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Blackish Dance  作者: ジュンち
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41話 甘雨(かんう)

この景色を、守る意味。

『そっち行ったで! 外したら承知せんからな!』

 雨の中、傘もさすことなく必死に走るヒデの耳元で無線ががなり立てる。申し訳程度に光る外灯では逃げる男の姿を追うのもやっとだ。いつもはひらひらとはためく制服の裾も、今日は激しく降る雨や跳ねた泥でずっしりと重い。

「わかってるって! でも」

 ヒデは優に二メートルを超える弓「下弦」を手に、大きな水たまりを一足に飛び越える。「止まってくれないと無理だよ!」と不満を叫び返しながら、やっとのことで雨で煙る向こうに標的をとらえた。

『しゃあなしやで!』

 足元に見つけた空き缶を真上に放り投げると、チャコは自主練よろしくハリセンを振りぬいた。ハリセンって使いようによっては遠近両用武器なんだなと、ヒデは空き缶が鋭い角度で男の後頭部に見事に命中したことに感心する。間もなく辺り一面に響くほどの水音を立てて男が地面に倒れ込んだ。ヒデからの距離は目測で二十メートル。何て事のない距離だ。

『そいつはただの運び屋だ。生かしておく価値はない』

「了解しました」

 冷酷な指令に応え、引き絞った下弦から矢を放った。ヒデは表情一つ変えず、寸分も揺らぐことない矢が倒れる男を貫くのを見届けた。やっと追いついたチャコが水たまりに薄まっていく流血を避けながら、近づいてくるヒデを見遣った。

「何や、もう終わりかいな。一足遅かったわ」

「チャコのおかげで捕まえられたようなもんだよ」

「ほなよかったわ」

 チャコは一息ついて、ぐしょぐしょに濡れた袖で意味もなく顔を拭った。ヒデは男から引き抜いた矢を軽く振って矢筒にしまい、アタッシュケースを水たまりから拾い上げる。

 今回は珍しく中身を知らされている。不当な手法で国外に持ち出されそうになっていた大事な文化財、「割れ物につき取扱注意」だそうだ。

「外側は無事そうやけど」

 チャコは恐る恐るケイに様子を伝える。さっきまでの威勢のよさもなく、手荒く男から奪ってしまった結果に怯えているようだった。

『何回も言うがな、ガラス細工だぞ。お前ら』

「そんなん無理やろ! あいつこれ持ってめちゃくちゃ走っとったぞ!」

「もし割れてたらあの人の責任になりませんかね」

 口々に弁明をしながら移動器の乗り場に向かう。アタッシュケースの開錠は堅洲村(カタスムラ)でイチに頼むしかない。時限爆弾を抱えているような面持ちで二人は雨の中、帰路についた。


 季節は梅雨。今年はいつもよりも梅雨前線が活発だそうだ。

 ヒデはぼんやりとした頭で雨音を聞いていた。チャコとの任務帰りからどうも様子がおかしいと思っていたが、案の定、帰るなりアレンに「風邪ですね」と指摘された。あれだけ雨の中で過ごせば風邪の一つでも引くだろう。ヒデは目を閉じ、温かい布団に大人しくくるまっていた。このまま寝てしまおうと思っていると、ふと不穏なにおいが鼻を突いた。

「よぉ、俺を呼んだのはお前か?」

 いつの間にか枕元で胡坐をかいていたのはヤヨイだった。顔を見なくとも、このにおいだけでヤヨイだとわかるほどだ。もはや彼の代名詞と言っても過言ではない。

 開けっ放しの縁側から侵入したのだろう。白衣こそ着ているものの、医者というにはあまりにも言動がらしくない。それを見せつけるかのように、病人もお構いなしにたばこに火をつけた。

「アレンさんの頼みじゃなかったら来てないってことだけは覚えておけよ」

 煙を吐き出しながら眉間にしわを寄せるこの人に機嫌のいいときなど存在するのだろうかと、ヒデは小さく「はい」と返事をする。ヤヨイには何も言い返さないことが吉と出るというのは堅洲村(カタスムラ)の全員が知っていた。

