解なんてありませんよ。どう思うかはヒデ君の感情ですからね。誰にも縛られず、左右もされません。ここでは自由な気持ちで生きても罰は当たりません」
その言葉に、ヒデは胸に清風が吹き込んだような気がした。
思い返せば、ここでは意見の衝突こそしてはきたが、誰かの顔色を窺うことはなく過ごしていた。堅洲村に来るまでは常に母親の機嫌を損ねないように、感情など意味のないものと押し殺していたなと懐古する。感情を抑え、何事にも興味を持たないように、学校でも学友には深入りしなかった。遊びに誘われても、好きだと言われても、他人事のようにはぐらかしていた。他人に関心を示したところで、一体それが人生に於いて何の救いになるというのだろうか。ずっとそう思っていた。自分の意見を言うことも、感情を表に出すことも、ここでは咎められることはない。
ヒデは「僕は、頭主さまがいらっしゃるの、楽しみです」と表情を和らげた。
数日後、日も落ちかけたころにケイはミヤの宿に来ていた。机を挟んで正面に座るのはミヤとシドだ。この感情を出さない二人を前に話すのは難儀だなとケイは頭を掻く。涼しげに鳴る風鈴が作り上げる空間には不釣り合いだ。
資料に視線を落とすケイにミヤは話を始める。
「当日は十一時に頭主さまが堅洲村に到着される。宿家親と誘への指示はいつも通りケイに任せる。予定表はその資料に書いてある。わかってると思うが、準備は抜かりなく、粗相のないようにな」
「言われなくてもそうするよ」
頭主さまの秘書をしているミヤは頻繁に会っているだろうが、村どころか宿からすら滅多に出ないケイにしてみれば、頭主さまに実際に会うのは他の宿家親や誘と同じ頻度だ。数年に一度の失敗の許されない大仕事に、ミヤとの齟齬がないように一つずつ確認を進めていく。
資料を数ページめくったところで、ケイは思い出したように顔を上げる。
「それで、シドはどうするんだ」
「他の誘たちと同じだ。会議場で待っている」
浴衣姿で不機嫌そうに腕組みをしているシドが口を開く。
「お前はそれでいいのか?」
「俺は誘だ。特別視される筋合いはない。ケイは俺が何と言えば満足するんだ」
「いや、まぁ、それでシドがいいなら」
答えに窮しながらケイはちらりと宿家親のミヤを見た。その顔は本物の親子のように同じ表情をしている。長く一緒に住めば他人でも顔まで似てくるのだろうか。
「頭主さまも、お前が考えているようなことはお望みではない」
ケイの視線に応えるようにミヤが言い切った。短く「そうか」と返すと、ケイは再び資料に視線を戻した。はっきり言われてはそれ以上言い返す必要もないだろう。
今度はミヤから質問が投げかけられる。
「そう言えば、初めて頭主さまに会う誘はヒデだけか?」
「まさか。初めて会うやつの方が多いぐらいだ。前回いた誘はシド、ヤン、キョウ、ジライの四人だけだからな。イチも誘に含めるなら五人だ。ちなみにセンは不参加だ。頭主さまのありがたみがわからん内は会わせる必要はないからな」
ケイは何年前の記憶であろうと、鮮明に思い出すことができる。一度見たものはほとんど忘れることはない。会議場で正座する当時の宿家親や誘の顔を一人一人脳内に浮かべていく。
「そう思うと、だいぶ入れ替わったもんだな。シド、誰か覚えてるか?」
ミヤは茶をすすりながら横に座るシドに尋ねるも、「いいや」と短く答えただけだった。
ケイもガラス製の湯呑に手を伸ばし、冷たい緑茶に口をつける。きっぱりとした性格は間違いなくオヤ似だと、「相変わらずだな」とこぼした。自分の何事も忘れない脳ミソは基本的に便利なものではあるが、時には過去に苛まれることもある。どちらが生きやすいかと言えば、圧倒的にシドだろうなと自分の思い悩む性格を恨んだ。
「次に頭主さまがいらっしゃる時には一体何人いなくなっているんだろうな」
ケイは視線を紙束から空に向けた。明日すら生きている保障のない自分たちが未来を語るのはいささか滑稽に思えた。ミヤも同じ意見らしく、ケイの言葉を鼻で笑った。
「鬼が笑う話だな」




