43話 碌でもない恐怖
擾乱後の、脳内。
電気もない室内は窓からのうっすらとした日光しか頼るものがない。手前の部屋からノアとヒデはしらみつぶしに行方不明者と犯人を探していくことにした。
シドはとっくにギシギシと木製の階段を踏み鳴らし上階へと姿を消してしまった。彼に恐怖心というものはないのだろうかと不穏な空気を醸し出している室内をぐるりと見渡す。そばにノアがいるからこそ平静を保っていられるのではないかとさえ思える。ただの山奥にある廃れた洋館というだけなのに、その雰囲気に気圧されてしまう。自分はやはりまだ普通の感覚を持った凡人なのだと痛感した。
「行方不明者の捜索なんてもっと楽な任務かと思ったけど、まさかこんなオバケ屋敷とはね~」
壁にかかっている何枚もの肖像画を一枚ずつまじまじと見ながらノアは面倒くさそうな声を上げる。
「なんか全員に見られてる気がして気持ち悪くない?」
それもそうだとヒデも視線をノアと同じ場所に向ける。学校の七不思議では偉人の肖像画は目が動くものと相場が決まっていた。自分が感じる不気味さは子供のころから植え付けられた文化的なものだろう。一般的な恐怖心が文化や習慣からくるものなら、シドはきっと一般的な人生を歩んでいないのだろうなと勝手な解釈をする。
ノアは一歩壁から離れると、くるりとヒデに振り返り、「さっさと任務終わらせてこんなところ出ようよ」と顔をしかめた。
「同感。治持隊が気が狂ったっていうのもわからなくもないかな」
「でも、大の大人、ましてや訓練を受けてるような治持隊が全員精神病棟送りになる? 何か人知を超えたような出来事でもあったのかな」
「そんなオカルト的な話、子供騙しにもならないんじゃない」
「そうだよね~」
二人は顔を見合わせて首を傾げた。確かに異様な雰囲気ではあるが、それでもノアの言う通り、精神に異常を来たすような場所とは思えなかった。
「広そうだし、さっさと見て行こ。こんなところ日が暮れたらたまったもんじゃない」
そう言うとノアは奥へと続く扉に手をかけた。しかし部屋の向こうを見たノアは声を上げて笑い、すぐに扉を閉めてしまった。
「ヒデ、見て見て〜! ここ、開けても壁なんだけど〜!」
腹を抱えて笑い続けるノアが再び扉を開けると、そこにはあるはずの空間がなく他と変わらない白塗りの壁になっていた。目を丸くして、ヒデは壁を触ってみる。叩いてもびくともせず、音も不自然ではない。どう考えてもただの壁だった。
「隠し部屋もなさそうだし、次の所早く行こ」
ヒデはまだひいひい笑っているノアを引っ張り、別の部屋へと移動した。
「ホント、変な造りの家だね」
一体何枚目になるのか、どこにも通じていない扉を閉めながらヒデはため息をつく。天井や壁に突き当たる階段も、開けたら外に繋がっている扉も、あっという間に見慣れたものになってしまった。初めは面白がっていたノアももう笑うことはなく、面倒くさそうに無言でヒデに振り返るようになっていた。
しばらくして、やっと見つけた上階へと続く階段を上がる。ノアは「オバケ屋敷っていうか、精神異常者の脳内みたい」とぶつくさ文句を言いながら階段をきしませる。
二人はおそらく二階だと思われる階に着いた。一番近い部屋に入り、隠し扉や不自然なところがないかを確認していく。ふとノアが窓の外を見ると、昼間だったはずの景色は夕暮れへと変わっていた。
「最悪。暗くなってきた。まだシドとも合流できないし、面白くないし、早く帰りたい」
「そう言えば全然会わないね。今どの辺りなんだろう」
「シドが初めてどこにも通じてない扉開けたときの反応見てみたかったな~」
ヒデもその言葉にふふっと笑う。感情を表すことのないシドでも流石に驚いたに違いない。無言で扉を閉める様子を想像すると思わず笑みがこぼれた。
廊下には戻らず、部屋から部屋へと移動していく。いくつか電灯も窓もない部屋を行きつ戻りつしながら、暗闇に慣れた目だけを頼りに進んでいく。歩を進めるにつれ、不快な空気が濃くなっていく。埃っぽさでもなく、かび臭さでもない異様な悪臭が鼻を突く。
何枚目かの扉の前に立った瞬間、ヒデはとっさに袖で口元を覆った。
「何か変な臭いしない? この扉の向こう、だと思う。なんか嫌な感じ。生物が腐ったような」
「そう? あんまり気にならないけど」
ヒデは躊躇しながらもそっと扉を開け、またも窓一つない暗闇の部屋に移動する。真っ暗で周りが見えず、壁に手をついたが、ずるりと壁が滑り落ちた。手袋をしていても壁に触れた手に何かべっとりと液体のようなものが付着していることが伝わる。手を握ったり開いたりするたびにぐちゃぐちゃとべた付くような感触がする。
「ノア、この部屋、おかしい」
見えるわけでもないが自分の手のひらをまじまじと見つめる。
「そうみたいだね」
何かを察したのか、ノアの六尺棒が風を切る音が聞こえる。