 ヒデはまだ世話になるほどの怪我も病気もしたことがなかった。しかし、そんな過去とは別れを告げるときがやって来たようだ。ヤヨイと言えば誰に聞いても悲鳴と断末魔を伴う荒療治の話しか出て来ない。できれば回診以外ではかかわらずに過ごしたかったなと、既に自分の命運を握っている男を見た。

「任務行って風邪引いて帰って来るとはいいご身分だな。一発派手に死に散らかして来たらどうなんだ。それなら俺の治療する手間が省けるってもんだ」

「次からはそうします」

 会話も億劫になるほどの倦怠感に苛まれつつも、ヤヨイがポケットから取り出した得体の知れない錠剤を受け取る。

「これ、飲んでも大丈夫なやつですか?」

「この世に毒でないものなど存在しない。その服用量こそが、毒か、そうでないかを決める」

「答えになってないですよ」

「お前は格言も知らねぇのか」

「今のが、ですか?」

「毒性学の父、パラケルススのだ。医師でもあり、錬金術師、悪魔使いでもあった。ちなみにパラケルススって名前は自称で、本名はオフラストゥス・フォン・ホーエンハイム。今ではフィリップス・アウレオールス・テオフラストゥス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイムとも言われている。だが、存命中は一度も」

 滝のように止めどなく語られる蘊蓄(うんちく)にヒデは両手でこめかみを押さえる。先ほどまで感じなかった頭痛が風邪の症状に加わったような気さえする。

「わ、わかりました」

「いいや、お前はわかってないな」

 ヒデはこのまま語られたのではたまらないと言わんばかりに薬を一息に飲み込む。一瞬で「良薬は口に苦し」という言葉を体現したような味が口内を支配し、気だるさを凌駕する吐き気を催した。

「お前、俺が手渡したら疑いなく毒でも飲みそうだな。お人好しは長生きしねぇぞ」

 ヤヨイは笑うでもなく、苦しむヒデの様子をただ頬杖をついて観賞する。そんな言葉も耳に入らないほど、ヒデは必死に吐くまいと口を押えた。本当に毒でも入っていた方が楽になれると心中で悪態をついていると、ふわりと体中から邪気が抜けたような心持になった。その一部始終にヤヨイは満足げに再び煙を吐き出す。

「どうよ。俺のこと見直したか?」

「ホントにお医者さんだったんですね」

(イザナ)に死なれると困るだけだ。ミヤとケイがな。俺は何とも思わん。それに、お前を治すのは薬の力だ。俺の力じゃない」

「でも、この薬を選んでくれたのはヤヨイさんです」

「お気に召したならいつでも飲ませてやる。ただ、病人と怪我人は厄介だから好かん。俺にとってはお前なんかどうでもいい」

 そう立ち上がったヤヨイは既にいつもの無愛想な声に戻っていた。

「俺じゃなく、俺を呼んだアレンさんに感謝することだな」

 白衣を翻して縁側に立てかけていた赤い唐傘を広げると、ヒデには一瞥もくれずに姿を消した。水分を含んだ足音が遠のいたころ、居間から続く襖が開けられた。

「おや、ヤヨイ君は帰ってしまいましたか」

「ちょうど今です」

「それは残念。せっかくお茶を入れたのに」

 そう視線を落とすお盆には湯飲みが三つ、湯気を立てていた。


 翌日、ヒデはまだ布団の中で過ごしていた。アレンによれば少し歩けば紫陽花も咲いているらしいが、まだ出かけて見る気にはならない。相変わらず雨は降り続いたままで、どんよりと垂れる重苦しい雲がヒデの快癒を拒んでいるかのようだった。室内に干すしかない服を眺めながら、いつになったら晴れるのだろうかと天気予報もない生活を久方ぶりに恨めしく思う。

