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Blackish Dance  作者: ジュンち
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49話 画布に舞う

人生は短く、芸術は永し。

 ヒデは庭に下り、深く呼吸をした。やっとヤヨイから外出許可が出た。これで今まで通りの日々に戻れるようだ。

 ノアに撃たれた跡はわずかに残った。普段見えない場所だしまあいいかとは思ったが、それでもふと目に入るとあの日の痛みを思い出す。それは傷の痛みではない。感情の制御が利かなくなったノアの心境を思う痛みだ。いつか自分も何かがきっかけで引き金が引かれる瞬間が来るのだろうかとヒデはシャツの胸の部分をくしゃりと握った。

 一つ息を吐くと、梅雨の晴れ間に背伸びをする。どこまでも澄んだ青空は夏の始まりを感じさせる。たった一週間の安静ではあったが、すっかり体がなまってしまったようだ。

「元気になってくれたようで、安心しました」

 湯呑が乗った盆を手に、アレンが縁側へとやって来た。

「早速、明日は任務です。絶対に戦闘にはならないから回復したての僕に、ってことらしいです」

「そうですか。既死軍(キシグン)もなかなか盛況ですね」

 正座をしたアレンは縁側に腰掛けたヒデに笑いかける。(イザナ)はケガが治ったと思うが早いか、またすぐにこの村から出て行ってしまう。そして戻ってくる保証などどこにもない。今までそうやって何人を見送ってきたのだろうか。視線を濃い緑色をした生け垣に向けたまま、ぼんやりとしていたらしい。我に返ると、ヒデも同じく生け垣を見ながら話を続けていた。

「それで、その依頼が変わってて、美術館に飾ってる絵画を切り取ってくれって依頼なんですよね。ルキさんのところに直接来た話らしいんですけど」

「みなさんいろいろな人生を歩まれているものですね」

 アレンも依頼の意図に首をかしげる。

「任務だから仕方ないですけど、さすがに美術館にあるような絵画を切るっていうのは気が引けちゃいますね」

「なにか曰く付きとか、そういう物なのでしょうか。それにしても、既死軍(キシグン)が任務で美術館に行くことになるとは考えもしませんでした。何というか、文化的な集団になってきましたね」

 アレンは何かを思い出したように笑う。確かに言われた通り、(イザナ)が公的な社会教育施設へ行ったとは聞いたことがない。この村を一歩出れば、自分たちの居場所はいつも人気(ひとけ)のない薄暗いところだった。既死軍(キシグン)に属する人間の生が陽の目を見ることは決してない。

「任務とはいえ、美術館へ行くなど滅多にない機会です。たまには任務のことを忘れて、芸術に没頭してみるのも長い人生に於いては必要なことかもしれませんね」

「でも、あんな高尚な場所、僕には不釣り合いですよ。まともに芸術鑑賞なんてしたことがないのに」

「芸術鑑賞なんてものは好事家に任せておけばいいのですよ。所詮、その作品が本当に伝えたいこと、真意など作者にしか知りえないでしょうしね」

「じゃあ、僕たち一般人はどうして美術館なんて行くんでしょうか」

「芸術が美しいからでしょうね」

「美しい、ですか」

 アレンにしては抽象的な回答だなと横に座るその顔を見遣る。それに気づいたアレンは生け垣からヒデに視線を移し、優しく笑う。

「芸術はあらゆる嘘の中で、最も美しいんですよ」


 ヒデは薄暗くしんとした館内をゆっくりと見て回っていた。美術館という場所は初めて来たが、触ろうと思えば触ることができる距離で鑑賞できるようになっていることに驚いた。絵画の表面がガラスなどで保護されているわけでもない。注意書きらしいものと言えば、ただ「撮影禁止」と書かれているだけで、人の良心と常識に依存した性善説的な展示方法だなと作品に顔を近づける。

 平日の閉館間際ということもあって、客はまばらにしか見当たらない。下見のために一般客のふりをして今日一日で様々な絵画を見たが、どれもこれも何が評価されているのかはとんとわからなかった。確かにアレンの言う通り、こういうことは好事家に任せるに限るとしみじみ思った。

 情報によれば依頼された絵は本館から少し離れた別館に配されている。別館と言っても帝国有数の広さを誇る国立美術館の別館だ。のんびりと鑑賞していたのでは一日では回りきることができないだろう。ヒデはある程度見たところで館内図を頼りに目的の場所へと向かった。

 やがて、いくつかの展示室を通り抜けたところ、奥まったひっそりした場所でぴたりと足を止めた。視線の先にあるのは「小川に浮かぶ皇女」と題された、ヒデの三分の二ほどの大きさしかない油彩画だった。西洋の古典歌劇の一場面を描いたものらしい。祈りの歌を口ずさみながら川に沈まんとする愛に破れた皇女の恍惚の表情、繊細で正確な植物や水の描写などが世界的に高く評価されている。

 依頼されたのはこの絵画だ。

 制作者の里見(サトミ)禮治(レイジ)は「戦争に葬られた芸術家」を代表する作家として今でも帝国美術史に名を残す画家の一人だ。ヒデですらどこかで聞いたことがあるなとその名をまじまじと見つめる。

 額縁の横に設置された解説では、制作年は第肆拾伍(四十五)丙子之年(ひのえねのとし)となっている。指折り数えるまでもなく、それはちょうど第三次世界大戦の真っ只中だった。そんな時に敵国の歌劇作品を題材に絵筆を執るなど、非国民も甚だしい行為だとヒデは顔をしかめた。