「現場保存しろなんて、怒られないよね!」
そう聞こえるが早いか、轟音とともに部屋にオレンジ色の夕日が差し込む。ぱらぱらと音を立てて落ちる壁材が一瞬で何が起こったのかを物語っている。
光を得た室内の様子にヒデは悲鳴を上げそうになるのを寸でのところでこらえる。しかしそれと同時に吐き気に襲われ、思わず利き手が汚れていることも忘れて口元を押さえる。今まで何人も殺してきた。死体も見てきた。それでも、この凄惨で残忍な所業には身体が耐えられなかった。
すっかり胃の中の物を吐き出すと、荒い呼吸を整えて口元を拭った。できれば深呼吸の一つでもしたいものだが、肺いっぱいにこんな場所の空気を吸い込むわけにもいかない。
「ヒデってこういうの苦手なタイプなんだ」
面白いものを見つけたとでも言わんばかりにノアはヒデの顔を覗き込む。
「ノアは、何で平気なの」
「さあね」
理由はあるようだが、答える様子はない。ノアはヒデから離れ、壁に吊るされたものを人差し指でつんつんとつついて見せる。
「ねえねえヒデ、何でこの死体、吊ってる状態かわかる?」
うっかり取れてしまった腕を手に、悪気もなく不穏な質問をぶつける。ヒデにしてみればその表情は逢魔が時を闊歩する魔物のようだった。
「知ってるわけ、ないじゃん」
ノアは親切心からか、「血抜きって聞いたことあるでしょ?」と早口に身振り手振りを加えて現状に至った経緯を説明する。
「何でそんな知識あるの?」
「人間って雑食だからね」
冗談なのか本気なのか、うっすらと口角を上げるその姿にヒデは寒気を感じた。
順応性とは怖いもので、先ほどは嘔吐してしまった景色も今はただの視界に入る情報として処理出来るようになってしまったらしい。あまり見たことのなかった人間の内臓を「自分にもこんなものが詰まっているのか」とまじまじ見るだけの余裕すら得ていた。
「屠殺の最中って感じかな? 内臓を取り出そうとして、慌てて逃げたっぽいよね。食用なのかな。人間なんて可食部少ないのに。それとも別の用途があるのかな」
残忍で醜悪な行いを前にノアはのんびりと顎に手を当てて首を傾げる。
「ヒデはどう思う?」
「どうもこうも、今はルキさんの事務所で『帰る』って言ってたノアが正しかったとだけ思ってるよ」
ヒデがそうぼやくと、今度は見慣れた表情で「やっぱり、オバケ退治なんて碌なことなかったでしょ」と笑った。
「顔は判別できないけど、これ、いなくなったっていう二人じゃないかなぁ。多分男だし。指紋か歯形ぐらい今調べられたらいいのにね」
人体から取れてしまった肩から指先にかけての部位をおもちゃのように弄びながらノアは調査を進める。衣服も身に着けていなければ、所持品もない。「辛うじて」人間の形を保っているような状況だ。
「それにしても、何でこんなことするんだろう」
ヒデも恐る恐る肉片を片付けながら残虐性の意義を問う。流石に見慣れたとはいえ気が滅入りそうになる。自分は一体こんなところで何をしているのだろうかと禅問答すら始めてしまいそうになる。
隣の部屋にも調査の足を伸ばしていたノアは部屋に戻ってくるなり「見て見て~」と血の溜まったブリキ製のバケツを手に嬉々として話し始める。
「人間の血って、なんかね、不思議な力を持つって思ってる人もいるみたいだよ。長生きできるとかで若い処女の血を溜めたお風呂に入ってた人もいるんだって。人間の血液はだいたい体重の十三分の一だから、六十キロでも五リットル弱かな。なかなかお風呂に溜めるには大変だよね」
既死軍の人間が持つ知識には大変な偏りがあるものだと引きつった表情でうなずきながら静聴する。知識はあるに越したことはないが、やはり自分の興味のあること一辺倒になってしまうのだろうか。
「隣の部屋はどう見ても行き止まりだったよ。ここも大体調べ終わったし、残りは堕貔か治持隊に任せた方がいいかも。あとは犯人探すだけなんだけど、その前にヒデ、怖いこと聞いてもいい?」
「いいけど、何」
「この部屋、どうやって来たか道順覚えてる?」
「入り組みすぎてて戻れる自信、僕はない、かな」
そう言われてみれば、ここが何階に当たるのかも定かではない。まるで立体迷路のようになっている屋内では、戻るだけとはいえ、迷わずに目的地までたどり着ける可能性は限りなくゼロに近かった。ヒデはふと視線を外に向ける。
「ここから飛び降りたら、とりあえずどうにかなるんじゃない? 少なくとも屋外には出られるよ」
「ヒデって時々とんでもない事言い出すよね。飛び降りるって正気?」
「正気正気。下は植え込みだし、ケガもしないんじゃないかな」
「それなら言い出しっぺが先に行ってよ」
「別にいいけど」
壁にぽっかりと空いた穴を覗き込みながらそんな話をしていると、背後に人の気配を感じた。シドではないことは確かだ。
二人は得物を構え、攻撃態勢を取った。




