38話 まともな人生
事実と、仮定。
相変わらず終電で帰宅したヒデは、コートもそのままにベッドに直行し倒れ込む。今も脈打つ心臓の音が聞こえるようだ。
「聞いてましたか、ケイさん」
『よくやったな』
自分がアルバイトとして働き始めて一か月、やっと蜉蒼に繋がりそうな情報を得ることができた。この情報を得るためだけに慣れない裏世界でせっせと働き、店員たちと信頼関係を築き上げてきたようなものだ。手にした情報は名前だけではあるが、それは今まで既死軍の誰もが聞いたことのない名前だった。
普段通りの振る舞いを心掛けるのに必死で、仕事中に誰とどんな会話をしたのかすら覚えていない。
『那由他という名前を調べてみたんだが、帝国には数人いるみたいだな。今一人ずつ調べているところだ。ありがたいことに、ここ数年で死亡した人数を含めてもそこまで多くない。もちろん偽名の可能性もあるし、本名でも帝国に登録されていない人間の可能性もある』
「帝国に登録されてないって、僕たちみたいな存在ってことですか?」
『まぁ、そうだな』
既死軍の人間は全員が架空の最期を遂げている。とっくの昔に国に死亡届が提出、受理された、公式に死亡が認められている、文字通り生ける屍たちだ。
「まともな人生歩んでない人って意外といるんですね」
『お前のまともの定義を教えてほしいもんだな』
無線の向こうから呆れたような声が返ってくる。ヒデは寝返りを打ち、天井を見つめる。
「大学出て就職して、結婚して子供育てて孫ができて、大往生するってやつですよ」
『この世のどこにそんな人間がいるんだよ』
聞こえてきたのは誰もが子供のときに当たり前だと思い描く未来予想図だ。そんなものを馬鹿正直に、その年齢で言うやつがいるんだなと、ケイは小バカにしたように笑う。
『帝国での去年一年間の大学中退者は七万人、離婚二十五万組、自殺三万三千人、事故死六千人、殺人事件千二百件、行方不明者六千人、不敬罪による逮捕者十五人。安心しろ、まともに大往生できない人間は思ってるよりも多いぞ』
「すぐにそういう数字が出せるケイさんは流石ですね」
『これも仕事の内だからな。ちなみに事故死の六千人には阿清秀も含まれてる』
「そうですか」
ヒデはベッドから起き上がり、他人事のように素っ気ない返事をする。今となっては自分の死因など何の興味もない。
『それで、どうだ。名前以外に何か聞き出せそうか?』
「店長の様子だと、本当に他のことは知らないような感じはします。店の売上が入金されてる口座も外れだったんですよね」
『そうだな。当然足がつかないように売買された口座だった。ヤンの立場からは何か得られると思うか?』
「どうでしょう。みんなヤンに怯えてるから会話らしい会話もあんまりないですよ」
ヒデにとっては面倒見のいい兄貴分のようなヤンだが、関わりのなかった人間がヤンの容赦ない強さを見ると恐怖を感じるのだろう。
『まぁ名前がわかっただけでよしとするしかないのかもな。二兎追うものは一兎も得ずって先人が言ってるしな』
「一石二鳥ってことばもありますよ」
ヒデは笑いながらコートを脱ぎ、ハンガーラックに掛ける。そのまま風呂場に直行して浴槽をスポンジで軽くこする。
『とりあえず、ヤンにも何か探るように言ってはいる。ヒデとは違う角度からの情報が出て来るかもしれんからな』
「そうですね。そういえば川口さんは割とヤンと喋ってますよ。何か知ってるとは思えませんが、あんなところでバイトしてるなんて普通の人じゃないと思いますし」
『ほら、まともじゃない人間なんていくらでもいるだろ』
「そうですね。程度の差はあれ、まともに生きるって案外難しいみたいですね」
ケイの諭すような話し方にヒデは一人頷きながら風呂の蛇口をひねる。すぐに熱そうなお湯が湯気を立てて湯船に溜まっていく。
「お風呂が好きな帝国民ってまともですか?」