 解説文は里見(サトミ)の当時の状況を語る。美術留学中に戦争が始まってしまった里見(サトミ)は帝国からの要請により強制的に帰国させられた。そして帰国後は、敵国へ留学した事由や敵国文化を賛美するような作品を作り上げたことについて、当然のように軍事裁判にかけられた。里見(サトミ)は「帰国費用を稼ぐために、仕方がなく依頼された絵画を描いていた」と証言したそうだ。しかし、そんな話が通じるような時世ではなかった。戦後、名誉は法的には回復したものの、彼は表舞台には現れなくなっていた。

 ヒデが今、目の前に立つ「小川に浮かぶ皇女」はその里見(サトミ)が描いた絵画の中で、唯一現存しているものだ。凱旋帰国とでもいうのだろうか。里見(サトミ)の生誕百周年を記念して開かれた西洋画特別展の目玉として海外の美術館より初めてこの帝国へやって来たらしい。

 敵国で独り神経衰弱に陥りながらも描き上げた渾身の一作を、里見(サトミ)は生涯手元に置いておきたかったようだ。だがしかし、帰国の際に別れを告げざるを得なかった。当時、今以上に外国文化の輸入を厳しく取り締まっていた帝国の検閲をすり抜けられるわけもなかったのだろう。

 ヒデはいつかミヤが言っていた言葉を思い出す。

「たとえ戦勝国であろうと、戦争は人の人生に影を落とす」

 戦後生まれの自分は「知識としての戦争」しか知らない。それでも幾度となく他国との戦争を繰り返してきた帝国に生きた、そして今も生きている人たちの心情は察するに余りある。

「ボウズ、その表情はこの絵を見てか? それとも、解説を読んでか?」

 いつの間にか背後には杖をついた老人が立っていた。ゆっくりとしたしゃがれ声の小柄な老人はヒデに歩み寄り、顔を見上げる。その眼は鋭く、老いた体には似合わない光があった。

「解説を読んで、です」

 気圧されながらも、ヒデは小さく答える。その答えに老爺は「世界情勢ごときに、美しさまでも左右されるか」と侮蔑の表情を作る。その顔にヒデは真剣さを持って言葉を返す。

「おじいさんには申し訳ないですが、僕には戦前の人たちの考え方はわかりません。戦後生まれの僕からしたら、当時の里見(サトミ)は罰せられて然るべきだったと思います。政治宣伝に利用されることもある芸術を敵国で学ぶなんて」

「確かに、芸術は戦争に利用された。それは間違いない。だがな、ボウズ。真の美というものは人間の内なる感情の表れだ。戦争だから、平和だから、という理由で真の価値は判断されるべきではない。事実、もしこの絵が今描かれたものであれば、そんな顔はしなかったのであろう?」

「それは、そうかもしれません」

「時にボウズ、これを一枚の『絵画』として見たときの魅力は何であろうか」

 ヒデは「うーん」と小さく声を漏らす。

「死にゆくさまがなんだか写実的というか、何というか」

「まるで死にかけの人間を見たことがあるような言い分であるな」

「まさか」

 すべてを見透かすような瞳にヒデは目をそらす。

「教えてやろう。この絵画の魅力は未完成の美にある」

「未完成、ですか」

 ヒデは首をかしげる。

「美しさは完成したが最後、衰える運命しか残されていない。だからこそ、完成しなかったことを称賛するべきだと俺は思う。世の評論家気取りの人間たちはそれがわかっていない」

 老人の言わんとすることにヒデはなるほどと頷いた。上り詰めた頂上から見えるのは下り坂のみだ。盛者必衰とはよく言ったものだ。

「これは里見(サトミ)が西洋で唯一、依頼されたのではなく、自分の意思で、自分のために描いていた。だが、帝国に帰国を命じられた里見(サトミ)はこの絵を完成させる(いとま)もなく手放してしまった。挙句、裁判では保身のために見棄てた」

「おじいさんこそ、里見(サトミ)さんを見ていたような言い方ですね」

 老人はしばらく沈黙する。その視線は絵画を通して遠い過去に向けられているように見える。

里見(サトミ)禮治(レイジ)、哀れな男だ」

 ぽつりとこぼす。

「自ら画家としての人生に幕を引いたのだが、この絵だけは忘れられなかった。意に反して未完成のままとなってはしまったが、今ではそれで満足している。この世では長らく離別していたが、あの世では手元に置いておきたいものだ」

 ヒデを一瞥すると、老爺は話ができて満足したように背を向けた。

「達者で暮らせよ、ボウズ。今は平和な世界だ」


 閉館時間もとうに過ぎた深夜、ヒデはケイが解除した扉から館内に舞い戻っていた。防犯機器の位置や動作条件は全て把握済みだ。手にしたナイフを器用に操りながら、防犯カメラに映るのも構わず、堂々と任務の遂行に向かう。

 先ほど見たばかりの絵画は同じ場所で静かにその時を待っていた。ヒデは額縁に手をかけ、画布にナイフを突き立てる。

『額が二十度以上傾くと警報が鳴るから気をつけろよ』

「その警報は解除できなかったんですか」

 苦笑いしながら縁どられた直線に沿ってナイフを動かしていく。額ごと持ち去るにはいささか重すぎる。しかし、画布だけであれば持ち運ぶのは容易だ。

 半分ほど切り裂いたところで、はらりと一片の紙切れが舞い落ちた。ヒデは拾い上げて目を通すと、かすかに笑った。

「あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に(たっ)とい。住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、()である。」

 この紙切れはおそらく、夕方に話した老人の若かりし頃の忘れ形見だろう。改めて、見るも無惨な姿になった絵画を見つめる。

 正式な依頼内容は、この布になり果てた絵画を里見(サトミ)の死後、天国にいる彼に送り届けることだ。死に際の老爺は「帝国民として、帝国の精神と共に葬りたい」と言ったという。

 さぞ波乱万丈な人生を送ったことだろう。せめて画家としては穏やかな最期が訪れることを願った。


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