37話 雑踏の寂寞(せきばく)
また、あした。
ヒデは元気よく「おはようございます」と誰に言うともなくあいさつをしながら従業員控室に入った。朝も夜も存在しない不夜城では、何時であろうと関係なく出勤のときは「おはようございます」と決まっている。
「よお、バイトくん。今日からよろしくな」
そう言えばそうだった、とヒデはいすに座る知った顔に向かって呆れたように笑った。今日からヤンが「同僚」として働くことになっていた。
「安野秋也です。よろしく」
壁に耳あり障子に目ありという言葉を警戒しながら、他人行儀な初対面のあいさつをする。いつのまにかヤンに対して丁寧な言葉遣いをしなくなったなと、久しぶりに無関係の人間同士になって初めて気がついた。なかなか見る機会のなかった前髪を横に流しているヤンの髪形も、ここでは見慣れたものになってしまった。
「藤代さんのことはよく知ってます。用心棒、するんでしたよね。店長が配当金払うより安いって喜んでましたよ」
「だろうな。俺を一年雇ったところで千八百万だ。俺が得るはずだった金の一割にもならねぇからな」
ヤンは話し相手を得て嬉しそうに会話を続ける。潜入捜査では嘘で塗り固めた架空の人物を演じ続けなければならない。既死軍の人間に会って話せるのはそれだけで安心感が得られる時間だった。
ヒデは小さいロッカーに荷物を押し込み、黒いベストと黒いネクタイの制服に着替え始める。ヤンは私服のまま相変わらず暇そうに天井を仰いでいる。
「用心棒と言っても、実際は何するんですか?」
「何するんだろうな。タタキも毎日やってるわけじゃねぇだろ」
「そうですね。勝った人全員にしてるわけでもないですし、治持隊に駆け込まれても困りますし。僕はその境がどこなのか知らないので、店長に聞いてみたらいいんじゃないですかね」
「店長か。あんなオドオドしたやつがよくもまぁこんな闇賭場の店長なんかやってるよな。もっとヤクザ者かと思ってた」
ヤンは店長が引きこもっているであろう事務所の方に視線を向ける。店長という人間の存在は、ヤンが今日紹介されて初めて知ったほど目立たず、表に出て来ないような人物だった。てっきり自分を襲ってきたタタキたちを率いていた男かと思っていたヤンはその陰気さに面食らったのだった。
「色々事情があるみたいですよ。僕も詳しくは知らないので、興味があれば川口さんに聞いてみてください」
ヒデはネクタイを締めながらさりげなく情報源を伝える。傍から見ればただのアルバイト同士の会話だが、貴重な情報交換の時間だ。お互いに毎日ケイから情報が入って来るとは言え、直接得られるに越したことはない。
「川口って黒服のもう一人か。他にはいないのか?」
「今働いてるのは店長と各遊技台の支配人、キッチンさん、あとはアルバイトの川口さんと僕だけです。最近事故とか怪我とかが重なって二、三人いた人たちみんな辞めちゃったんですって。僕も事故に遭った人からのツテで働き始めたんですよ。あと藤代さんにやられた人たちもしばらく欠勤なので、おかげでここ数日は人手不足です」
詳細は聞いていないが、どうせその事故や怪我には既死軍が関わっているのだろうとヤンは理解する。いったいどこまでがケイに仕組まれた筋書きなのだろうか。
既死軍は一介の誘ごときが全貌を知ることができるほど単純な組織ではない。情報統括官であるケイは当然把握しているに違いないが、しかし、それでも頭主さまの秘書を務めるミヤという男がいる限り、ケイのあずかり知らぬところで、ということも多々あるだろう。
とりあえずは自分の任務をこなして無事に堅州村に帰るだけだとヤンはヒデの嫌味に言葉を返す。
「そりゃ悪かったな。お詫びに俺も黒服してやろうか」
「藤代さんにサービス業は向いてないと思いますよ」
人手不足からくる多忙な日々を過ごしていたヒデはその原因を作ったヤンに皮肉を込めてにっこりと笑顔を向ける。
「暇つぶしにお上手な賭博でもしてたらどうですか?」
それから数時間後、ヤンの初仕事は酔っ払いを摘まみ出すという一般人でも対応できそうなものだった。自分の生きている世界が明るいものではないとは言え、それにしてもどうしてこうもクズみたいな人間ばかりが視界に入ってくるのだろうかと大人への嫌悪感をあらわにする。
男を追い払い、従業員控室に戻ると丁度ヒデが帰宅しようと着替えているところだった。
「上がりか?」
「僕、基本的には終電で帰るので。今日は川口さんが八時ぐらいまでいますよ」
「そうか。じゃ、また明日な。気を付けて帰れよ」
堅州村では用がなければわざわざ会うことはない。こちらの世界では誰もが気軽に口にする「また明日」というあいさつが何だか不思議な言葉に聞こえた。明日さえわからない日々を過ごす自分たちにはそぐわないような気もする。しかし、目一杯の一般的な別れのあいさつを交わした。