ヒデは冗談っぽくケイに話しかける。
『行水だけではなく、湯船につかるのが好きな帝国民は九十三・六パーセントだ』
最早驚きよりも先に笑いがこみ上げてきた。聞けば何でも教えてくれる既死軍の情報統括官はこの世の真理ですら知っているのではないかとさえ思える。
「ケイさんは何でも知ってるんですね」
『何事も知ってるに越したことはないからな』
得意げになるでもなく、ケイは淡々とした口調で答えた。
一方のヤンはと言えば、従業員控室でだらりとイスにうなだれていた。この一週間でタタキとして仕事をしたのはたった二回。イカサマをする店相手に大勝するのはそもそも母数自体が少ない。それを考慮すれば働いたほうだとも言える。
手持ち無沙汰なのはカタスムラでも同じだが、それでも村では細々と家事をしたり宿家親のゴハと喧嘩をしたりとやることはある。ここではぼんやりと天井を見上げるしかできないのが苦痛だった。一週間で得たものと言えばカードゲームを進行する支配人に教えてもらったいろいろなカードのイカサマ方法ぐらいなものだった。
暇なとき、いつもはヒデ相手に軽口の一つも叩くが、今日はとっくに退勤してしまった。ヒデがいない代わりの話し相手と言えば川口だが、その川口も今日は非番らしく姿を見かけない。給仕役を務める黒服のヒデも川口もいない今日は、普段なら事務所に引きこもって出て来ない店長が店に出ている。雨のせいか客が少ないのが唯一彼にとっての救いだろう。
ヤンがパラパラとカードを切っていると、へとへとに疲れた店長が控室に逃げるように戻ってきた。ヤンは軽く「お疲れ」と声を掛ける。ケイからの無線でヒデが「那由他」という人物の名前を聞き出したことは既に知っていた。それ以上の何かを今なら引き出せないだろうかと、じろりと店長の頭からつま先まで視線を動かす。
「藤代さん、黒服できませんか?」
ヤンを視界にとらえるなり店長はオドオドと困り顔をする。ヤンは「契約にないことは一切応じない」とあっさり切り捨てると、いつも見せる意地の悪い笑顔を作り、人差し指と親指の輪っかをちらつかせる。
「もう少し積んでくれるなら考えないこともないがな」
「そんなのあんまりです」
「人心は金でしか動かねぇよ。おっさんならよくわかってるだろ」
呼ばれ方が心外なのか、店長は少しムッとした顔をする。しかし、若者から見ればこんなくたくたにやつれた人間は「おっさん」と呼ぶにふさわしいのかもしれないとすぐに考えを改めた。それでもやはりいささか失礼ではないかと再度自己紹介を試みる。
「わ、私の名前は、加賀谷です」
「なぁ、おっさん」
清々しいほどの潔さで自分の名乗りを無視され、加賀谷店長は「加賀谷さん」や「店長」と呼ばれることを早々に諦めた。
ヤンはヒデが得た情報以上の何かを引き出すことはできないかと極めて自然にこの優柔不断そうな男と会話を始めた。
「働いても楽になんてならねぇのに律儀なもんだな。借金のカタって聞いたけど、いくらあるんだよ。肩代わりでもしてやろうか?」
「いくらお金持ちとは言え、流石に出会って間もない藤代さんにそれは……。ご自分のために使われた方がいいですよ」
「資産は俺が寝てても増えていく。それなら慈善事業でもしてやろうかと思ってな」
ヤンは付け焼刃とは思えない、持って生まれた富裕層の表情をする。金を持たない人間の生活など自分の人生では到底理解できないというような目つきだった。
「おっさんは家族とか、いるのか?」
「妻と娘が」
店長は相変わらずのたどたどしい受け答えをする。一旦言葉を止めると、自分に言い聞かせでもするように「いました」と続けた。
「そういう藤代さんは? まだ若いのに何でこんなところで用心棒の真似なんか」
「俺には持て余すほどの金がある。賭博でいくら使ったところで何の痛手にもならない。それよりも闇に片足突っ込んでスリルある人生を送ってる方がいい」