「おやおや、ヒデ君にカビが生えてしまいそうですね」

 布団に転がっているヒデの顔をアレンがくすくすと覗き込んだ。「連日雨では気が滅入りますね」と顔にかかった長い前髪を耳にかける。

「任務ばっかりも大変ですけど、寝てばっかりも退屈ですね」

「私は何もしない時間も好きですよ」

 アレンはそう言うと、縁側に続く敷居のそばに座った。降りしきる雨が青々とした垣根を揺らしている。ここでは周囲の音をかき消すような激しい雨音にさえ静寂を感じられる。

「こうして、ただ呆っと景色を見られるなんて、贅沢だと思いませんか?」

 ヒデは頭をもたげ、アレンの後ろ姿を見た。

 敷居、鴨居、障子で形成された長方形から見えるこの景色を、一体何人の(イザナ)と見てきたのだろうか。今は土の下で眠る(イザナ)も自分と同じようにこの部屋でアレンと大粒の雨を見ていたのかもしれない。同じように笑いかけてもらっていたのかもしれない。そう考えると、今、自分がここでアレンのそばにいる不思議をひしひしと感じた。

「アレンさんは、ずっとこの景色を見てきたんですよね」

「そうですね」

 少し考えるような仕草をして、目を細める。

「私はもう長い間、外の世界を見ていません。ここから見える四季折々の自然が私の生活の全てです。それでも、今の平和な毎日には満足しています。ヒデ君たち(イザナ)が守ってくれているのは、私たち宿家親(オヤ)の平和です」

 布団から這い出たヒデはアレンの横に座り、その顔をわずかに見上げる。それに気付いたアレンは空を仰いでいた視線を向け、微笑みかける。

「風邪を引いても、怪我をしても、ここでゆっくり治せばいいんです。私には、ヒデ君が帰って来てくれることが何よりも大切です」

 ヒデはそんな笑顔に向かって口を開いた。自分が戦っていたのは帝国のためだけではなく、こんな身近な人の日常のためだったのかと、今更ながら気付きを得た。この人が笑っていてくれるなら、それでいい。

「僕は、必ずここに帰ってきます」

「そうしてくれると嬉しいです」

『帰れる喜びを噛み締めるには、まず出かけなきゃならんな』

 アレンは笑顔を崩さず、水を差した無線の主に苦言を呈する。

「人の会話を聞くとは、無粋な趣味ですね」

『まぁそう言うなよ。俺が聞いてるのなんて重々承知してるだろ』

「それはそうですが、ケイ君には情緒というものがないんですよ」

 そう言った途端、珍しく向こう側からゲラゲラと笑う声が聞こえる。

『雅だ、風流だ、はアレンに任せてるもんでな』

「任された覚えはありませんよ。ケイ君もたまにはパソコンじゃなくて豊かな緑を見たほうがいいんじゃないですか」

 アレンが困ったように軽くため息をつくと、再びこらえ切れなかったような笑い声が小さく聞こえた。

『お生憎様だが、そのパソコンを介してヒデに任務だ』

「それはいいんですけど、まだ微熱があるみたいです」

 自分の額に手を当てながら言葉を返す。

『もう一晩寝たら治るだろ。出発までに快復してないならヤヨイに頼むまでだ』

 ヤヨイの悪名高い荒療治の発端はこの人ではないのかとヒデは訝しむ。しかし、それは別にしても「毒かどうかは服用量次第だ」と言っているような人間にこれ以上世話になるわけにはいかない。今度こそ渡ってはいけない川を渡りきってしまうのではないかと、ヒデはそそくさと布団に潜り直した。

 そんな様子を見ていたアレンはふふっと笑って「流石にヤヨイ君も死人は出していませんよ」と諭した。

 助けられなかった命はいくらかあろうが、それでも既死軍(キシグン)で医師という役職を与えられ、長年従事していることを考えると尤もだ。布団からちらりと目だけを出し、助け舟を出してくれたアレンに感謝の視線を送る。

 しかし、アレンが無粋だと評価したケイはその名に恥じぬよう、余計な一言を付け加えた。

『お前が第一号かもしれんがな』


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