「藤代さんもお気を付けて。また明日」
ヒデはそう言うと部屋を出た。そのまま薄暗い人気のない雑居ビルの立ち並ぶ通りから明るく開けた人ごみに混じる。終電間近の駅は帰宅しようとする人たちでごった返している。
阿清秀はこの雑踏に紛れる瞬間が好きだった。ここにいる誰もが自分の名前も、生い立ちも、何もかもを知らない。大勢の一般人に混ざっていれば、自分も同じく一般人になれるような気がしていた。自分を安心させるための手軽な空間だった。自分が孤独だと思ったことはなかった。誰にも理解されるわけがない、理解されたくもない。同情も称賛も、全てが煩わしかった。
しかし数週間前、ヒデという身分を捨て有象無象の一人になったとき、ヒデは初めて孤独というものを感じた。堅州村に住み始めて早一年。それは常に誰かがそばにいる生活だった。堅州村では宿家親が、任務では誘が、手を伸ばせば触れられる距離にいた。怪我をすればアレンには心配され、ヤヨイには怒鳴られる。手柄を上げれば誘からもケイからも褒められる。いつも誰かが「ヒデ」という人間の言動を気にかけている。そんな日々が当たり前になっていた。
過去と現在という比較対象ができて初めて、孤独は寂しいものなのだと感じたのだった。
ヒデは店から数駅離れたところで電車を降りる。どこにでもある住宅街の、どこにでもあるワンルームマンションが安野秋也の家だ。
鍵を開け、真っ暗なだれもいない空間に向かって「ただいま帰りました」と最早習慣化してしまった帰宅のあいさつをする。そのまま台所に直行し、道中にある二十四時間営業のスーパーで買ってきた食料品を冷蔵庫に入れながらケイに無線を飛ばす。
「ケイさん、帰りました」
『お疲れ様』
少し眠そうな声でケイが返事をする。機械だらけの部屋で、座ったままうたた寝をしている様子がヒデの眼前にありありと浮かぶ。
「今日も特に収穫はなしです。ヤンは三時ぐらいにタクシーで帰るらしいです」
『頑張って働いてたか?』
「まぁ、ヤンの仕事はいつも僕らがやってることと同じですからね」
『それもそうだな』
ケイはわずかに笑うもすぐに口角を下げ、言葉を続けた。
『蜉蒼の糸口になるかと思ったが、どうやら厳しそうだな。資金源が潰せるならそれだけでやる価値はあったが』
「流石に表立って店に出てる人たちは使い捨ての駒ばっかりって感じです。やっぱり蜉蒼はそう簡単に尻尾を出さないんですね。知っているとしたら店長、かな」
ケイの声色につられてヒデも小さくため息をつく。
『それはそうと、何か生活で不自由はないか?』
「大丈夫です。おかげで快適そのものです。既死軍に入るまではこんな便利な生活してたんだなって、文明の利器の恩恵を享受してます」
『そりゃよかった。現代人よろしく時間に追われる生活を楽しんでくれ』
「わかりました」
ヒデはふっと笑って無線を終える。
堅州村は時代に取り残された場所ではあるが、その代わり時間がゆっくりと流れている。一方、ここでは誰しもが「時は金なり」と言わんばかりにあくせく生きている。便利さとは自由を得るための知恵ではないんだなとヒデは服を洗濯機に放り込み、予約ボタンを押した。
従業員控室の時計が夜中の三時を差す。これと言って新しく知ったこともない一日だったなとヤンは腰を上げた。控室にたまにやって来る従業員に探りを入れてはみたものの、流石に来たばかりのヤンにぺらぺらと喋る人間はいなかった。数人はヤンに怯えているようにも見えたが、「怯えなきゃいけないようなことをしたのはそっちだろ」と反対に呆れかえるのだった。
することがないのも疲れるものだと店長のいる事務所をノックする。
「藤代だ。入るぞ」
返事を待たずにドアを開け、店長を視界にとらえる。パソコンの前で携帯電話を見ていた店長は慌てた様子で視線を用心棒の男に向ける。その目からは恐怖心が見て取れる。
「ふ、藤代さん。お疲れ様です」
「約束の時間だ。給料もらって帰るぞ」
「わかりました」
店長は部屋の隅に置かれている金庫のダイヤルを回し、現金を手にする。
「どうぞ、お約束通り五万円です」
ヤンは厭味ったらしい笑みを浮かべ、「人を騙して、ちょろい商売だな」と金を受け取った。店長は何か返事をしているのか、伏し目がちにぼそぼそと小さく言葉を発している。
「おっさん、肝も据わってないくせになんでこんな事やってんだよ」
「そ、それは」
「返事はいい。興味はねぇからな」
ヤンは吐き捨てるようにそう残し、事務所を後にした。ヤンの嫌いなタイプの人間だった。自分の行動に責任も自信もないというのは何よりも理解しがたい性格だ。既死軍にはそんな人間がいないだけに、そばで見ているだけでイライラが増長する。