「そう、ですか」
多少喧嘩に強いとは言え、根っからの道楽息子なのだろうと店長はその発想が少しもわからないとでも言うように伏し目がちに答えた。
「ところでおっさんはその嫁と娘のこと、どう思ってんだ?」
視線を落としたまま、やつれた男は黙りこくる。言いたくないのか、言葉を選んでいるのか、もごもごと口を動かす。そしてしばらくの後、秒針の音だけが聞こえる小さい室内に店長の声が重なる。
「時間を戻せるなら、ちゃんと向き合いたい。賭博なんかに手を出さないで、まじめに、普通の家族として」
店長の精一杯の懺悔にも似た後悔をヤンは精一杯の侮蔑を込めて嘲笑する。
「賭博は依存症、れっきとした病気だ。時を戻したところでおっさんには同じ未来しか残されてねぇよ」
「けど、今はもう、真っ当ではないにしてもここできちんと働いて、賭博もしていません。金はありませんが、昔の自分よりマシだと思っています。もし戻ってやり直せるなら」
店長は必死に自分は更生したとでも言わんばかりに矢継ぎ早に言葉を続ける。だがそんな弁明もむなしく、ヤンに再び鼻で笑われるだけだった。
「『けど』とか『もし』とかって言葉でいつまでも過去の自分を肯定してろ。過去は変わらない。それなのに、未来を変えようとしないおっさんの考え方には反吐が出る」
自分は現在と未来だけを見て生きてきたつもりだった。もし過去に戻れるならなどと考えたところでそれが実現することはあり得ない。そんなことは子供でもわかっているのに、それでも夢物語にすがるしかない目の前の大人を哀んだ。
「おっさんの好きな『もし』で始まる話をしてやるよ。おっさんの給料なんてほとんど組織に巻き上げられてんだろ? もし、俺がおっさんの稼いだ金取り返してきてやるって言ったら、どうする?」
「そ、そんなの無理ですよ」
店長は慌てふためいた様子で両手と首を横に振る。ヤンの身を案じてなのか、自己防衛なのかはわからないが、必死にヤンの提案を否定する。
「藤代さんは確かに強いです。それでも、無理です。私が借金した組織の後ろにはヤクザ以上の何かがいるように思えてならないんです」
「ヤクザ以上の何かってなんだよ。国家権力か? 皇か? それとも、テロ組織か?」
冗談交じりに選択肢を与え、店長の表情のかすかな変化を探る。案の定、「テロ組織」という言葉にわずかながらも反応を見せた。
「テロ組織とお友達とは、おっさんも悪人だな」
ヤンはにやりと笑う。
「仕切ってる人間は誰だよ。名前は? 居場所は? 簡易闇金だとしても連絡先ぐらい知ってるだろ」
決まったように目を泳がせながら口ごもる店長がやっと口を開こうとしたとき、ベルが鳴った。客が何かを注文した合図だ。店長は助かったとでも言うようにヤンを一瞥すると控室を小走りで出て行った。
姿が見えなくなったのを確認すると、ヤンは小声で声をかける。
「どう思う?」
『この前加賀谷の家を捜索した時は』
「いつの間にしたんだよ」
ケイの言葉を遮ってヤンは声を出さずに小さく笑う。無遠慮に家に上がり込む誘も、それに気づいていない店長も滑稽に思えた。そんな笑い声をケイは「当然のことをしたまでだ」と言わんばかりに無視をする。
『家からは目ぼしい情報は見つからなかった。通話履歴を当たっても口座と同じで当てにはならない』
「何だよ。頭打ちか?」
『ここで限界のつもりはないがな』
「けど、もうここに執着する必要もないだろ。関係者の捜査も終わったんだよな?」
『もちろんだ。じゃあ、そろそろ実行にでも移すかな』
「とっととそうしてくれ。ここは暇すぎて気が狂いそうだ。早く帰りたい」
『ゴハにヤンが恋しがってるって伝えといてやるよ』
「どう解釈したらそうなるんだよ」
ヤンはしばらく会っていない好敵手の顔を思い出し、かすかに笑った。