ビルを出たヤンはそんな負の感情を吐き出すようにゆっくりとため息をついた。流しのタクシーを拾い、自宅へと向かう。深夜三時過ぎ、堅州村なら月と星だけが頼りの真っ暗な闇が広がる時間帯だ。しかし、ここでは時間に関わらずそこかしこに電気がついていて、星はうっすらとしか見えない。
人生の長さからいえば、この景色の方が見慣れているはずだ。それでも今となってはよそよそしい雰囲気で、他人の目を通して見ているような気さえしてくる。
都会はやっぱり気に食わないなとヤンは座席に座り直した。
ヤンが用心棒として働き始めてから一週間、ヒデもヤンも変わり映えのない毎日を送っていた。ヒデは既にアルバイトとして一か月を過ごしている。こんなに長く堅州村を離れるのは初めてだった。日々募る早く帰りたいという気持ちを抑えながら、任務の終わりを待っていた。
激しい雨が降る夕方、いつもならこれから忙しくなる時間帯だが、この天気では客足は見込めないだろうとヒデはキッチンでグラスを拭いていた。
「店長、僕の給料上がりませんか? 毎日忙しいのに時給三千円じゃやってらんないですよ」
ヒデはフリーターらしい愚痴をこぼし、自ら掃除を手伝う店長を見た。いつも青白い顔をしている店長は一層顔色を悪くしながら苦笑する。
「安野君は、わ、私に決定権があるとでも思っているんですか?」
「お金の流れなんて僕は知らないですよ」
次のグラスを手に取り、ヒデは口を尖らせる。アルバイトで得た給料は自分の物にならないとは言え、治持隊に捕まるかもしれないというリスクを抱えながら時給三千円で働く安野秋也という架空の人間を不憫に思った。
「この店の売上は全部組織の物だから私にはどうしようも……。安野君も川口君もよく働いてくれるし、感謝はしていますが」
店長は言葉を詰まらせながら話を続ける。
「安野君は、こんなところで働かないで真っ当なアルバイトをした方が、い、いいんじゃないですか」
「僕は楽して手っ取り早くお金が欲しいだけです」
「捕まるかもしれないんですよ」
「じゃあ、何で店長こそ捕まるかもしれない仕事やってるんですか? 『店長』なんて肩書じゃ、何かあった時タダじゃ済まないですよね」
「私は、その、う、噂で知ってるでしょう?」
「ああ、借金のかたに、ってやつですか?」
「そうです」
唇を震わせながら目を泳がせる。幸の薄そうな顔から更に血の気さえ消え失せていくのが見えるようだった。
「トゴ、というやつです。給料はほとんどを持って行かれるのに借金は膨れ上がるばかりです」
「臓器とか売った方が早いんじゃないですか? あとは保険金掛けて大怪我するとか」
ヒデは返せる見込みもないのに、なぜこんなにまじめに働いているのかと不思議そうに首をかしげる。働いても返せないならいっそのこと体の一部を失ったほうが話が早いのではないかと、一年前には想像もしなかったようなアイデアが口をついて出た。しかし、いつもならヤンに向けられている怯えた視線が今は自分に向けられていることに気付くと、「冗談ですよ」と言葉を濁した。
ヒデの言葉にしばらく押し黙っていた店長だったが、皿を拭く手を止めると重々しく口を開いた。
「借金をチャラにする代わりに店長をさせられてるんです。治持隊が来たら逮捕されて、それで、終わり。ここを運営している組織の足がつかないように使い捨て、いわゆるトカゲのしっぽ切り、犯罪組織の氷山の一角です。私が捕まったところで組織には何の影響もない」
きっと誰かに聞いてほしかったのだろう。ヒデには心を許したのか、語尾をか細くしながらも自分の置かれている状況を説明する。
「その組織って、どこなんですか」
やっとのことで聞きたかった情報の糸口をつかんだ。ヒデは至って冷静に、できるだけ平常心を装って質問をした。しかし、店長は首を横に振る。
「詳しくはわかりません。末端の人間なんてこんなものです」
「僕だって捕まるかもしれないんですよ。何か知ってることがあったら教えてください」
話題を終わらせまいとヒデは畳みかけるように言葉を続ける。店長はいつものように定まらない視線のままで、知っていることを教えてもいいものか考えあぐねているように見えた。脂汗か、冷や汗か、店長の輪郭から一滴がこぼれると、こわごわと沈黙を破った。
「そ、組織のことは知りません。ただ、私が借金を返しているのは那由他さんという方です。本名なのか、それとも偽名なのかはわかりません。他の方がそう呼んでいるので、私も那由他さんと呼んでいます。会ったのは一度きりですが、ちょうど安野君ぐらいの若い青年でした」
ヒデは高鳴る鼓動を感じながら、ケイが寝ずにこの会話を聞いているよう祈った。




